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姉妹、旧友に再会する 2

 〇


 今から数年前。九歳の紫子は一人公園のブランコに座り込んで泣いていた。

 地獄は始まっていた。既に紫子の全身には『あの男』によってアザやヤケドが多く刻まれていて、何かあるとすぐここに逃げ出して泣いていた。

 『大丈夫か?』

 そんな紫子に心配げに声をかけた者がいた。

 『あかねちゃん?』

 紫子はそう言って振り返った。当時十歳の茜は紫子の隣のブランコに座り、問いかけた。

 『どうしたの?』

 『……緑子がまた殴られた』紫子は嗚咽を漏らした。『あたしの所為なんだ。あたしがあの人の部屋で小火なんか起こすから。それなのに緑子があたしをかばうから。だからあたしじゃなくて緑子が殴られて。足が痛いって、痛いって、泣いてて、でも病院なんか連れてってもらえなくて、かわいそうで、かわいそうで』

 『そうか』茜は腕を組んで思案するような顔をした。

 『あたしが悪いんだ。あたしが卑怯だから、弱虫だから……』

 『紫子ちゃんは悪くないだろ』茜は言い切った。『殴られるのは痛いだけだ。でもそうやって自分がダメで悪いって思いこむと、本当に大切なものが失われていくんだぞ? だからしゃんとしてろ』

 『無理だよ。そんなの』

 『まあ、そうなんだよな。殴られっぱなしじゃ誰だって折れちまう』茜は溜息を吐く。『結局、耐えるだけじゃダメなんだよな。戦わなくちゃダメだ。戦って勝たなきゃ何も変わらない』

 『……戦う? あの人と? どうやって?』

 『相手は大人の男だもんな。結局最後にものをいうのは腕力だし……』そう言って、茜は何か思いついたように右の拳を左の手の平にたたきつけた。『そうだ! 良いことを考えたぞ』

 『え? 良いこと?』

 『そうそう。お姉さんに任せとくんだ』茜はニコニコ笑う。『私が明日から拳法を習おう。それで強くなったら、紫子ちゃん達の敵をぶっ倒してやる。そしたら二人とも幸せに暮らせるようになるってもんだ』

 『……え? できるの、そんなこと』

 『できるに決まってるだろ。私がやろうとしてできなかったことなんてある? 模試の順位は地区で一位だし、体力テストだって校内トップだぞ。任せといて』

 そう言って、茜は指切りをするように小指を差し出した。

 冷静なところでは、紫子は、この問題が茜の力をもってしてもどうにもならないことは理解していた。それでも縋らずにはいられなかった。脆弱な蜘蛛の糸に過ぎずとも、縋らずにはいられない程、当時の紫子は希望に飢えていた。

 「……半ばやな。半ばやけど……本気で信じとった。でも今になって考えたらあんなもんは子供の戯言や。ほんなもんにウチは勝手に期待して、勝手に失望して、ほんで……」紫子は溜息を吐く。「結局、一人で戦うたんや。戦うて、勝ったんやで? ウチは。でも、まるで遅かったんや……」

 「どうしたの? お姉ちゃん」緑子は首を傾げた。「なんか、ぶつぶつ言ってるけど、お腹痛いの?」

 「あ、いや。ちゃうでちゃうで」紫子は手をブンブン振る。「ほらあかねちゃんに会うたやろ? 昔のこと思い出しとってなぁ」

 四畳半の自宅である。あれから食事をして帰宅し、そこから緑子と二人テキトウにくつろいで気が付けば夕方という塩梅だった。

 「せや緑子。そろそろ風呂入りにいかんか?」

 紫子達の家には風呂場がないので、入浴は銭湯で済ませている。他人と顔を合わせると確率でパニックになる緑子を安全に入浴させるためには、あまり混まない時間帯を選ぶ必要があった。

 「そうだね」緑子は言う。「いこっか、お姉ちゃん」

 荷台に緑子を乗せて自転車で出発。銭湯に向かう。

 「でもすごい偶然だよねぇ」銭湯に向かいながら緑子は言う。「まさか、あかねちゃんが今この辺に住んでるなんて」

 「せやなぁ。……まあ、ウチらには関係ないことや」

 「そうだよね」緑子は言った。そうだ、紫子は緑子の返事に頷く。それだけは確かだ。「でも、一度くらいじっくり話してみたいかも。昔の話とか……」

 「うーん……」紫子は首を捻る。「何話したらえぇんかなぁ?」

 紫子の中には、『茜には裏切られた』という意識が、僅かながらも確かに存在していた。いつアイツを倒してくれるのかと茜に何度聞いても、『まだ修行中だから』とはぐらかされてばかりで、今となっては本当に拳法をやっていたかどうかも分からない。

 分かっている。所詮子供の戯言だった。紫子を励ます為についた咄嗟のウソだったのだろう。つまり、自分は味方であるという意思表示。そんな実態のないもので救われるような状況ではなかったが、しかし幼かった茜なりの善意ではあったのだろう。

