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姉妹、うんこをする 1

 おしっこからゴキブリと来てうんこに繋がる強力打線。

 まるで広島東洋カープのタナキクマルのようだなぁ。

 〇


 十月ともなれば夜はそれなりに寒くなる。涼しくて気持ちが良いと油断して秋の匂いを嗅いでいると、気付いた時には体が冷えきって、布団の中に逃げ込む羽目になってしまうのだ。

 こんな夜中にトイレに起きるなら、パジャマに上着をしてとっとと済ませるのに限る。

 深夜零時に目をこすりながら布団から出た紫子は、清涼な空気を肌に感じながら上着を探し始める。月明かりがぼんやりと照らす四畳半は薄暗い。

 「お姉ちゃん」隣で横になっていた緑子が体を起こし、両手をついて声をかけてきた。「どこ行くの?」

 「便所」紫子は端的に答える。

 「わたしも行くよ」

 「なんやおまえもおしっこか」

 「もよおしてはないけど、付いて行こうかなって」

 「怖がりの癖に、布団入っとけや」

 「こんな夜中に一人で置いてかれるより良いよ!」緑子は強い口調で言った。

 「お、おう。じゃあ上着せぇよ」

 「はぁい」緑子はほほ笑んで布団を這い出した。

 パジャマに上着一枚羽織っただけという恰好で外出する二人。トイレは数メートル廊下を歩いた先にある。

 深夜のボロアパートというのは独特な雰囲気を持つ。たかが数メートルと言えども、壁のシミや亀裂、遠くから聞こえて来る悲鳴染みた犬の鳴き声、不良の笑い声などが妹を襲う。その度に緑子は姉の腕を握る両手の力を強めるのだった。

 「おまえはホンマに怖がりやなぁ」紫子は笑って妹の頭を撫でる。「へーきへーき。お化けなんかなーいさぁ、お化けなんかうーそさぁ」

 「お姉ちゃん、わたしのことたまに子ども扱いするよね」緑子は少し膨れて呟いた。

 「ごめんごめん。ほら、トイレ付いたで」紫子はトイレの扉を開け放った。

 ここの共用トイレの掃除は気が付いた人間がやるという名目で誰もやらずに放置されていて、毎度のことながらあまり良い空気には感じない。扉の立て付けも今一つ頼りない為この時期は特に冷え込んで感じる。

 紫子は扉を閉めてからズボンを降ろし便座に腰かけた。洋式なのは救いだろう。あの屈んだ体勢っていうのは疲れるしなんかみっともない気もする。

 落ち着こうとしたところで、カチリという鍵のかかる音が内側から響いた。

 「お姉ちゃん」妹が紫子の方を向いて言った。「鍵かけないと」

 それから緑子は内側にある蛍光灯のスイッチをぱちぱちといじり、「ちょっと前から点かないんだよね」と呟いてから、その場で膝を折りたたんで靴底を地面に付けたままの三角座りをした。

 「……なあ、緑子」紫子は言った。「毎度のことやけど、おまえなんでそこおるん?」

 「外で一人で待つなんてできないよぅ!」緑子は強く主張した。

 「それでよう『子ども扱いすな』とか言えたな!?」紫子は顔をしかめた。

 小便くらい落ち着いてさせてくれと怒鳴って追い出すことは容易である。だが極端に優しいお姉ちゃんであるところの紫子には、こいつにそのような過酷な試練を課すことはできなかった。というか現実問題として、深夜にこの妹から目を離すというのは決して賢明なことではない。

 「夜中とか一人でトイレ行くんも無理やしなぁおまえ」紫子は膝に肘をついて頬を手の平に乗せた。

 「ごご、ごめん、ごめん。いちいち起こしてごめん」緑子はべそをかいた。

 「いやまあそれはえぇねん。ウチが付いてけば良いことやしな。問題はウチの外出中におまえが一人でおしっこしたぁなった時な? 調子良い時なら昼間なら一人でトイレ行ったりできるけど、たまにそれすら無理で漏らすことあるやんおまえ」

