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姉妹、世界地図を描く

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 最近どうにか良い病院を見付けた。月に何度かの診察を終え、薬を貰って緑子は自転車の荷台で姉の背中にしがみ付いていた。

 「医者なんか言いよったな。ちょっとフクサヨーがあるとかなんとか」と紫子。「悪いんやろフクサヨーって。あんまようけは飲まん方がええんかな?」

 「確かに強いお薬だってね。飲んだらすぐにお布団入るように言われたねぇ」緑子は医者の説明を思い出しながら言った。「でもここ最近全然眠れてないからなぁ」

 「ほんなら無理せんと飲んどき」紫子は頷いた。「今もおまえ顔色悪いわ」

 自転車をアパートの傍に停める。先に自転車を降りる姉を荷台から見守っていて、緑子はあることに気が付いた。

 「あ、お姉ちゃん」緑子は荷台を降りて姉のケツを触る。「じっとしててね」

 「なんやねんおまえ」紫子は素直に応じてじっとする。「なになになに? くすぐったい。なんやねん」

 「んっとねお姉ちゃん」緑子は自転車のサドルを指さした。

 鳥のフンが引っ付いていた。

 「ぎゃああああっ!」紫子は転げまわらんばかりに前のめりになった。「うんこやんけ!」

 「お、お姉ちゃん大きな声でうんことか……」緑子は弱った顔で目を閉じる。「もうお姉ちゃん、じっとしててって言ったじゃない」

 「あかんあかん!」紫子は振り返って両手を振った。「うんことか汚いモンの代名詞やんけ! おまえ素手で払いのけよるやろ? よせぇやばっちぃわ」

 「そんなこと言ったってお姉ちゃんのお尻が……」

 「それはちょっとぞっとするけんども……」紫子は嫌そうな顔をした。「自分でする。サドルも綺麗にせんとあかんなぁ。あとでティッシュとか持ってこんとなぁ……」

 「そんなのわたしがやるよ?」

 「おまえは手ぇ洗って休んどけや」紫子は溜息を吐く。「なんで気付かんかったんやろ? ウチあんま綺麗好きとかやないけんども、糞小便はちょっと流石に。臭いとかは別にええし最悪靴で踏むんは耐えられるけど、服とか体に付くんはどうしてもあかんわ……」

 「小さい頃カナブンで遊んでておしっこ引っ掛けられてからトラウマだよねぇ」緑子は思い出を想起しながら言った。

 「羽ばたいて逃げてったんよなぁ。葉っぱで服作ってやったのに酷い仕打ちやで。無理矢理着せたんはあかんかったと思うけんども……」

 「悲鳴あげてたもんお姉ちゃん。生ごみとか触っちゃっても平気な顔なのに、その辺は普通なんだよねぇ」

 生物や外見問わず排泄物であるというだけで平等にダメなのだ。幼い頃、カニ味噌がカニの宿便だと食べてから知って吐きそうになってたのを見たことがある。

 「……ま、まあこのズボンは別けて洗濯やな。とにかくおまえはもんたら手ぇ洗うんやでぇ」

 「はーい」緑子は頷いた。


 ×


 やがて夜になり、布団を敷いて寝る体制を作る。

 「おまえ薬飲むんか?」紫子は歯ブラシ口に突っ込んだまま言った。「今日寝んと寝てない四日目突入するもんなぁ。無理せられんで」

 「うん。飲んどくよ」緑子は言ってコップの水で薬を飲みこんだ。

 明かりを消して、布団の姉の隣に潜り込む。いつものように姉にぴたりとくっついていると、やがて睡魔がやって来た。

 流石に強い薬というだけあって眠くなるのはすぐだ。これなら眠れそうだ、というより起きていることができなさそうだ。

 薬の力で強引に眠らされる感覚というのは慣れるものではない。もう眠いということしか考えられない。何か大切な異変が起きたとしても、簡単な意志力では起き上がれないだろう。


