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姉妹、兵達を従える 3

 〇


 「本当にやるのお姉ちゃん?」自転車の荷台に座りながら、緑子は躊躇したように言った。「わたし安藤さんとこの子供のこと怒ってないよ? 小さい子の悪戯だもんね。わたしの為に怒ってくれるのは嬉しいけれど、そこまでやるのはちょっとかわいそうかなって……」

 「ウチがムカついとんのや」紫子は腕を組んで言った。「あんなクソ親には天誅下したらんとあかん。それにな緑子。おまえのその何されても優しいに許してまうんは良くない。その所為でいじめる奴が余計につけあがるんやで」

 「やっぱりそうなのかなぁ?」緑子は弱ったように俯く。「わたし昔から人にいじめられて良くお姉ちゃんに迷惑かけてたもんね。ごめんねお姉ちゃん。わたしがもうちょっとしっかりしてたらお姉ちゃんもこんなことしなくて済むのにね」

 「おまえが悪いんとちゃうで。ただ現実は厳しい。報復して戦わんと奪われ続けるのが世の中なんやで……」

 そう言ってハードボイルドな哀愁を漂わせながら秋の遠い空を眺める紫子。身長百三十八センチの女児が腕を組んでシニカルを気取っている様子は非常に滑稽である。秋風が小さな身体を撫でたかと思ったら盛大にくしゃみをした。はっくしょん。

 「お姉ちゃん大丈夫?」緑子は母親のように紫子の鼻水をティッシュで拭った。紫子はされるがままだ。

 「……鼻むずむずする」紫子はわが身を抱いた「はっくしょん! はっくしょん!」

 アパートの裏の茂みである。部屋の窓からは死角になる位置に姉妹は自転車を停め、かごに放り込まれた『秘密兵器』を使うタイミングをうかがっていた。

 「このまま待っとったらその内窓が開くんよな?」確認する紫子。

 「そうだよお姉ちゃん」頷く緑子。「安藤さんとこの親子ね、日が照って来る時間になると暑がって窓開けるんだよ。もうだいぶ気温も落ち着いたのに暑がりだよね。お姉ちゃんの秘密兵器投げ込めるタイミングきっとあるよ。……すごいことになると思う」

 そう言った矢先、紫子の目の前で安藤家の窓が開いた。

 「今や!」紫子は叫び、真っ白い紙でできた箱をカゴの中から引っ手繰る。「行って来いユウコちゃん! ……と、その愉快な仲間たち! うぉおおおお!」

 そこそこ遠距離から難しい角度の位置にある空いた窓に投げ込まれた紙の箱は、しかし見事なコントロールで室内へと放り込まれていった。

 小学校時代、紫子は茜に誘われて野球なんかやったことがある。もちろん緑子も一緒だ。チームに入っていたとかではなく、父親の影響で野球好きだった茜の相手をさせられた程度だが、仲良し三人で輪になってキャッチボールをしたことで、肩と制球だけはそこそこ磨かれたもんだった。

 「っしゃ命中や!」紫子は歓喜する。

 「流石お姉ちゃん!」緑子はぱちぱち拍手をする。「三メートル半にも及ぶ遠距離から、幅一メートル高さ五十センチの小さい的に的確に命中させるなんて流石だよ!」

 紫子はチャリに飛び乗って助手席にのっけた妹と共にその場を全力で離脱する。自分がやったとばれたら厄介だからだ。

 さっき投げた紙の箱の中にはユウコちゃん率いる西浦姉妹の近衛兵団が満載されていた。つまりどういうことかというとゴキブリがぎっちり入っていたのである。

 「ギャァアア!」男みたいな声で本気の悲鳴が響いて来た。「何よこれぇえええええ! いやぁあああ!」

 紫子は大笑いする。あまり清潔とは言えない安藤母も、一応は女性であるのだからゴキブリに対して生理的嫌悪感を禁じ得ないはずだ。

 「アハハハー! ええでぇー!」紫子は上機嫌だ。「魔王アンドーをぶちのめせ従僕どもよー! アハハハ!」

 「まるでイニーツィオ平原の戦いみたい。お姉ちゃんは見事な指揮官ぶりで勝利したんだよ。カッコ良かったなぁ」緑子は遠い目をする。何をありもしない記憶を思い出しているのかは知らない。「戦えーユウコちゃぁん。お姉ちゃんの為にがんばれぇえっ」

