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姉妹、猫殺しと対決する 後編10

 △


 虹川憩の車両は北野の車両の目と鼻の先にあった。こんなに至近距離に車を停められたら発進もままならない。背後は壁なのだ。茜は仕方なく相手の手招きに応じて、胡桃と一緒に車を降りた。北野には運転席で待機してもらう。

 「こんばんは」巨漢の外国人男性とチューブトップの少女を背後に従えた虹川憩は、そう言ってにっこりと微笑み、身体をまげてお辞儀をした。「はじめまして、ですね? 梢ちゃんの電話を使って私を呼び出したのはあなた方ですか?」

 「ヘイビッチガール!」外人は茜に指を突きつけて吠えた。「良くもワタシのスマホ盗んでくれマシタネー! 許しマセーン!」

 「なーんか間が抜けてるっすよねミスターブラウン。軍人の頃拷問に合ってアタマがユルくなったんでしたっけ?」少女がそう言って肩を竦めた。

 「お名前を聞かせていただけますか?」虹川憩はたおやかな笑みを崩さない。見ていると女の茜でも吸い込まれそうになるくらい、上品で魅力的な笑みだ。「今、私達は、じっくりとお話をする必要があると思うのです」

 「人に名前を尋ねる前に、まずは自分が名乗るものですよ」茜はそう言って両手の拳を握る。いつでも戦える姿勢だ。

 「虹川憩と申します。精神科医をしています」虹川憩はそう言って頭を下げた。「以後、お見知りおきを」

 「リチャード・ブラウンデース」外人はそう言って親指を突き立てる。「ヨ・ロ・シ・ク」

 「なぁにをのんきに」少女はそう言って腰に手を当てる。「上坂深紅。上り坂に深い紅色」

 「東条茜と申します。こっちは胡桃南。ただの学生です」茜は胡桃を指さして言った。「申し訳ありませんが、そんなところに停車されたらこちらの車を発進させられないのですよ。少しバックしてもらえませんかね?」

 「お話が済み次第」虹川憩はニコニコと笑い続けている。「リチャードさんのスマートホン、中はご覧になりましたか?」

 「あなたはそこのリチャードさんに『女神』と呼ばれているようですよ」茜は言った。「河原で猫を串刺しにしてバーベキューをするだなんて、なかなか良い趣味をされてますね」

 「猫ちゃんは昔からずっと私の遊び相手でした」

 虹川憩は遠い目で空を見上げる。漆黒の空には星なんて一つもない。雲の切れ間をこじ開けるように、まん丸い月だけが我が物顔で茜達を見下ろしている。

 「愛してあげようって、頭を撫でてあげようって思うのに、でも抱き上げるとするりと腕の間を抜け出して逃げちゃうんです。腹が立って。だから逃げる前に、手足を折るんです。そしたら逃げずに私と遊んでくれるから……。楽しくて、楽しくて楽しくて」

 「あなたの悪趣味について話し合うつもりはありません」茜はそこで虹川憩の話を遮った。「ミスターリチャードブラウンというんでしたっけ、そこの男性。彼のスマホのデータは全て私の家のパソコンに送信済みです。あなた方に逃げ場はありません。観念することですね」

 パソコンに送信済みだというのははったりで、まだそこまでは済んでいなかったが、しかし虹川憩たちにそれが分かるはずもない。

 「はい。観念しまぁす」虹川憩はあっさりと言った。「私達がどうなるかはあなた方の胸先一つ。それは分かってますよぅ。ですから、お話ししませんか? 悪いことは言いませんから」

 「何を話すことがあるのです?」

 「お二人とも、高校生ですかね?」虹川憩は、そう言って、鞄の中に手を突っ込んだ。「いいなあ、お若くって。男の子と一緒に夜の街をドライブして、動物を殺す悪い大人達を罠に嵌めて、大冒険して……素敵な青春。羨ましいなぁ」

 白い腕が鞄の中から出て来た。拳銃でも握っているのかと思って警戒していた茜だったが、その手にあったのはいくつかの札束だった。

 あっけにとられる茜の前に、札束が放り投げられる。思わず拾い上げる。三束あった。ずっしりという重さは全部一万円札だ。匂いといい質感と言い、どても偽札であるようには思えない。