 ×


 緑子は夢を見た。

 施設の寝室の布団の上でいた。緑子を取り囲むのは良く知る同室の子供達の顔で、そのことから緑子はそれが夢というより過去の思い出の想起であることを理解した。明晰夢を見るということは眠りが浅いということで、もう睡眠薬にも身体が慣れているということでもある。

 その中で緑子はどうやら泣いているらしかった。何故だろうと考えてみる。周囲の子供達が緑子に向かって手を叩きながらクサいとか汚いとか罵っているのは慣れた光景だ。しかし胸の奥からにじみ出て来るこの巨大な悲しさや情けなさはどこから来ているのだろうか。

 あ、そうだ。

 緑子は自分の座っている布団が湿っていることに気が付く。ぬるくて黄色い染みは夜尿をして目を覚ましたんだということを示している。そう言えば小学校の高学年の頃こういう癖があったんだっけ?

 「おねしょ! おねしょ!」

 周りの子供達が鼻をつまみながらそう言ってからかって来る。自分で汚した布団に顔を押し付けられたりだとか、『これで身体洗え』と石鹸を投げつけられたりだとか、結構酷いことをされた記憶がある。全身が引き裂かれるみたいに苦しくて自分が嫌で、もう死んでしまいそうになっていたのだ。

 「何しよんねん!」

 寝室の扉が開いて姉の声がした。

 その施設では兄弟姉妹は寝室を分けられていた。変に結託して脱走を図ったりしない為の処置であるらしかった。騒ぎを聞きつけて、やって来たのだ。

 唯一の味方である姉が登場して、緑子がまず思ったのは嫌だなということだった。紫子なら夜尿をした緑子をからかったりはしないと確信を持てるが、それでも一瞬、どうしたって、嫌そうな顔や軽蔑した顔をすると思ったのだ。

 「おまえの妹、おねしょしとるわ」

 悪童の一人がそう言った。緑子は消え去りたいくらいの気持ちで嗚咽をした。

 紫子はちらりと妹の様子を伺うと、その悪童に向き直って睨みつけた。

 「だからなんやねん?」

 「あ? だから汚いしクサいなぁって。こんな奴部屋にいられたらメーワクやわ。死ねばえーのにー?」

 「あんたらがそないしてイジメるから夜中まで緊張しておねしょするんちゃうんか!?」紫子はそう吠えて悪童の胸倉をつかんだ。「緑子はなんも汚ぁもクサぁもないわ!」

 「あ? 小便塗れなんやけど? 臭いに決まっとるやん?」

 「あんたの口の方がよっぽど臭いわ」

 「はあ? じゃあそいつが汚くないっていうんなら、おまえそいつの小便飲めんの? ほら! のーんでみろ!」

 紫子は憮然として頷いた。「飲めるに決まっとるやろ」

 そういって紫子は妹の方に歩み寄ると、隣に座って緑子の顔をじっと見つめる。何を考えているんだろうと思っていると、紫子はいきなり自分の股座に手を突っ込んできて、そこにこびりついていた尿の滴を掬いとった。

 「はあ?」

 あっけにとられる悪童達。緑子もぽかんと口を開けた。紫子は緑子の尿が付着した手を平気な顔で口に持って来て、ぺろぺろ丹念にと舐めとってしまう。どうだと言う顔。

 「きゃ、きゃああ!」

 これにはさすがの悪童達も降参したように悲鳴をあげた。軽蔑するというよりぞっとしたような視線を向けられている紫子に、緑子は縋りついた。

 「お、お姉ちゃんダメだよ。すぐに吐き出してよ。汚いよ」

 紫子は憮然とした顔で緑子を見詰めて、「汚なぁないわ」と言い張った。

 「何も汚ないわ。おまえの小便如き」

 緑子は理解した。この人は本当に何があっても自分の味方なんだと。


 ×


 そんなこともあったんだっけな。緑子は薄らぼんやりした意識の中で、見ている夢が終わりつつあるのを感じていた。

 つらい思い出でもあるけれど、同時に嬉しい思い出でもある。それから夜尿が治るまで長いこと、緑子は汚い臭いとバカにされ続けたけれど、紫子だけはずっと味方でいてくれた。姉がいなかったら多分自分は死んでしまっている。

