姉妹、旧友に再会する 3
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体を拭いて服を着て、緑子と一緒に自転車置き場に向かう。
「何が『色々あったのですね』や。澄ました顔で」紫子は苛立った声で言った。「アタマえぇ癖にそのくらい想像できんもんかね」
「……ごめんねお姉ちゃん」緑子が顔を伏せて言う。
「なんで緑子が謝るねん。というか、ウチこそなんかピリピリしてもうてすまんな」相方である自分がこんなテンションでは、緑子の性格だと、プレッシャーから意味もなく謝ってしまうのも仕方がない。
「だって、わたしがこんなんじゃなかったら、あかねちゃんともあんな風にはならなかったでしょ?」
「ウチが狭量なだけやで。緑子は関係あらへん。なんも気にせんでえぇよ。それにお姉ちゃんは緑子がおったらそれで十分や」そう言って、自転車を出す。「さあ、後ろ乗れや。帰るで。夕ご飯なんにしよかな?」
優しい表情をした紫子に、緑子のおどおどした様子も少し和らぐ。足を引きずりながら荷台に乗り込もうとした。
「ちょっとー? お嬢ちゃんたちぃ?」呂律の回らない声がした。振り向くと、二十歳前後の若い男たちが三人ほど、自分達に寄って来ていた。「どこいくのぉ? ちょっと付き合ってよ」
「あ? 酔っぱらいか? ウチらをナンパとかロリコンか自分ら」紫子は背後に緑子をかばいながら、自分は前に出て行った。「えぇから湯にでも浸かって来いや。ウチらは今忙しいもんで付きあっとれんねん」
「こいつらぁ、近所で有名なキチ〇イでぇ」三人組の一人が酔ったというより、クスリでも打って来たかのような口調で言う。「多分、何しても問題ないっていうかぁ? ろくに自分がされたことも説明できないみたいなぁ?」
「確かに面は良いなぁ。ガキみてぇね身体してっけど」比較的冷静そうな、三人の中で一番身体の大きな男がいった。「いっちょう、浚ってみっか?」
「あ? 何のつもりやあんたら。やめろ、大声出すぞ」紫子は自分達がシリアスな状況に置かれていることに気付いて、額に汗を浮かべる。緑子は完全に怯え切ってパニック寸前で萎縮し、ただ紫子の腕に縋りついて震えることしかできないでいる。
「ちょっと車に乗ってもらって、俺達と遊んでもらうだけだ。おとなしくしていれば、すぐ終わる」体の大きな男が言って、紫子に向けて手を伸ばした。「逆らうと痛い思いをする」
「や、やめろ。やめろや!」紫子は咄嗟にポケットからカッターナイフを出して男の顔に突き出した。男はそれを身をよじってかわす。流石に驚いたような表情だった。
「死ねぇ!」言って、カッターナイフをやみくもに振り回す紫子。「死ね! 死ね! 死ねぇ!」
紫子は殺してしまう覚悟でカッターを振り回しまくった。だが何の心得もないそんな動きが何も怖くないことに、彼らが気付くのに時間はかからない。何度目かの斬撃を放ったところで、後ろから迫って来た男に組み付かれる。紫子の細い身体はそれでどうにも動かなくなった。下卑た笑い声。
見れば、緑子も同じように捕まっている。その表情は尋常なものではなかった。泣くことも騒ぐこともできずにただ色を失った顔で凍り付き、明後日の方向へ向けた視線を虚ろにしている。これは緑子がある種の諦めを得た時の顔だ。諦めて、あらゆる尊厳も希望も放棄して、人形のように虚ろに全てを受け入れ、或いは全てを拒んだ時の。
「ふぅ。カッター振り回すとかマジでヤバいなこいつ。噂にたがわぬって奴だな」体の大きな男はそう言って息を吐く。「まあ、こんなキチガイなら、何したってあとくされはなさそうだ」