 ちょっと遠くへ逃げたところで自転車を停め、路上の自販機でコーラの缶を二本買って乾杯した。

 「大勝利やな!」と紫子。

 「うんそうだねお姉ちゃん」と緑子。「ユウコちゃん達もお姉ちゃんの役に立てて喜んでるよ」

 「HAHAHA。そう言われるとなんかアイツらのことが可愛らしいに……」思え……はしなかった。残酷ながらゴキブリはゴキブリだ。緑子のように平気で触ったり慈しんだりする精神は持てそうにない。「……とにかくおまえのお陰や。あの紙の箱の中身八割方おまえが捕まえてくれたんやもん、偉いで」

 「ほっぺにちゅーして」

 「調子にのんなやー」紫子は髪をかきあげてちゅーしてやった。

 「えへへぇ」緑子はとっても嬉しそうに笑った。

 しばらくそうやってはしゃいでいると、遠くから細長い人影が歩いてくる。北野だ。

 「あ、ハイカワさん」コーラ350ミリを微妙に飲みきれず姉に差し出して手ぶらの緑子がそれに気づいて手を振った。

 「なんや、北野……ハイカワさん」妹のコーラ350ミリの飲み余しをいただいていた紫子は首を傾げた。「あんたとアパート以外で会うんもそない多くないな」

 『あなたたち』北野はノートをこちらに掲げて見せた。『グッジョブ。でもちょっとやりすぎ』

 「あん?」顔をしかめる紫子。「なんでウチらって知っとるん?」

 『イチブシジュー見てた。あたしが昼酒する場所から丸見え』と北野。『安どうさん、家に入れなくて困ってる』

 「えぇ気味やん!」

 『火のついたタバコがねかしっぱなし』北野は無表情でノートを掲げる。『しまつしないとあぶないけど、でも安どうさんも大家さんも中に入れない。それほどゴキブリの数が多い』

 「しこたまぶちこんだからなぁ」遠い目をする紫子。「つかウチもあない繁殖するまで気付かんかったなんて偉いアホやわ……」

 「元々あのアパートゴキブリたくさん出るんだよ」と緑子。「二つ隣の高町さんって人の家が、あんまり綺麗じゃなくて。ユウコちゃんが来るまでは家のことはガードしてたんだけど、それやめたら一気に増えちゃって……」

 「……なあ緑子。魔王アンドーとの闘いが終わったら、ユウコちゃんには暇を出したらん?」

 「お姉ちゃんが言うなら」緑子は頷く。「他のゴキブリが来ないようにまたホイ〇イとか置くね」

 『それは何よりだけれど』と北野。『あなたたちセキニン持ってどうにかしてよ。安どうさんうるさくってしょうがない』

 「……しゃーないなぁ」

 と、いう訳で姉妹と北野と三人、安藤の家の前まで戻って来た。

 「北野さんから話聞いたでー」と何食わぬ顔の紫子。「なんかゴキブリがようけでとるんやって」

 「ぜってぇあの野郎だ! 前にブチ振ってやったあのオッサン!」安藤は烈火の如く怒り散らしている。「上場企業の課長がなんだ? 付け回して来やがってうっぜぇ」

 「もったいないなぁ。ダテ食う虫も好き好きとはいうけども」紫子は言って妹の表情を伺う。「どや緑子ウチも難しい言葉知っとるで」

 「流石お姉ちゃん」緑子は笑顔で姉を褒め称えた。

 「舐めてんのかクソガキ!」安藤は年季が入っているだけに紫子と同じ言葉を知っていた。「あの程度の社会的地位の男じゃあチョモランマより高いあたしのプライドは満足しないんだよ! あたしを捨てた前の旦那見返す為には年収三千万はいるんだよぉおお!」