 理性で考えればそれは分かる。それでも、紫子はどうしても茜に素直に接することができなかった。顔を見ないで済むならそれで良いとすら思っていた。どうせ今の自分には妹さえいれば良いのだから。

 銭湯にたどり着く。人のいない湯船に浸かって薄らぼんやり過ごす。二人とも長湯が得意なタイプではないのだが、ついベラベラくだらない話をしすぎてのぼせてしまう。

 「ねぇお姉ちゃん」

 「なんや緑子」

 「こうやって湯船に浸かってると、たまに怖くなるんだけどさ」

 「何が怖いねん」

 「そのね、この湯船の中に何か悪いものが潜んでいて、わたしの足を掴んで水の中に引っ張り込むの。それでわたしは苦しんで溺れて、地獄に引きずりこまれるの」

 「そんな奴はウチが蹴っ飛ばして終わりや。何が来てもウチが守る。せやから、安心しぃ」

 などと話していると、二人が並んで座っている反対側の壁から、ばしゃりという水が跳ねるような音がした。まるで、中に何かが潜んでいて、それが顔を出そうとしているかのように。

 「な、なに?」緑子の視線がそこに向けられる。「まさか……本当に……?」

 「あ、アホ。なんか水滴かなんか落ちて来て……」波紋の広がる湯船の中央から、ぶくぶくと小さく泡のようなものが噴き出してくる。

 「な、何かいる?」緑子は紫子の方に抱き着いた。「わわわわ。怖いよ、お姉ちゃん」

 「な、なんや? 何がおるんや?」紫子もこれには本気でびびっていた。「誰や? 出てこい。出て来てみぃ」

 すると、ざばざばと波を立たせながら湯船の底から立ち上がった何かがいた。海坊主のように登場したずぶ濡れのそいつは、水滴を滴らせながら腰に手を当てて仁王立ちする。それから済ました笑顔でこういった。

 「私です!」茜だった。

 「あんたかいな!」紫子は目を飛び出させて茜の方を見た。「いつからもぐっとったねん!」

 「あなた達が入って来たあたりから」茜は心なし頬を赤くして、大きく呼吸をしてから言った。「いやぁ、潜水は得意なんですが、こんなに長く潜ったのは水泳部のTさんと賭けをした時以来ですよ。結局私が一分長く潜って勝利した訳なんですが」

 「相変わらず勝負事には負けんの自分」紫子は言う。「そないな気味悪い登場の仕方して、緑子がびびっとるやんけ」

 緑子は恐怖と安堵の狭間で放心したように茜の方を見ている。その様子が健常なそれではないことに気付いて茜は首を捻った。

 「どうしましたか緑子ちゃん。様子がおかしいですよ?」

 「良うこんな風になるねん。せやからあんま刺激与えんといたげて?」

 「ふむ……色々あったのですね、あなたたちにも」

 「そらそうや。もう六年か七年ぶりやろウチら。その間中、あんたにも色々あったんと同じように、ウチらにも色々あったんよ」

 「なるほど。確かに私もここ数年、本当に色々な体験をしましたからね。愛と冒険の大スペクタクルか……」茜は遠い目をして言った。「海超え山超え、色んな人と出会い、様々なものを救ったものです」

 「偉い壮大やなぁ自分」

 「ええまあ。数年前に金〇〇が死んだのも、私の暗躍によるものです」

 「マジで!?」

 「世界中を股に掛けました……。バキスタンで紛争を一つ食い止め、サモアでテロ組織を一つ壊滅させ、消費税を8パーセントに増税しました」

 「消費税上げたんは安倍総理やろ! 息をするようにでたらめ言う癖直っとらんな自分」

 「昔のあなた達がそこそこ信じてくれるのが悪いのです」

 開き直る茜。思えばこの女はしょっちゅう救いようのないでたらめを言って、紫子達をからかったものだ。紫子はこいつになんでもないただの石ころをティラノサウルスの化石と思いこまされて、後生大事に持っていたことがある。

 「あんたに友達がおらんかった理由分かるわ、この嘘吐き」

 「違いますよ。たまに本当のことも混ぜてます」

 「猶更性質悪いわ! もうえぇわ。緑子、行こう」

 そう言って緑子の手を引いて銭湯を出ていく紫子。「ちょっとちょっと」と茜が後ろに追いすが

った。

 「待ってくださいな。どうしてそう避けるのです?」

 「言うたやろ? ウチらは二人だけで生きとるんや」

 「やれやれ。随分と尖がっちゃったんですね紫子ちゃん。昔はあんなに可愛かったのに」

 「すまんけどウチかて自分の人生があるからな。ずっとあんたにとっての可愛い人間でおれる訳ではないんやで」

 「ふうん……。まあ、いいでしょう。私H町の駅前のアパートに住んでますので、会いたくなったらいつでも来てください」

 「会いたくなったらな」紫子はそう言って手を振る。「さよならあかねちゃん。昔は遊んでくれてホンマありがとう。あのころは楽しかったで」

 「ええ。さようなら」茜は言って、浴場を出ていく姉妹を見送りながら自分は湯船に体を伸ばす。「また今度」

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