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番外編:あのころ

 「姉ちゃん背ぇ縮んだ?」

 学校帰りにたまたま一緒になった姉に、僕はふと思いついて言う。

 「はあ?」千春が振り向いていう。「春樹が伸びただけでしょ?」

 「そうかな?」

 「うん」

 そう言うと千春は僕の前に立ち、翻した手の平を、もう同じくらいの背になった僕の頭の上に乗せ、むうと不服そうな表情を浮かべる。

 「姉ちゃん、背ぇ止まるの早過ぎじゃね?」

 「そんなん知らないし」

 「夜更かしし過ぎだろ? ずっとスマホ見てる。ずるい」

 「いいじゃんあんたも来年もらえるんだから。つか関係あるの?」

 「あるよ。睡眠のゴールデンタイムは十時から二時って姉ちゃん自分で言ってたんじゃん?」

 「そうだっけ?」

 「そうだよ」

 「でもそれ多分違うよ。だってクラスに秋山くんって中一で百七十センチある子がいるんだけど、その子小三の時から夜更かししてたって言ってたよ」

 「は? 姉ちゃん自分で言ってたんじゃん」

 「そうだけどわたしまだ子供だしそりゃ間違ったこと覚えたり言ったりするんじゃない?」

 「何それ信用できないよ」

 「いいんだよ信用できなくて」

 「姉ちゃん信用できないんなら、俺は誰を信用したらいいんだよ」

 そういうと千春は目を丸くして、嬉しそうにニヤニヤしだす。「え? なにお姉ちゃん信用してくれてたの?」

 「え? ああ、いや」

 「信用しなくていいんだよ。言葉や理屈や知識なんてのはね、誰のものだとしても、信用しちゃダメなんだよ」

 「何それ意味わかんねーよ」

 「世間の皆が心から本気で信じてるようなことだって、簡単に覆されたりするんだよ。昔の人はみんな太陽が地球の周り回ってるって思ってたっていうじゃない」

 「は? 何それ知らないし」

 「え? テンドーセツも知らんの?」千春は表情に優越感を滲ませる。

 「え、あ」僕は天動説という言葉にようやくピンとくる。「知ってるよ。こないだ一緒にテレビで見た奴だ。ほらあれ、ガリレオ・ガリレイだろ?」

 「え? あ? まあ、うん」千春は首を捻って言う。何その反応。「何が言いたいかっていうとね。国中の人が信じてるようなことだって、本当は嘘だったりするの。だから、知識とか理屈とか言葉とか、そういうのって、信じちゃダメなんだよ」

 「じゃあ何を信じたらいいんだよ」

 「言葉じゃなくて、お姉ちゃん自身を信じたらいいんだよ」

 なんてことを真顔で言うので僕はなんと返したらいいか分からない。

 「でも昔の人ってバカだよね。太陽が回ってる訳ないじゃん」千春はけらけら笑う。

 「いや太陽は回ってるでしょ」僕は言う。

 え? と姉は黙り込んで僕の顔をまじまじ見詰める。

 「いや回ってないでしょ。なになに、あんたテンドーセツ信じてるの?」

 「そうじゃなくて、地球も回ってるけど、太陽も回ってるんじゃない?」

 「は? バカじゃん?」

 「バカじゃねーし」僕はムキになって反論する。「つか間違ってるのは姉ちゃんだろ? 太陽だって天体なんだから回ってて当然じゃん? 回ってる太陽の周りを地球が回ってるんだよ」

 「え? 嘘でしょ?」

 「嘘じゃないよ」

 「わたしそんなの聞いたことないもん。あんたが間違ってるよ」

 「でも姉ちゃん、ガリレオ・ガリレイは知らないんだろ?」

 千春はぐうと黙り込む。ああやっぱりそうだったんだ。

 「ほ、本当なんだろうね、それ? からかってんじゃないだろうね?」

 「本当だよ」

 「そ、そうなんだ」姉は自分の無知を知ったとばかりの顔で俯いた。「そっか。考えてもみれば、月だって回ってる地球の周りを回ってるんだもんね」

 「そうだよ」

 「じゃあさ春樹。太陽って何の周りを回ってんの?」

 「え? いや」僕は返事に困る。「何もないんじゃない?」

 「何もないってことないでしょ。もっと大きな星の周りとかじゃない?」

 「いやそんなん知らんし。何もないところを回ってるんだと思うよ」

 「え? でも何もないところを回るって……どうやんの?」

 「簡単だろ」僕は指先を突きつける。「姉ちゃん、回ってみて」

 「は? こう?」千春はその場でくるくる回り始める。

 「そうじゃなくて、円を描くように」

 「え、あ、うん」

 千春は円を描くように、歩道をくるくる回り始めた。何の疑いもなくそういうことを言われるがままにしている姉を、好きだな、と、僕は素直に思った。

 「ほら、何もないところを回ってるじゃん」

 「でもさあ春樹」千春は回転しながら言った。「なんか中央の目印がないと、こう、その内ずれて……」

 走って来た自転車が千春の身体に激突し、千春はその場を一メートル飛んで蹲った。

 「ね、姉ちゃぁああんっ!」僕は千春に駆け寄る。

 「ふらふらしてんなよ!」千春と同じ中学の制服を来た男が言った。「危ねぇな!」

 くるくる回ってる千春に気付かなかったか、気付いた上ですり抜けようとしたらしい。悪びれた様子もなく走り去っていく。

 「姉ちゃん姉ちゃん大丈夫? 大人の人呼ぼうか?」

 「……えよ」

 「は?」

 「追えよ!」千春は僕の方を見て涙目で吠えた。唾飛んだ。「逃げてったさっきの奴追えよぉ! お姉ちゃん轢かれて怒んないのあんたは? 男でしょ!」

 悔しかったらしい。痛い苦しいよりそっちの方が上回っているならそれは良いことなのかもしれないなとか思いつつ、僕は姉の剣幕に怯えて従った。

 「ちょっと、ちょっとおまえ!」年上の人に『おまえ』なんて言っちゃってる自分が新鮮だが、不思議と恐怖はなかった。「おまえ、謝ってけよ!」

 走っていく男はそこで煩わしそうにこちらを見て、自転車を停めて言った。「……ごめん」

 あれ? あっさり? ひょっとして悪い奴じゃない?

