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姉妹、水族館に行く 2

 〇


 「そのね。マンボウさんがね……マンボウさんじゃなかった。ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルさんが……」

 「うん、うん。そやな、うん。気の毒なマンボウさんやな」

 「ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルさんだよ」

 「び、びくとりか、ぎゃら……なんやって?」

 妹の支離滅裂な話を聞きながら紫子は困った顔をした。姉がどこかへ連れて行かれて情緒不安定な時に目の前にマンボウの水槽があったもんだから、こういうことにもなろう訳だ。

 「……緑子。これはウチらには過ぎた使命や」紫子は妹の肩をぽむと叩く。「世の中閉じ込められてかわいそうな目にあっとる魚や動物はようけおる……。それを全部救い出すなんて誰にも無理や。あのマンボウだけ贔屓することもできん。それに、おまえには方法もない。あんなでかいマンボウじゃあどんなに巨大なタライを用意しても運びきれんで……」

 「うん、うん」緑子はべそをかく。「本当は分かってた……なのにわたし、断り切れなくて……。ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルさんに気を持たせるようなことをして、あの人裏切られて今、すごくつらい思いをしてると思う。うぅ……酷いことをしたなぁ」

 「……また今度ここ来て話し相手になってやらんかだ」

 「うん」緑子は涙を拭った。

 スマホの件については大した傷じゃなかったのと向こうにも非があったことでなんとか許された。向こうのカレシの方がまだ少し話の分かる男だったのだ。

 辛うじて退場処分を免れた姉妹はその後も水族館を見て回った。妹はまあまあ気を取り直して楽しんでくれた。

 「わあ。イルカさんだ」水槽の前で緑子は笑った。

 「人気の魚やもんなぁ」紫子は頷く。「いや魚じゃなかったんか?」

 「哺乳類だね。わたし達の仲間だよ。……ほらこっちの掲示物にも」

 イルカは哺乳類であり胎生で卵を産まないのだということが描かれているらしかった。妹が読み上げてくれたところによると、ここで飼育されているイルカ五匹の内四匹は家族で、夫妻と二匹の娘らしい。

 「『シンゴウキ』がお父さん、『ハチノス』がお母さん。『ヒキガエル』『ビーコン』が娘姉妹だってさ。水槽内で繁殖に成功したらしいよ。『パルサー』っていうのが赤の他人のオスだね」

 「……その名前を付けた飼育員さんは何を思うてイルカのメスに『ヒキガエル』や付けたん?」紫子は表情を引きつらせる。「というか、ちょっと思ったんやけども……その赤の他人はちょっと気まずい思いをしとるんちゃうかな?」

 「訊いてみる?」緑子は首を傾げた。

 紫子はその場で硬直する。いや待てなんだその訊いてみる? というんは? イルカとお話しでもするつもりか? ……するつもりなんだろうが。

 「うん、うん。へえ……うん。わあ、うん、そんなことないよ。がんばろうよ、うん……」緑子は熱心にイルカと会話している。

 「何いよんそいつ……ええと、パルサー、やっけか?」

 「『死にたい』だって……」

 「えぇえええ……」紫子は目を剥いた。「な、なにがそんなにつらいん……?」

 「『昔はハチノスも俺に優しかった。シンゴウキとも親友だった。けれどある時シンゴウキが俺を攻撃するようになった。ハチノスが俺に好意を示したからだ。ハチノスもメスだから力のあるオスを選ぶ。俺は敗れ、今では彼女らの娘に話しかけることすら禁じられている。ヒキガエルやビーコンが俺のことをなんと呼んでいるか知っているか? 『負け犬』だ……』だって……」

 「気を強く持って!?」紫子は表情を引きつらせた。「ちょっと待ちぃや? 何そのドッロドロ! 救いはないんか?」

 「……『だがシンゴウキとの争いに敗れた時、一度だけハチノスが俺に同情してくれたことがあった。本当はあなたのことを愛しているのよ、でもここでは力があるものが全てだから、と。そう言ったのだ。その思い出が俺の救いだった……』」

 「へ、へぇん……」

 「『だがシンゴウキと幸せそうにしているハチノスの様子が嘘や演技には思えない。彼女が不幸であることを願ってしまう自分が、俺は嫌だったんだ……』」

 「お、おう……」

 「『そしてこの間はっきり言われたよ。『あなたは過去の男なの。娘達にいやらしい目を向けないで。負け犬は負け犬らしく、一匹だけでおとなしくしていてちょうだい』と。……確かに俺はヒキガエルやビーコンの姿にかつてのハチノスを重ねている。自分の中のオスの衝動を抑えきれないこともある。いっそ全てを爆発させた方が、楽なんじゃないかと思う時もある……』」