 「それは言わないでよぅ酷いよぅ」

 「……いやガチな話、なんか対策した方がおまえもみじめな思いせんでえぇやん? トイレ行けんなら行けんでそういう人間向けの道具とか設備とかが世の中にはある訳やし、そらおまえも十六の娘なんやけんそういうんに頼るんに思うとこあるかもやけど、しかし実際問題としてな?」

 こいつが一人で便所行けないのは、施設時代に夜中にトイレに起きた時に夜遊びしていた悪童達に悪戯されたトラウマに起因しており、単なる怖がりとも言い切れない。だが四六時中自分が一緒にいてやれる訳でないことを考えれば、もうちょっとなんかどうにかしないといけない話ではあった。

 「……まあそれは今度話し合えばえぇわ」言いながら、紫子はほうと溜息を吐いて用を足す。

 こう小便の音も臭いも至近距離で駄々漏れでは、人間同士の距離感も何もない。プライバシー皆無にも程がある。それを嫌だと感じたことはないし感じることもないだろうが、しかし小学生の頃こいつと同じ布団で寝ながら『大人になるにつれいつまでもこんな風ではいられなくなるんだろうな』とか寂寥と共に思っていたのに、いざ十六になってみると、糞尿垂れ流してる傍にもこいつがいて目が合っているんだから数奇な運命だ。そういう星のもと生まれたのかもしれない。

 用を足し終えて股を拭こうと立ち上がっていると、激しくノックをする音がした。

 「住人か? 入ってるならすぐ出てこい」

 大家の声だ。緑子はかわいそうな程びびってズボンずらしたままの姉に縋りつく。紫子は股を拭きながら「大家さん?」と扉の向こうに返事した。

 「今ウチ用足しの途中なんやけど」

 「その声と喋り方は西浦んとこの姉貴の方か。張り紙見なかったか?」

 「張り紙ぃ? 何のこと?」そういや扉になんか難しい漢字の書いた紙が貼ってあった気がする。紫子はズボン履いてレバー引いて水を流すと、扉を開けて大家の前に姿を現した。

 「……はあ?」妹と連れ立って出て来た紫子に、三十前の女性の大家は信じられない物を見るような視線を向けた。「連れ小便は勝手だが個室に二人はないだろ」

 「ほっといてもう。そんでどなにしたん?」 

 「だから、そこに張りが貼ってあるだろう。見なかったか?」

 大家が指差した先にはマーカーで『故障中』と書かれた紙が貼られている。紫子は両手を腰に当ててそれを睨むと、眉を顰めて

 「読めん」

 と堂々たる口調で言った。

 「『なか』しか分からん。ルビ振っといて」

 「……君の識字能力は入居手続きの時に知っているが。おい妹、いたのならおまえが気付いてやらないか」

 「…………す、す、すす、す」すいません、がどうしても最後まで言えない緑子。

 「なんなんこれ? 何書いとるん?」と紫子。

 「故障中。水が流れないのだよ」と大家。

 「流れへん? いやウチレバー引いたけど普通に流れよったで?」

 「流れたように見えるだけだ。便器の中がシェイクされるだけで糞尿は消えてくれない。既に二名程の糞尿が流されないまま放置されていたのだが、新たに君のものが混ざった形になるな。まったくどんどんおぞましくなってくる」