「やめろ。やめてくれ……」紫子は声を震わせる。「ウチはなんでもするけん、妹だけは助けてくれ。これ以上傷付けられたらこの子は死んでまうんや。やけん助けてよぅ、頼むよぅ」
「車に乗せろ」大きな男は紫子を無視して言った。「行くぞ」
「誰か助けてくれ!」紫子は泣き叫んだ。「助けてくれ! 助けて……助けてぇ!」
背後で、何か鈍い音がした。
振り返る。放心して地面に尻餅をついた緑子と、その傍で股間を押さえて横たわる男が見えた。その傍には長い足をコンパスのように広げて仁王立ちする少女が一人、不敵な笑顔をこちらに向けていた。
「だ、誰だおまえ」体の大きな男が言う。
「私です!」茜はそう言って拳を握り、マンガに出て来る達人のような妙に芝居がかったポーズをとる。「第一中学で『睾丸ブレイカーアカネ』の異名をとった私のこと、まさかまさかご存知ないなんてことはありませんよね?」
「いや、知らないが……」男は少しだけ焦った様子を浮かべる。「とにかく良い根性だ。男に喧嘩を売ったこと後悔しろ」
そう言って体の大きな男は茜に向かって駆け出し、髪を掴もうと手を伸ばした。茜は軽やかに後ろに飛ぶことでそれを回避する。そして着地するや否や地面を踏みしめ、素早く軽やかなステップで今度は前へと飛んだ。飛び蹴りを放つ。
「うぐわっ!」
それがものの見事に男の脇腹に命中した。体勢を崩す男の顔面に、茜の白くて華奢な拳が二、三発も目にもとまらぬ速さで叩き込まれる。それが相当な重さを持っているらしいことは紫子にも見て取れた。
「てめぇ……」
崩れた体制の男が苦し紛れに拳を放つが、それはまったく見当違いな場所へと飛んだ。まるで酔っぱらいの猫パンチだ。茜はよけることすらせず、左足を軸に体全体を使った鋭い蹴りを男の足元に放った。男の身体はたまらず宙に浮いてその場を転げ、両足を開いて尻餅をつく。
「食らいなさい。ウルトラ・スーパー・デラックス……」さらけ出された男の股間に向けて、茜は右足を大きく振り上げた。「アルティメット・メテオスフォーム・アカネスペシャル!」
茜は男の股間を思いっきり踏み抜いた。鈍い音がすると同時に、男が放つ悲痛を極めた叫び声が夕焼け色の空にこだまする。たまらず股間を閉じようとする男の両足を茜は容赦なくつかみ、男の股間を狙って徹底的に蹴って蹴って蹴りまくり始めた。
むき出しの無抵抗な急所に茜のつま先がかかとが靴底がガシガシとめり込む。電気アンマは男に最大級の苦痛を与えその生殖機能を破壊する、世にも残虐な反則攻撃である。モラルや良心のある人間なら決して使ってはならない禁忌の技だ。その痛みは想像を絶する。もだえ苦しむ男の表情を見ればそれは明らかだ。
「ちょ……、黒川さん?」紫子を拘束していた男が恐る恐ると言った様子で茜に言った。「女、おまえ、何すんだ。このままじゃ黒川さん死んじまうぞ」
「私の経験上キン〇マ潰れたくらいじゃ人間死にませんから大丈夫です」茜は素敵な笑顔でそう言って電気アンマをやめない。食らってる方の男は泡を吹いて気絶している。さもあらん。「まあ、そうですね。親分を生殖機能を救ってあげたいのであれば、その女の子を離してあげてください」
そう言われ、紫子を拘束していた男はたわいもなく逃げ出した。緑子を拘束していた方の男も、最初に一撃された股間を押さえて芋虫のようにその場を離れていた。気の毒なのはリーダー格らしき大柄の男である。二度と起きない方がいっそ幸せそうな重症を負って地面に伸びており、彼の生殖機能がまだ正常に備わっているかどうかは五分五分と言ったところだった。いくらなんでも哀れである。
