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姉妹、廃病院を探索しない 2

 △


 スマホのライト機能に頼りながら病院の廊下を歩く。タイルの上には泥や砂でできた足跡がいくつか付けられていて、その中に茜自身のものもある。割と色んな奴が肝試しに来るのだろう。

 自分のスマホの他に灯かりなどありようもない。病院内というのは結構入り組んでいて、天井は意外と低く、あたりは埃っぽく時に湿っぽい。奥へ進めば進むほど胸の奥でちりちりというスリルが溢れだして来た。

 『産婦人科』と書かれた壁を曲がった時だった。

 「あんぎゃあ。あんぎゃあ」

 赤子の鳴き声が聞こえて来て茜はごくりと唾を飲み込む。本当に聞こえたのかどうか明瞭でなく、耳を澄ませると確かに聞こえる。赤子の鳴き声、それも母親を乞うような切実で悲壮なそんな泣き声だ。

 恐る恐る声のする方へ歩いて行くと、声は確かに大きくなって来た。茜は一瞬、これ以上こちらに向かうかどうかを迷う。何かとんでもなくおぞましいものが自分を待ち受けている気配がしたのだ。ここへ引き返すべきなのではないか?

 しかしその賢明な判断を茜が取ることはできなかった。

 『怖いもの見たさ』という言葉がある。あれは好奇心を抑えきれないというよりは、恐ろしい物の存在を感じた時に、その正体を見極めて恐怖を克服したいという克己心の現れなのではないか? 目を背けて逃げ帰っただけでは恐怖は心に残る。それを避けたいのが人の性、危険があると知りながらそこにおびき寄せられずにはいられないのだ。

 「あんぎゃあ。あんぎゃあ」

 声に導かれた茜が分娩室の扉を開ける。

 分娩台の上で鳴き声を発していたのは、血まみれの赤ん坊!

 「きゃああああ!」

 茜は絶叫して尻餅を着く! 血まみれの赤ん坊がぎょろりとした視線を茜の方へ向けていた。手足は引きちぎれ分娩台の下にまき散らされており、傷だらけの全身は何が尖ったもので幾度も貫かれた後のようだ。痩せ細ったその体は赤ん坊というよりは摘出された水子のようにも見えた。

 「きゃあああ。怖い怖い怖いぃいい。怖いぃいい」

 茜は背後に視線をやる。

 「ねぇ見てくださいよ紫子ちゃん緑子ちゃん。血まみれの赤ん坊ですよねえねえ、怖いですねぇこんなに怖いのってないですねえHAHAHA私の考えた仕掛けも大したものでしょうそうでしょうそうでしょう」

 返事はない。 

 返事は、なかった。

 「……はああ」

 気持ちを落ち着ける。

 茜は冷静に立ち上がり、血まみれの傷だらけにペイントした赤ん坊の人形を持ち上げる。

 分娩台の裏に置いてあるスピーカーの電源を落とし、分娩台にちょんと腰かけてから、ふうと息を吐き出してから呟いた。

 「むなしい……」

 むなしい茜だった。


 △


 しばらく分娩台の上で拗ねていた茜だったが、時間がもったいないだけだと気付いて立ち上がった。

 「一人でもうちょっと遊んでいきましょうかねぇ。いやあでもこの病院もう散々一人で探索したんですよ。地図まで書いたくらいで……」

 自分の知り尽くしたところに人を連れて来て、迷ったり悩んだり怖がったりするのをおもしろがるのが好きなのだ。あまり良い性格をしていない自覚はある。

 「しかしシンプルながら割と良い仕掛けだと思うんですよねこれ。胡桃くんでも呼び出しましょうか?」

 いやダメだ。アイツは割と肝が太い。茜の悪戯にも馴れきってしまっているので恐ろしく冷静に対処するだろう。怖がる振りをするくらいのサービス精神はあるが、そんなのを見せられても面白いはずがない。

 「やっぱりあの双子がちょうど良いんですよ。どれだけ悪戯を仕掛けても新鮮に驚いて怖がってくれるのはあいつらくらいなんですから。……はぁあ。何かこう、世にも善良な人格を持った可愛らしいカップルでも歩いて来てくれないでしょうか」

 思いながら、分娩室の扉を開けたその時だった。

 「ちょっと意外ですよね。廃病院の探索だなんて、瑠璃さんがそんなデンジャーな遊びを提案するだなんて」

 温かみと柔らかさのある声である。明るく穏やかな、保母さんだとか看護師さんだとかが子供をあやす時のような雰囲気だが、不思議と媚びる感じもしない。女の茜でも聞き惚れてしまいそうな女性的な美声だった。