 「哀れすぎる……っ!」

 紫子はぞっとした。この五匹のイルカだけが住む小さな水槽の世界では、想像を絶する愛憎劇が繰り広げられているようだった。過密な人間関係の中で発生する愛憎のすさまじさには筆舌に尽くしがたいものがある。まあ全部妹の空想なんだけど。

 「他の人の話も聞いてみる?」と緑子。

 「……なんか気になって来たな」紫子は頷いた。「ちょう聞いてみて」

 「はぁい」

 緑子は『ヒキガエル』『ビーコン』姉妹に話を聞きに行った。

 「『ねえ、姉さん』『なあにビーコン』」緑子は姉妹の会話内容を紫子に話し始めた。「『わたし達の住むこの世界はなんなの?』『何なのって、さあ、私やあなたの見たとおり……と言う風にしか答えられないわ』『なんだか狭いし、いつもこちらを眺めている変な生き物たちがいる。わたしはここしか知らないけれど、少しおかしな場所なんじゃないかって、思うことがある』『いいじゃない。どんなにおかしなところだって、ここには大好きな父さんや母さん、そしてあなたがいるわ。パルサーのおじさんのことは怖いけれど、でも母さんが言う程悪いイルカじゃなさそうよ』『……父さんと母さん、それにパルサーおじさんはわたし達の知らない何かを知っている。ここじゃないどこか遠い世界のことを知っている。それはとても大切なもののような気がする』『考えたって仕方がないわ、ビーコン。私達、仲良し家族で、幸せでしょう? それでいいじゃない?』」

 「おまえ作家になれや!?」紫子は緑子の肩を揺すった。「娘達は生まれた時から水槽の中で外の世界を知らんのか? それが故に好きな家族のことしか知らんと幸せなんか? でもその幸福は果たして本当に正しいものなのかどうか訴えかけとるんか? ああ!?」

 「お、お姉ちゃんあんまりゆすらないでよ……」緑子は困惑した顔で言った。

 「ああすまんちょっと興奮した」紫子は言って緑子の肩から手を離した。「でもパルサーおじさん、娘達からは一定の理解を得られとるんやなぁ……。ほんでも、なんでハチノスお母さんはパルサーおじさんのことそんなに忌み嫌っとるの? 昔は好きだったんやん?」

 「……訊いてみるね」緑子はハチノスと会話を始めた。「うん、うん。……そんなことはないと思うな。うん、うん、ごめんね。それは分かるよ。だけどね……」

 「……み、緑子。そいつは何を言いよるんや……?」

 「……『パルサーは昔は良い男だった』」緑子は少し目を伏せて話し始める。「『シンゴウキとの争いに負けたのはいいわ。どちらかは勝って負けるもの。それは当然のことだわ。けれどあたしが忌まわしく思うのは、たかだか女の取り合いに負けたくらいで、ズブズブと一人陰気に腐っていく姿をあたしに見せることよ。それがあたしは腹が立って腹が立ってしょうがないの』」

 「前に愛した男だけに……変わっていく姿を見るのが許せへんのやな」紫子は言った。「でもそれはしゃーないよ。パルサーの気持ちも考えたげてー」

 「『たかだが女の取り合いに負けたくらいで、それで全てを失ったような顔で、それだけが全てであるかのような顔で、ズブズブと腐っている姿は、本当の意味で負け犬よ。昔、彼はあたしをこの水槽から救い出してくれると言ってくれた。だからあたしは彼を愛したわ。でも今じゃ、こんな狭い水槽の中に閉じ込められていることを怒ってもいないし、何の夢も希望もない。憎悪と自己憐憫が恋人の、たまに娘達にいやらしい目を向けるだけの……あんなにみじめな姿ってある?』」

 「……哀れ過ぎる、哀れ過ぎるよ緑子。本来ならパルサーおじさんはもっと広い世界を見んとあかんのや。そしたら立ち直れたはずなんや。でもこの狭い水槽に『広い世界』なんちゅうもんはどこにもないんや……ああ、哀れ過ぎる……っ!」

 「……最後。シンゴウキお父さん行くね」緑子は意を決したように言った。「何々……『ぼくは、パルサーとの勝負に勝ってから、心に余裕ができて色んな事を考えられるようになった……』」

 緑子は歌うような声で、水槽世界の主であろうイルカの言葉を話し始める。

 「『この世界は閉ざされている。どこにも逃げ場はない。だがそんなものは海にいた頃だって同じだということに気が付いた。どんなに広く見えても必ず限りはある。限りがある中で、妻や娘、そして同じ女を愛した戦友がいて……あるものを数えればぼくにはお釣りがくるほどなんだ。