「あんた……そない強かったん……?」開放され、紫子は呆然として呟く。「なんや、拳法やるいうとったん、ホンマやったんかいな。あん時の約束、ホンマやったんかいな……?」
「ん? なんですか?」茜はそう言って首を傾げる。「良く聞こえませんでした」
「あ、いや。なんでもない」紫子は首を振る。「ありがとうあかねちゃん。ウチらのこと、助けてくれて。ウチらの敵を……倒してくれて」……約束を、守っていてくれて。
「HAHAHA。惚れ直しました? 惚れ直しましたか? どうです強いでしょう私、頼れるでしょう私? 惚れ直したのならかまいません、さあ今すぐに私の胸に飛び込みなさい。さあ!」そう言って茜は両手を開いて紫子を待ち受けた。
「調子に乗るなや」紫子は言った。「緑子、大丈夫か? 立てるか?」
紫子が緑子の前にしゃがみ、その両肩を握ってじっと顔を見た。緑子ははっとした様子で紫子の顔を見つめ返すと、すぐに両目から大粒の涙を流し始めて、紫子の胸に顔をうずめて嗚咽し始めた。紫子は妹を抱き寄せる。
「なんですか? 肝心の私は蚊帳の外ですか? 退屈ですね」茜は唇を尖らせる。「暇です。ポ〇モンGOやってていいですか?」
「あんたは黙っとれ」紫子は言った。「緑子、もう大丈夫やけんな。もう悪い奴は全部やっつけてくれたけんな。大丈夫や、大丈夫。もうおまえをいじめる奴は一人もおらへんのや。だから大丈夫、大丈夫なんや」
「うん! うん、うん!」
「……おっと! カビ〇ンです! これはラッキーですね」茜はニコニコしながらスマートホンを持って建物の隙間に向かって歩き始めた。「逃がす手はありませんよ。それ! それ! おらとっととボールに収まれ。服従しろデブ! おら! おら!」
「あ、あの。あ、あがねちゃぁん」緑子が涙を流しながら言った。
「なんですか今私忙しいんですけど」スマホにくぎ付けのまま茜は言った。
「助けてくれて、ありがとぉ」
「ああそんなことですか」茜は不敵に微笑んだ。「当然ですよ。『約束しましたからね』」
「緑子、もういけそうか?」紫子が尋ねる。緑子はこくこくと何度も頷いてから、笑った。「大丈夫そう。死んじゃうかと思ったけど、なんとか、落ち着いた。大丈夫、もう、大丈夫」
「ほうか。ほんなら良かったわ」最悪は免れたにしても、浚われそうになった恐怖だけで症状を悪化させても何らおかしくはなかった。しかし実際にはパニックにすらならず落ち着いている。「偉いで、緑子」紫子は思わずそう言った。
「それでは、私はこれで失礼します」言って、茜は片手をぴらぴらと振ってスマホを持ってその場を離れようとした。「このカビ〇ンでジムに挑戦しますので」
「あ、待ってやあかねちゃん」紫子はそんな茜を呼び止める。「さっきまでつんけんしてごめん。良かったら一緒に夕飯食わんか。積もる話もあるやろ? お礼にご馳走するで」
「あら?」茜は振り向いた。「デレてくれるんですか。やっぱり紫子ちゃんは可愛いですね」
「意味わからん事抜かすな。来るんか? 来んのか?」
「行きます」くるりと身体ごとこちらに向けて、茜はスマホをポケットに入れてこちらに歩いてくる。「皆さんと会わない間、私がどのような大スペクタクルを経験したのか、お話しして差し上げましょう。今夜は寝かしませんから覚悟してくださいね」
「ごめん九時には寝る」
自転車に緑子を乗せ、それを紫子が押して歩いた。隣では両手を後頭部に組んだ茜が歩調を合わせて進む。つらいことを何も知らなかった当時のように笑いながら、三人が夕闇の中に消えたところでこの話はおしまい。