 「えへへぇ……さんびゃくまんえんです」

 虹川憩はそう言って笑い、指を三本立ててこちらに指し示した。

 「皆さんくらいの年の学生さんだと、小切手なんか渡されるよりこっちの方が分かりやすいでしょう? 車のトランクひっくり返したらこんなにあって良かったですよー」

 「…………金で解決しようと?」

 「良いじゃないですか?」虹川憩は少女のように首を傾げた。「皆さんくらいの御年頃だと、それだけあればやりたいことなんだってできますよね? お友達同士で協力しあって大冒険をして、悪事を暴いて犯人を突き止めて、最後に手に入るのは目もくらむような金銀財宝。素敵な思い出話じゃないですか。ずぅっとエキサイトできますよ。いいなぁ」

 「条件は? あなた達の悪事を黙っていることですか?」

 「それと、梢ちゃんに会わせてください」

 その時、虹川憩の表情から笑顔が消えた。

 「あなた達ですよね? 梢ちゃんの携帯電話を使ってあたしをここに呼びだしたの」さっきまでたおやかに微笑んでいたのに、虹川憩は唐突に憎悪の表情を浮かべる。「……なんでそんなことができるんですか? 梢ちゃんはどこ? あなた達は梢ちゃんのなんなんですか? お友達? 許さない……。あの子にはあたし以外必要ないのに、許さない、許さない許さない、許さない……」

 蒼い炎が揺らぐかのような静かで強い怒りを感じる。両足が震え、美麗な顔は美麗なまま鋭く歪められ、その内心でどれだけの混沌と憎悪が渦巻いているのか想像もつかない。理性のある狂人が怒りをあらわにすれば、こんな風になるのではないか。

 「つまり、あなたが求めているのは、私が虹川梢の居場所を吐いた上で、あなた達が犯した動物虐殺の罪については沈黙することという訳ですか」

 「そうそう。そうなんです!」

 虹川憩はぱっと明るい笑みを張り付けた。それは『張り付けた』としか形容しようのない変わり身の早さだった。まるで情緒が安定していない。さっきからこいつの見せている表情のどこまでが本当の感情か分からない。分かるのはまともな人間でないということだけだ。

 「あたし。梢ちゃんのことだけは自分のものにしようと思ってるんです」虹川憩はそう言って両手を握り合わせ、自分の考えた素敵な計画の話をする小さな子供のような興奮を纏いながら話し始める。「十二歳の時、あたしの為に小さな赤ちゃんがこの世に産まれてきました。その子はあたしが抱いたら笑ったし、あたしを求めて泣きました。他の誰と通じ合うことができなかったとしても、他の何が手に入らなかったとしても、この子のことだけは絶対に自分だけのものにしようって、思ったんです」

 虹川憩は夢見るように自分の身体を抱きしめる。強く目を閉じるその姿は絵画のように美しい。

 「だから、あたしに梢ちゃんの居場所を教えたら、もう二度と、あの子には近寄らないでくださいね。梢ちゃんにはあたしの方から言っておきますから」

 「なるほど」茜はそう言って、三百万円の札束を見詰めた。「あなたの望むところは理解しました。その為にどのような対価を払うのかも」

 頷けばこれは自分のものになる。胡桃や北野と分けても百万だ。

 いや、金額はそこで終わりになるものではない。少し交渉すれば釣り上げることは容易だろう。この女の限界がたったの三百万円だとは思い難いし、また妹に対する執着心の強さや握られている弱味の程度からしても、この数倍数十倍の金額を揺することは容易だと思われる。

 「分かりました! あなた方の要求を呑みます!」

 茜はそう言って微笑み、札束を強く握りしめた。虹川憩の表情がパッと明るくなる。

 「と……でも言うと思ったか!」

 片脚を上げる。百六十五キロ出す時の大谷翔平ばりのフォームで投げ放たれた三束の一万円札は、目にも止まらぬ速さで虹川憩の顔面に到達し、激しい音を立てかと思ったら夜空高く舞い上がった。

 バサバサと札束が地面に落ちる音がする。虹川憩は衝撃でふらりと後ろ向きに倒れそうになり、リチャードと深紅によって支えられた。

 「せ、先生!」「オー! マイエンジェール!」

 従僕二人は慌てた様子で虹川憩を見詰めている。ふらふらと二人の腕から立ち上がると、虹川憩は顔面に札束が直撃した時に吹いただろう鼻血を手の甲で拭い、顔をしかめて茜の方を睨む。