 「千春ちゃんといるとちょっと悪いことしたくなっちゃうの。気が抜けちゃうというか、自分の知らない自分を呼び覚ましてくれる感じ」

 こちらは透き通って瑞々しい声である。声量を込めなくてもハキハキと伝わる優等生然とした声音だ。それでいながら少しあどけなくて甘えた感じもあるのは、話し相手に対する親愛を反映しているのか。

 「瑠璃さんが楽しんでくれるなら何より。門限まではまだあるのでしっかり探索して行きましょう」

 「うん千春ちゃん。だいぶ暗いし、手を繋いでおかない?」

 「かまいませんよ瑠璃さん。そうしましょう。あなたってば本当は結構甘えん坊ですねぇ」

 「逸れたりしたら大変だし、こうしてた方が良いと思うの。ほらわたしって方向音痴じゃない? 千春ちゃんもこうした方が安心でしょう?」

 「小さい時、弟と二人で夜の林を歩いた時も同じことを言われました。本当は怖くてわたしを頼りにしているのに、変な理屈を付けたがるんですね。可愛らしい強がりでしたよ」

 「そんなんじゃないってぇ」

 「ふふっ。でも手はしっかり握っておくべきだと思います。足元にも注意しておきましょう」

 懐中電灯を持った少女が千春、その手を握りしめているのが瑠璃というらしい。背は同じくらいだが瑠璃の方が数センチほど高い。二人とも百五十センチの中盤か前半くらいで、ほっそりとしている。どちらも整った顔をしていたが、千春の方はとびぬけた美少女だった。

 手を繋ぎ合って廊下を歩く二人のやり取りは穏やかで、歳の近い姉妹のように仲睦まじげだ。二人でいるのが心底楽しそうに微笑んでいる。

 仲の良い友達二人で肝試しに来たというところだろう。どちらにせよこれは……。

 「やるしかないですね」

 茜は分娩室のドアを少し開けたままにし、二人のやり取りを覗けるようにして置いた上で、スピーカーの電源ボタンに手を当てた。

 近づいて来たら、ボタンを押して、怖がらせる。

 茜がいることに気付いていない二人は楽し気にやり取りしながらこちらに歩いてきている。

 「ねえ千春ちゃん。ここって本当に『出る』らしいね」

 「ユーレイですか?」

 「うん。施設の皆、噂していたの」

 「瑠璃さんはそう言う噂を否定せず穏やかに聞き役になってあげながら、内心では冷静な見解を持っているタイプでは?」

 「結構信じてるのよ?」

 「そうなのですか?」

 「ええ。だって二日前、実際にここに行って帰って来た人が、廊下を走り回る足音を聞いたって言っていたんだもの。暗闇の中に、女の人の後ろ姿を見たって。嘘を吐くような人じゃあないの」

 そいつは多分嘘を吐いてない。二日前なら下見に来た茜が意味もなく走り回っていた時だからだ。長い廊下を見るととりあえず走りたくなる。

 「そうなのですか? その人はとても怖い経験をしましたね。どなたか他に肝試しに来ていた女性と遭遇したというのが合理的でしょうけれども」千春はとても冷静な推察をした。

 「それはちょっと無粋じゃないの?」

 「そうかもしれません。でもアタマでそうと分かっていながら、無暗に騒ぐこともないでしょう。幽霊の有無に関わらず、この暗闇と閉塞感は十分なスリルを齎してくれるのですから、それを楽しめばいいんです」

 「わたしもアタマでは幽霊なんているはずがないって分かってるんだけど、でもね、暗いところにいたりすると、たまにすごく怖くなることがある。そうなると現実的な理屈なんて関係ないんだよね」

 「気持ちはとても分かります。暗闇を怖がる人の本能が、非現実的な空想をさせてしまうのでしょうね」

 「千春ちゃんの目線ってなんだかクールよね? いつも冷静ですごく頼りになっちゃうんだけれど、オカルトに対して俯瞰的というか」

 「今時の子は多分だいたいわたしみたいな感じだと思いますよ」

 「えぇー? 私が変って言いたいの?」

 「瑠璃さんは十分に知性的ですし、バランスの取れた見解の持ち主だと思います。ただ、ずっと施設の子供同士で生きて来た訳ですから、そういう『怖い話』に対する距離感が今時の普通の子と違うんじゃないでしょうか。怪談を仕入れるのだって図書室の『本当にあった怖い話』の本とかが主で、インターネットなどされたことがないのでしょ……」