 思いながら僕は走って男に追い付く。「……こっち来いよ。本人に謝ってけよ」

 「あ、うん」男は自転車を降りて従う。「謝るけど、でもおまえ年上にその口調中学来たらボコられるからな」

 とぼとぼ歩いて千春のところに来た男は、千春に渋々の「ごめん」を口にし、それから本気の「大丈夫?」を口にした。

 「……大丈夫」千春はその場で腰を着いて言った。息が荒れていて、なんだか本当に苦しそうだ。思いっきり腹にハンドルがぶつかっていたし、膝は擦りむいているし、それなりに重症だろう。

 「本当に?」

 「うん」千春は膝を抱える。「弟が心配してくれたし、怒ってくれたから」

 僕は「え?」と変な声を出して千春と男を交互に見る。

 男は「なんか本当にごめんね」と言ってから自転車に乗って立ち去って行った。

 僕は千春に駆け寄り、座り込んで肩に手をやる。「姉ちゃん。スマホ貸してよ。母さんに電話するよ」

 「良いよ本当に大丈夫だから」千春は言う。「春樹も怒ってくれたし」

 「怒ったのは姉ちゃんが言うから……」 

 「あんたは自分で怒ったの」千春は言う。

 「え? いや姉ちゃんが怒れって言ったんじゃん」

 「あんたは!」千春はムキになる。「あんたは自分で怒ったの!」

 僕は驚いて、なんと言っていいか分からない。

 それから千春は押し黙ったかと思うと、ふとこちらを見て、僕を引き寄せてぎゅむと抱き着いた。

 「う、うわ」僕は驚く。「ちょっと、やめろよ」

 「なんで? ありがとう、ってしてるんだよ春樹」

 「そういう年じゃないだろ俺ら」

 「あ? なに、なに基準?」

 「姉ちゃんもう乳でかいじゃん」

 あれ僕は何を言ってるんだ何を言ってしまったんだと思っていると、千春の方も何を言われたのか分からなさそうな顔でこちらを見た。「は? なに春樹お姉ちゃんのことそんなやらしい目で見てんの?」

 「見てないよ!」これはムキにならざるを得ない。「つか、もしやらしい目で見てるんなら、抱き着かれたらそのままにしとくだろ。嫌がるってことは見てないんだよ。だから離れろよ」

 そう言って僕の方から強引に離れる。千春はなんだか不服そうに眉を顰めると、非難するような媚びるような口調で言った。

 「ねえ。お姉ちゃん可愛い?」

 「は? ブスだし」

 千春はむっとする。それから僕の肩を抱き、無理やりこちらを向けてからもう一度言う。

 「ねえ、お姉ちゃん可愛い?」

 「ブスだっつってんだろ?」

 千春は僕の頬を掌でぺちっと叩く。

 「何すんだよ」

 千春は僕の肩を掴んだまま、じっとこちらを見詰める。透明な大きな瞳。白い肌。薄い唇は桜色で、頬にはいつも朱がさしている。

 「最後のチャンス。お姉ちゃん、可愛い?」

 僕は不承不承な顔をどうにか作る。「可愛いんじゃない?」

 「だよねー!」けらけら笑いながら僕を開放する千春。「んじゃ帰るべ」

 そう言って満足げに歩き出す姉に付いて行き、僕は言った。

 「姉ちゃん。じゃあちょっと一応聞くけど、俺はどうなん?」

 「どうなんって?」

 「どうなんってって……」

 「恰好いいかって?」千春はバカにしたみたいに笑う。「あははキッショぉ」

 「あ?」僕は絶句し、歩みを止める。「……なんだよ。人には可愛いとか言わしといて自分はそうな訳?」

 ふてくされて下を向いた僕に、千春は慌てた様子で駆け寄る。「ごめんごめん。春樹は可愛いし優しいしお姉ちゃん大好きだよ」

 「いや……うん。いいよ。ふーん、あっそ」

 「大丈夫」千春はうんと優しい顔をした。「春樹はまだ小学生でしょ? これからたくさん恰好良くなるんだよ。お姉ちゃんずっと待ってるから。でも……さっきはちょっとカッコよかったし嬉しかったよ」

 そう言って姉は僕の繋ぎ、歩き出す。僕は姉に言われたことが少し……いやかなり嬉しくて、喜んでいる自分がなんだか恥ずかしくて、それから姉の手を強引にほどいた。

 「なぁに」姉は困った顔。「手をほどくのが恰好良くなることなの?」

 「うるさいな」

 「はいはい」

 姉は少しも傷付いた顔をしていなくて、献身的な微笑みを続けたままで、そのことがなんだか気に入らなく感じたりもする。

 喫茶店でぼんやりこんなの書いてしまった。

 どうやら俺は白瀬千春というキャラを結構気に入っているらしい。

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