 「ううぅ。お金あげるって言ってるのにぃ!」虹川憩は子供のように地団太を踏んだ。「もういいです! さらっちゃいましょう。暗くて狭い部屋でじっくり交渉するでも記憶を消し去るのでも海に沈めるのでもどうとでもできます。リチャードさん、深紅ちゃん、お願いします!」

 「はい先生!」「イエス・マム!」

 上坂深紅とリチャードブラウンの二人は、それぞれ茜と胡桃に向かって掴み掛って来た。


 △


 当然、それを茜と胡桃は迎え撃つ。

 茜は自分の方に突っ込んで来た深紅に向けて、得意の飛び蹴りを見舞った。躱される。着地した時の隙を付こうと足払いの体勢を深紅が取ったので、茜は地面を踏んですぐに再び立ち上がって距離を取った。ぎりぎりのところで回避に成功する。

 こうすることでリチャードの方とは距離ができた。そっちは胡桃が相手をしているようで、太い腕を振り回して迫って来るリチャーを紙一重でさばいている。二人の体格差は身長にして四十センチ程もあったが、しかし茜は胡桃のことを信頼していた。自分の相手に集中しよう。

 「いやぁ。まさかこんなところでまた出会うとは思わなかったっすよ」そう言って、上坂深紅は両手を開く。「ねぇ、東条茜。ひさしぶりっすねぇ」

 「は? あんた誰ですか?」茜は首を傾げる。

 「あ? いやだから上坂深紅っすよ。小学生の時、地方大会の予選の一回戦で手合わせした」

 「いや、そんなの覚えてないです」

 「……え、ちょ? マジで覚えてない? ほらあんたが小五であたしが小六の時の……当時はあたし全盛期で、有名人で、優勝候補ナンバー1で……」

 「……? あー! あの一回戦で私に負けた人ですね?」茜はそう言って相手を指さす。「髪形変わってますけど顔は同じです! いやぁ懐かしいですねぇ!」

 思い出した。上坂深紅、茜が初めて参加した大会の前年度の優勝者が彼女だった。五年生にして全国選手権の優勝をかっさらい、天才小学生あらわるということでテレビにも何度も出ていて有名人だった。当時は名前くらい知っていたし、予選の一回戦から彼女にあたった時指導者達は皆落胆し、茜を慰めたものだった。

 「確か私が勝ったんですよねー。あの試合」茜はそう言ってけらけらと笑う。「テレビ見まくったりしてあなたの動きの癖とか分析しまくったんですよねぇ。戦う前から諦めるなんてありえなかったですし……とは言え今試合内容を思い返せばまあまあラッキーな勝利ではありました。あなたにも油断があったのでしょう。HAHAHA」

 「…………あんた、あの時まだ拳法初めて数か月とかだったっすよね?」深紅はそう言って目を細める。「それ聞いてあたし自信喪失のあまり死ぬかと思ったっすよ。実施、師範でもある母親にボッコボコにされて物理的にも死にかけてたし。毎晩あんたに負ける時の夢ばっかり見てて、試合でも手がすくんでどんどん弱くなって落ちぶれて……」

 「誰にだって挫折はありますよ」茜はうんうんと頷いてやる。「それに私に負けたことで自信を失う必要はありません。あなたが天才なら私は大天才ですからしょうがないですよHAHAHA」

 「……ずっとあんたに勝つことだけを考えてたっす。そうしたら輝かしかったころの自分に戻れるって思って。臥薪嘗胆の思いであんたの写真に囲まれて寝てたっすよ……ケータイの待ち受け画面とか今もあんたっす」

 「そ、そりゃまあ、熱く想われて光栄です、ね……?」茜は身を退いた。「そんなに拳法に打ち込んでるあなたが、何故虹川憩と一緒に動物殺しなどやってるのです?」

 「……あんた中学上がる前に拳法やめたじゃないっすか? リベンジの機会失って、一時あたしすっからかんになっちゃったんすよね。あたしもやめちゃおうかなって思ったんすけど、でもあたしをオリンピックに出そうとしてる母親はそんなん許してくれないし……鬱病なりかけて病院通うようになって……そこであたしは先生に救われました」

 にやりとほほ笑んだ深紅の表情に、激しい生気がみなぎっていく。

 「先生は言いました。野良試合でも何でもいいから、後ろからの不意打ちでも何でもいいから、東条茜をぶちのめしてほえ面かかせて土下座させれば、あなたの魂は救われるはずだって。母親の為でもオリンピックの為でもなくその為に拳法に打ち込めば良いんだって。その言葉に救われて、あたしは毎日拳を磨くことができたっす。毎日毎日たった一日も休むことなく鍛錬を続け……結果、高校最後の選手権では全国ベスト16に入賞できた!」