 でもどうしてこんな夢を見たんだろう。何か思い出すようなことでも……。

 ふとそれを思い、自分の下半身がなんだかひんやりしていることに気付いて、がばりと身体を起こした。

 「……なんやねん」紫子が目をこすりながら隣で目を開ける。「なんか今日は冷えるなぁ布団被っとるのになぁなんでかなぁ。……あれ? どうしたん緑子なんか顔色おかしいで?」

 「お……お姉ちゃぁん」緑子は打ちひしがれてさめざめと泣き始めた。「ごめんねぇ……」

 布団には大きな世界地図が描かれていた。


 ×


 「うぅう。うう。ひっく、うぇええん」

 緑子はパンツもズボンも脱いで床に座ってえぐえぐ泣いた。十六にもなっておねしょした自分が情けなくてしょうがなかったのである。

 「ま、まあそんな泣くなや」紫子は弱った顔をした。「布団もパンツも代えあるし何の損害もないよ。それよりおまえ夜よう寝れたんやな。うん、それが良かったやん」

 もう窓からは朝日が差し込んできている。九時に意識を失ったから八時間は寝た計算だ。

 薬が効いた。というより効きすぎた。尿意を催してもそれに気づくことがないくらいに深く意識を失っていたのだ。そして薬が切れてようやく尿の冷たさに気付いて覚醒したと。

 不眠症の薬でそういうことは起きるそうだが、しかしわが身に降りかかると飄々とはしていられない。情けないしつらいし悲しいし泣いてしまう。

 「ごめんねぇお姉ちゃん。迷惑かけたねぇごめんねぇ」

 「何のメーワクがかかるっちゅうねん」紫子はそう言いながらパンツとズボン持ってやって来た。「他の誰に遠慮してもウチに遠慮すなよ。ほらこれ穿けや。ああその前に股拭かんとなぁ、脚もうちょい開いてみ?」

 「うん、うん」

 緑子はそう言って股開いて拭いてもらってパンツとズボン履いた。姉の手つきはあまり器用ではないが、いちいちが丹念で優しい。

 「お姉ちゃんも服着替えなよ」緑子は言った。

 「ウチは漏らしてへんで」紫子は首を傾げた。

 「そうじゃなくて……くっ付いて寝てるんだからお姉ちゃんの服もちょっと濡れて……」

 「確かに濡れとるけどええわこんくらい」紫子ははっきり言い切った。「最悪かぶれるくらいやろ?」

 「でも……でも……。着替えて、着替えてよ?」

 「……そうしょうか?」紫子は顔をしかめて言った。「いやあんま大げさに服着替えたりしたらおまえ傷付くかも思うてな。ほらこんまい頃おまえおねしょするたびからかわれて泣いとったやん。ウチだけはちょっとでも汚がったりしたあかんなって」

 そう言われ、緑子は当たり前みたいな顔をしている姉を見て、なんだか熱いものが胸からこみ上げて来るのを感じた。

 私はあなたの味方ですと口で伝えるのは容易だ。もちろんそれだけでも大きな救いにはなる。だが行動で示すのはそう簡単なことではないし、まして確信を与えてくれる人なんて他にいるはずもない。そんな人がいたから自分は生きて来られた。そしてその人は今もここにいるしいつまでも傍にいてくれる。

 目頭が熱くなった。そしてぽろぽろと温かい涙がこぼれ落ちてくる。

 「なあ、泣かんとってよー」紫子は弱った顔をする。「もうここにはおまえのことからかったり汚がったりする奴おらんよー? ああでもおねしょしてもたこと自体がつらいんなー? でもいけるよー緑子ー。なー?」

 そう言って、夜尿して小便臭いはずの自分を後ろから優しく抱きしめてくれる紫子の腕の中で、緑子が泣き笑いを浮かべたところでこの話はおしまい。

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