 そこで茜がスピーカーのスイッチを押すと、子供の泣き声が聞こえて来た。

 「きゃぁあああああ!」

 千春がその場で腰を抜かして転がった。

 「え? ちょっと、どうしたの千春ちゃん? いきなりどうしてそこまで」

 「ひぃいいい。赤ちゃんの、赤ちゃんの声があぁあああ!」

 「ちょっと千春ちゃん? 落ち着いて? 落ち着いて千春ちゃん。そんな声しないから。大丈夫だから」

 「でも本当に聞こえるんですよぅ!」

 「そうなの? …………あ、本当だ、聞こえる」耳を澄ませた瑠璃は目を大きくして挙動不審になる。「なぁにこれ……。あんぎゃあ、あんぎゃあって……。すごく不気味」

 怯えた様子の瑠璃の手を、どうにか立ち上がった千春が握りしめた。

 「幽霊なんているはずがありません。怖がることはないですよ」

 「いやでも千春ちゃん今すごい怖がって」

 「非科学的なんです。人は死んだらそれで終わりに決まってるじゃないですか」

 「いやでも千春ちゃん今すごい怖がって」

 「しかし暗いですね本当にここは。逸れてはいけないですから強めに手を握っておきましょう」

 「千春ちゃんなんだか涙目になってない?」

 「ちょっと腕に抱き着いていいですか? そうでもしないと瑠璃さんってば方向音痴だからどっか行っちゃいそうで」

 「ねえ千春ちゃん? 怖いの?」

 「懐中電灯の予備ってありますよね? 万一壊れたり電池切れても大丈夫でしたよね?」

 「う、うん。そこは抜かりなく」

 「大丈夫ですよ瑠璃さん。わたしがいます。安心してください」

 「………………うん。頼りになるわ」

 縋りつく千春の肩を抱きながら、瑠璃は眉を顰めて耳を澄ませた。

 「ほ、本当に、あんぎゃあ、あんぎゃあ、って、泣いてる……」瑠璃が声を震わせた。

 「……ここまであまり口に出す気にならなかったんですが、ここの通路って産婦人科の通りなんですよね」

 「ちょっと千春ちゃん」

 「ごめんなさい瑠璃さん。その事実を一人で抱え込んでおけそうもないと言うのが本音です」

 「どうして? どうしてこんな声が聞こえるの?」

 「分かりません」

 「子供の幽霊……?」

 「そういうのはやめませんか? わたしまで怖くなりそうです」

 「怖がってるのは私だけみたいな言い方をできる時代はとっくに終わったと思うの……」

 「幽霊なんているはずないんですよ。非科学的です」

 「でも本当に聞こえるじゃないっ!」瑠璃は瑠璃で本気で怖がっているようだ。喚くように言う。

 「落ち着いて瑠璃さん。大丈夫です」千春の方は冷静さを取り戻して来ているらしく、優しく笑って瑠璃を抱き寄せた。「幽霊の正体見たり枯れ尾花。子供を連れた夫婦が仲良く肝試しをやっているだとか、そんなところではないでしょうか?」

 「あ……っ。なるほど。千春ちゃん冷静」

 その場合子供をあやす声も同時に聞こえるはずだと茜は思うのだが、ちょっと安心したような顔をしている瑠璃は気付いていないらしい。だが千春の方は苦虫を噛んだような顔をしているので、自分の言ったことの違和感に気付いているようだ。そこでこう続ける。

 「一度はっきり見に行くことを提案したいです。それで実際に赤ん坊を連れた夫婦に遭遇するなどして、声の正体が分かったならば、一安心できるというものではないですか」

 「そうね。このまま施設に帰ったら夜も眠れなさそう」

 「わたしは授業に集中できなくなりそうです」

 「日商簿記三級の試験日も近いしね。千春ちゃん勉強してる?」

 「そういう話は今やめておきましょう」千春は笑った。「幽霊よりも怖いものは現実にありますね」

 それから二人はこちらに向かって歩いてくる。思い通りの展開だ。

 人は正体不明の恐怖に相対した時、まずは怖がり、次に疑い、自分に言い聞かせた後で、正体を見極めにやって来る。

 茜は赤子の人形を分娩台の絶妙な角度で配置すると、自分は物陰に身を隠した。

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