 「小学生の時と比べたら型落ちしてない?」茜は言った。

 「るっせぇええ!」深紅はブチギレた。「今のあんたに勝てりゃぁそれでいいんだよぉおおおお! 死ねぇええええ!」

 そう叫んで深紅は茜に殴りかかって来た。全国ベスト16級の突きが茜に襲い掛かるのを紙一重で躱す。

 こいつはこいつでなかなか不遇な青春を送って来たらしい。そこを虹川憩に付け込まれて今は手下みたいなことをやらされていると。哀れだとは思うが茜の知ったことではない。殴りかかって来るなら相手をするまでだ。

 やたら速い深紅の突きをぎりぎりで躱す。所詮は女の腕なのでそう太くはないがしなやかに長い。身長も百七十センチはありそうだ。その鍛え抜かれた拳がピストルのような鋭さで茜の急所めがけてまっすぐ伸びて来る。一発でももらえば致命傷になりかねないし、クリーンヒットせずとも防御して受けるだけでも相当な消耗は避けられないだろう。全国ベスト16というのは伊達ではない。

 茜の方も道場に通わなくなったとは言え自己流で拳は磨いて来た。道場で習ったことを下敷きにいろんなところから良いところだけを齧って作り上げたいわば東条茜流だ。それなりに自信はあったが、しかし深紅の単純な技量はそれを上回っているらしい。

 茜は反撃を諦めて大きく後ろに飛んで距離を取った。すかさず距離を詰めて来る深紅の顔面に向けて、地面の砂を大きく蹴りつける。

 「うわっぷ!」深紅は目を閉じて両腕の構えを引き、その場で腰を落とす。予想外の攻撃に当惑しつつも、狼狽えて隙を作ることなくしっかり迎撃態勢を取るあたりは流石と言わざるを得ない。

 茜は地面に落ちていた小石を二つ拾い、それぞれを両手に握りこんだ。追撃の来なかったことを意外そうにしながらも、深紅は目を開けて茜の姿を確認した。

 「そんなもん握りこんでどうするつもりっすかね?」深紅は舌を出す。鮮やかに赤かった。「それ握って殴れば威力が増すとでも? それともぶん投げて来るつもりっすか? 砂を蹴ったり石を投げたり、あんたの闘い方も随分と落ちぶれたもんっすね」

 深紅は石を握った茜の両手に注意を払うように、茜の腕がとどかない絶妙な角度に回り込み、突きを放ってくる。

 それに応じて……茜は素早く片脚を蹴り上げた。

 「ガハっ!」

 両腕を警戒しすぎていた深紅は予想外の蹴りをもろに腹部に食らってしまう。これ見せよがしに石を握りこめば誰だって両手に注目する。だが実際のところ両手は撒き餌に過ぎなかったのだ。作戦成功。

 さらに茜はせっかくなので、片脚を上げた体制を活用し握りこんだ石を深紅の顔面に投げつける。久保康友ばりのクイックモーションだ。

 「ひでぶっ!」

 鼻先へミラクルヒット。鼻腔から血しぶきが上がる。それに狼狽え完全に構えの解けた深紅の顎に向けて、茜は残るもう一つの石を右手に握り替え栄光の右アッパーをお見舞いした。

 最早悲鳴も上がらない。まるまる一メートル程は吹き飛んだ深紅の身体は、重力落下して背中から地面に叩きつけられる。目の焦点が合っていないのを見るに脳震盪を起こしているらしい。勝負あった。

 「完☆全☆勝☆利」茜は腰に手を当ててふんぞり返った。「強かったですよあなたは。はっきり言って私よりも各上でしょう。ですがね、負けられないのは私も同じなんですよ」

 深紅にとって茜は負けられない宿敵だったのだろう。実際深紅は強かった。競技場で出会えば百回に一度勝てるかどうかという相手であり、それはラッキーパンチで勝利した当時から変わらない。

 だからと言って今この時茜は負けてしまう訳にはいかなかった。友達と約束をしたからだ。茜は両腕を組んで深紅を覗き込み、聞こえているかどうかも分からないまま声をかける。

 「またいつでも挑んできなさいな。あなたの満足するまで相手をしますよ」

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