 「住人同士で糞尿をシェイクしとんのか。アハハっ、なんかおかしいな」

 「お、お姉ちゃん笑いごとじゃないよ」緑子は顔色を悪くしながら言った。

 「まったくだ。君には年頃の娘らしい恥じらいというものがないのか」大家は呆れた様子だ。

 「たかが糞小便で何を騒ぐことがあるねん。なんぼでもシェイクしたれや」紫子は堂々たる態度で言った。

 「最初にこの件を報告したのが一階の粕壁さんだと言ってもか?」

 「あああのおっちゃん? あんま売れてへん小説家や本人いいよったっけ?」腹の突き出たメガネのオヤジの姿を思い出しながら紫子は言う。

 「如何にも。まあ、ここ五年程本は出ていないので実体はフリーターだが」

 「ここの住人皆似たようなもんやろ? 別にウチは自分の糞尿が誰のと混ざろうが気にせんわ」紫子は余裕の顔で言った。身体に付くとかは流石におぞましいが、このくらいは全然平気だ。

 「き、気にしようよお姉ちゃん。誰のとかじゃなしにばっちぃよ」緑子は泣きそうな顔で言う。

 「姉貴はこのとおりだが、しかし一緒にいながら気づいてやれなかった妹、君も君だ。蛍光灯が故障しているとは言え、臭いで分からんものかね」大家は呆れた視線を緑子に向ける。

 「クサいんはいつものことやろ。蓋しとったし」紫子が代わりに答えてやる。「というか、ウチがしたとき既に『二人分』やったってことは、ウチと同じ失敗をした奴がもう一人おるいうことか?」

 「失敗などしていない。そいつは事情を理解した上で情け容赦なく自分の糞尿を上書きした」

 「アハハっ。えぇ根性しとるな。誰やねん」

 「君らの隣人だ。たまに思うのだが、あの背の高い女性は冬もあの格好で過ごすのかね?」

 「知らんよ。あん人は友達やけど付き合い長ないもん」

 「……まあ良かろう。二人分の糞尿が三人分になったところでたいした違いはない。とにかくそういうことだからもう二度と使うんじゃないぞ。修理工には早めに直すようにいってあるから少しの辛抱だ」

 「ちょっと待ったって。早めにっていつまでやねん。ウチらどこでトイレしたらええん?」

 「その辺の公衆便所でも使え。私もそうしている」

 「ウチはともかく妹はそんな遠出はキツいねんけど」

 「それを私に言ったところで解決するか?」

 「まあそらそうか」

 「では失礼する。張り紙にルビを打たなかったのは私の失策だ。それは謝罪しよう。すまない」

 「ええんやで」

 そんな訳でその日の晩はそれぞれの自室に戻った。手洗いをさぼろうとしたら妹に叱られて肘まで石鹸で洗わされた。滅多に見ない強硬な態度だった。

 「いやぁ偉いことになっとるんやなぁあの便所。うぅ寒ぅ」布団に潜り込む紫子。

 「本当にね。早く治ってくれないとかなり困るよ」隣にぴったりくっつく緑子。「寒い寒い」

 それから目を閉じていると、身体が温もり切ったあたりで、隣で寝ていた緑子がガバっと唐突に身体を起こした。

 布団を共有している以上こうなると紫子の布団もはだけることになる。寒い。目をこすりながら身体を起こし、何か尋常じゃない視線を虚空に注いでいる妹に声をかける。

 「どしたん?」

 「……お、お、お」緑子は泣きそうな顔をしている。

 「お? なんやねん?」

 「おしっこしたくなっちゃった……。体が冷えて。どどどどうしようどうしよう……」

 「どうしようも何も便所行こうや。ほら、お姉ちゃん付いてったるから上着してやな」

 「トイレ故障してるよぅ」

 「あ、そやったな。ならしゃーない、おまえのおしっこもあっこに上書きせぇや。アハハっ」

 「やだよぅやだよぅ! お姉ちゃんったら……うぅう、ふえぇん」

 緑子はさめざめと泣きだした。やべぇ泣かした。

 「ご、ごめんよー! お姉ちゃんが悪かったよー! 近くのコンビニまで乗せてったるから泣き止んでよー!」

 涙を拭う妹の手を引いて外出し、自転車の荷台に乗せて近くの公衆便所へ急いだ。

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