 パルサーは変わってしまった。それは仕方がない。ぼくには妻と子育てがあったが、彼には何もなかった。紙一重、ほんの紙一重でぼくがああなっていたんだ。彼はぼくでぼくは彼だったのだ。

 この水槽の世界は限られている。君達人間の生きる世界が限られているように。世界そのものがまず限られているし、そこに生きるぼく達はもっと限られている。しかしあらゆる生命は、その限られた中で無限のものを作り出す能力も、また持っているんだよ。ぼくはこの水槽の中に自分の王国を作ろうと思う。パルサーもそこに組み込まれるんだ。つまり、ヒキガエルとビーコンのどちらかをパルサーにやるんだな。

 それはビーコンが良いだろう。ぼくのこの考えを理解できるのは娘の内でビーコンだと思うから。彼女は賢い娘だ。そしてヒキガエルは優しい娘だ。優しいし、その優しさで自分自身を幸せにすることができる娘だ。そして彼女にもいつか年下の夫ができる。それはおそらく妹が作った子供だろう。ヒキガエルはビーコンのことを深く愛している、だからビーコンの子供なら、きっと愛してくれる。そしてこの水槽はぼくの子孫たちでいっぱいになるんだ。それが、ぼくのこの世界での夢なんだよ……』」

 「シンゴウキさぁん……」紫子は感涙した。「あんたは良ぇ男や……。皆を、皆を幸せにして……救ってやるんやでぇ……」

 その場で膝を折って泣き始める紫子と、同じく涙ぐんだ顔でその姉を支えてやって入る緑子。異様としか言いようのないその様子に、人々の視線が向かっては逸れた。


 〇


 経路を回り終え最後にあるのはお土産コーナーである。

 「おまえぬいぐるみとか好きやんな。なんか買わんの?」

 「お姉ちゃんからもらったのがあるし、夜はお姉ちゃん抱いて寝るからそれはいいかな」

 「抱き枕扱いかウチは……」紫子は微妙な顔をする。「まあでもせっかくやしなんか買うてもええよな。おばはんになったらお土産を眺めつつ今日の思い出を想起するんや」

 「じゃあ残るものじゃないとね。んじゃあ……」緑子は書籍コーナーへと向かう。「これなんかどう?」

 イルカの生態をテーマとした書籍だった。それなりに分厚いく内容は詳しそうだが、それでいて写真やイラストも多く子供でも楽しめるようになっている。こいつ一人が読むなら隣のもっと硬そうな奴でも良いのだろうが、そこは自分と一緒に楽しめるようにという配慮だろう。

 「後半は図鑑か」「これならいくらでも眺めていられるね」「ウチもおまえもこういう図鑑的な写真付きのん好きやもんな」「うん!」「でもおまえよっぽどあのイルカ共が気に入ったんやなぁ」「えへへぇ。まあねえ。幸せになるといいねぇ」

 言いながら、緑子はその書籍をぱらぱらとめくる。何の気なしの行動だったのだろうが、イルカ同士の恋愛について詳細に書かれたページを見付けると、釘付けになったように目を皿にしはじめた。この妹は本を読んでいると無意識にこういうことが稀にある。止めないでいてやろう。

 目を離さないようにしながら紫子は近くの絵本を手に取る。調教師さんとアシカくんの友情を描いた作品でコミカルな劇画調のイラストが秀逸だ。一ページ目から開こうとしたその時

 「イルカの水槽で事故だって!」

 という甲高い声が聞こえて来た。

 「なんか職員たちが騒がしいと思ったらそんなことがあったのか?」「なんかイルカ同士が殺し合ったらしいよ?」「マジで?」「オスのイルカが、小さなメスのイルカと強引に交尾をしようとして殺しちゃったんだって!」「レイプじゃん!」

 口々にささやきあう声を聞いていると、アナウンスが鳴り響いた。『本日は来館いただきありがとうございます。まことに申し訳ありませんが本日はイルカコーナーの周辺は立ち入りを禁止させていただきます。まことにご迷惑をおかけいたします』……。

 「お姉ちゃん?」本に夢中になっていて何も訊いていなかった緑子がふとこちらを向いた。「なんか騒がしいね? 何かあったの?」

 「…………緑子」紫子はだいぶ打ちひしがれた気分で妹の肩を叩いた。「世の中には……知らん方が幸せなこともあるんや。ちょっと時間を置いた方がええで。うん……」

 「…………?」緑子は首を傾げた。「お姉ちゃんが言うなら」

 嬉々としてイルカの本をレジに持っていく妹に付き添いながら、紫子がその笑顔がとても気の毒に感じられたところで、この話はおしまい。

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