 『とにかく火をどうにかしないと』と北野。『みどりこさんならどう? ヘーキそうだけど』

 「こいつ煙草の火ぃの消し方とか知らんで」と紫子。

 「そこのキチガイにやらすくらいならたっくんにやらすわ」と安藤。かくいうたっくんは持ち出した輪ゴムで密かに緑子を狙っていたので、紫子が横から掴み掛ってプロレス技かけてやった。現行犯だ。

 「ギブギブギブ!」とたっくん。

 「何遊んでんの?」と溜息を吐きながら安藤。「というか煙草の火とかの前に、中のゴキブリどうにかしないといけないんですけど!? 誰かバル〇ン持ってない?」

 「そういやウチにあるで」と紫子。「しゃーない。持って来たるわ」

 緑子のことは北野に預けて紫子は自宅用に買っておいた燻煙剤を取りに行った。割と大事態になっていたのもあり、少しやりすぎたかなぁという罪悪感が働いていたのだ。

 「ほらオバハン。これ使えや」と紫子。

 「誰がオバハンだ」安藤は眉を顰めつつも、それを手にする。「ほらたっくん。アパートの裏回って窓閉めて来て」

 「りょーかい母ちゃん」たっくんは階段を降りて自宅の窓を閉めに行く。

 「どないするん?」と紫子。

 「先にバル〇ンしてから煙草の火ぃ消しに行く。そしたらゴキブリ地獄味わわなくてすむっしょ」と安藤。「ウッハ。あたしアタマ良い!」

 「閉めて来たよー」子供の瞬発力で素早く任務完了して来たたっくんが言った。

 「でかしたたっくん」安藤は部屋の扉を開け放ち、燻煙剤のマッチ部分を擦る。「行って来るわ」

 「ま、待って!」緑子は悲鳴を上げた。「それはダメぇっ!」

 安藤は制止も聞かずに自室へ飛び込み、ギャーとかワーとかわめきながら燻煙剤を置いて戻って来る。緑子はガタガタ震えながら姉の腕を引きながらあと退る。

 「どないしたん緑子」

 「バル〇ンは……引火性危険物質だから……」がたがたと震える緑子。「タバコの火が付きっぱなしの部屋で使ったりしたら……か、か、か、火事が……」

 ぼうっ、ととても嫌な音が家の中から響いた。

 「あ? 何? この音?」と首を傾げる安藤。「なんか燃えてるみたいな音してるし。ウケる」

 「わ、笑いごとじゃないって……」緑子は涙目だった。「も、もうダメぇーっ! お姉ちゃん逃げてぇええ! 命が一番大事だよぉう!」

 「大げさだって」安藤はぽりぽり頭をかきながら部屋の扉を開ける。「バル〇ンってやるの初めてだから知らなかったけど、こんな変な音するうぉおおおっ!」

 部屋の中央でぼうぼうと灰皿が燃えていた。当たりに散乱するゴミ袋や捨てっぱなしの衣類に引火して割とヤバいことになっている。

 「逃げるで緑子ぉーっ!」紫子は妹だけ姫抱っこで確保して無責任にもその場から逃げ始めた。「しゃおらーっ!」

 「あ、ちょ、こらおまえら、置いてくなよ!」安藤がそんな姉妹に追いすがる。「消火手伝えよ! あちこち燃え移ったりしたらあんたらの部屋含めてアパート全焼だって!」

 「だいじょーぶ!」紫子は叫んだ。「ギャグマンガの世界やったら次の連載時には全部何事もなかったように元通りになっとるやろ! 今は逃げるんや! しゃこらぁあああ!」

 「現実は甘くないんだよボケぇええっ!」安藤は吠えた。「ああもう一か八か一人で消火するわ! おうこらそこのガリガリ人間! たっくん連れてどっか逃げてて!」

 母は強しとは言ったもので、その後安藤が消火器で見事に炎を消し止めたところでこの話はおしまい。

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