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姉妹、猫殺しと対決する 後編1

 〇


 バイトからの帰り道というのは生活の中で最も自由な気持ちになる時間であり、翌日が休みであったりしたら尚のことハッピーになれる。空の色も町の木々も普段よりよほど鮮やかで、上向きな気分は労働の疲労を補って余りあり足取りを軽くさせるのだった。

 紫子は上機嫌に鼻歌など歌いながら鍵を取り出し、自室の扉を開け放った。

 妹が壁に向かって土下座をしていた。

 「ごめんなさいぃ!」

 涙の混ざった尋常じゃない声音だった。紫子は慌てて靴を脱いで妹の傍に駆け寄る。もう随分とその姿勢を貫いていた証拠に床は涙の粒に濡れていて、丸まった身体はがくがくと気の毒な程震えていた。

 「ごめんなさいごめんなさい! わたしねこばばなんてしてないんです。本当なんです信じてください。中のお金には指一本触れてないんです、だから捕まえないでくださいやめて助けてうわぁああお姉ちゃああああん!」

 「み、みどりこー! 何があった!? マジ何があった? お姉ちゃんもんてきたでもういけるで話してみぃ? な?」

 緑子は青白くさせたぐちゃぐちゃの顔をこちらに向けると、「ふぇえええん」と泣き叫びながら姉の身体に縋りついた。

 錯乱しまくる妹を何とかなだめつつ話を聞くと、以下のようなことが起きたらしい。

 夕食の仕込みをしている最中にトイレに行きたくなった。腹具合と紫子が返って来るまでの時間、漏らした場合に姉にかかる迷惑をそれぞれ考慮に入れた上、緑子は意を決してアパートの共同トイレまで出かけることにした。

 数メートルにも及ぶ長い道のりを何度もくじけそうになりながら歩ききり、なんとか目的を達成したまでは良かった。帰りの道程ふとアパートの麓の様子を見ると、アパートを囲う茂みの傍に黄色い何かを発見した。

 それが今部屋の机に置いてある財布ということだった。財布というか小銭入れみたいな、丸い布製でチャック式の入れ物である。見て見ぬふりをできなかった緑子は五分間に及ぶ大冒険を経て財布を拾うと、警察に届けようと考えて交番までの距離を思い出し、やむを得ず家に持ち帰った。姉が戻って来たら相談しようと思ったのだ。

 だがいざ持ち帰ってみると自分の行いが完全に拾得物横領のそれだと気が付いた。誰かに見られていたらまずいかもという考えは、きっと誰かに見られているという空想に変化する。最終的にはもう既に通報がされていて今に警察がこの部屋に突入し手錠をかけられるという確信に至り、気が付けばあちこちから自分を責め苛む声が聞こえて来て、緑子は泣き出して土下座を始めた。その場で丸まって謝罪の言葉を喚き散らすこと二時間ほど、ようやく姉が返って来たという次第だった。

 わんわん泣きじゃくる緑子をなだめてやりつつ、不憫な妹の為に溜息を吐いた。どうしてこいつは、こんな子供の財布の為に死にそうな思いをしなければならないのか。

 机に置いてあるチャック式の小銭入れは収納スペースも一か所だけだと思われ、まともに大人がメインの財布として使用できるようなものではない。可愛らしいキリンの絵が描いていることを考慮しても子供の持ち物に違いはない。

 「泣くなや緑子。おまえはなんも悪いことしてへんで。これは今からお姉ちゃんがケーサツに持ってったる。きっと持ち主のところへ返るわ、そしたらおまえのお陰やで」

 持ち主は緑子に感謝をすべきだ。ガキの財布如きにここまで一喜一憂する人間もそうはいない。その善意は報われても良いと紫子は思う。

 そう考え、紫子はふと閃いて財布のチャックを開け始めた。

 「え? ど、どうしたのお姉ちゃん?」

 「ふふふ。なあ緑子、こういうんって持ち主見付からんかったら拾った奴のモンになるんよな?」

 「う、うん。後は持ち主が見付かっても一割もらえたりするね」

 「ウチら権利あるで。ナンボ入っとるか気にならん?」

 「え、ええと。で、でも、中身見るのとか、あんまりよくないんじゃないのかな?」

 「ちょっとだけやちょっとだけ。HAHAHA」

 何が『ちょっとだけ』なのかは説明できないがとにかく紫子はチャックを開けた。中をひっくり返して机の上に中身をぶちまける。

 ぐしゃぐしゃに折りたたまれたお札の塊や無数の小銭に混じって、硬くて重いカードの束がゴトンと音を立てて机に落ち、その衝撃で閉じられていた輪ゴムが外れて机に散らばった。

 姉妹は表情を硬直させ、顔を見合わせた。紫子はカードの束は良く分からずとりあえずお札の塊に手を伸ばす。まとめて折りたたんだお札は二枚や三枚じゃなさそうで、おまけに全部一万円だ。紫子は思わず手が震えた。

 紫子は一万円というものを滅多に手にしない。姉妹の財産は緑子が管理していて、紫子はその妹に手を突いて出して小遣いをいるだけもらっているが、失くすと大変なので一万円札を要求したことは一度もない。一人でそんなに持ってて何に使うというのか。半額の五千円ですら、大きな買い出しで受け取ると十歩進むたびに財布を確認したくらいだ。紫子はそんな金銭感覚だ。

 なのに今手元には目もくらむような枚数の一万円札がある。恐る恐る数えてみると八枚だった。最早これがどういう意味のある金額なのかもわからない。

 「は、はちまんえん。な、なあ緑子八万円っていくらや?」

 「……千円札だと八十枚」

 「は、八十って、なにそれ? やばない? ウチの分かるもんでいうと何が買えるん?」

 「プレステ4とうぃーゆー両方買えるね」

 「やばいやろ……こんなん金庫に入れとかなあかんのとちゃうんか……?」

 「ま、まあこれくらいだったら持ち歩く人は持ち歩くけど……でもなんでこんな小さな財布に……。このカード類も、ふつうに免許証とかキャッシュカードとかだし……わ!」

 緑子はカードの束を一枚ずつまとめながら驚愕したような声を出した。

 「こ、このクレジットカード……黒い」

 「黒いとどうなん?」

 「すっごくお金持ちってこと……。うん?」

 緑子は一枚の白いカードを手にして首を傾げる。紫子はそこに首を突っ込み覗き込んだ。

 白いボール紙にボールペンで何やら文章が書かれている。文字自体は子供の用に丸っこくてあちこち揺れていたが、行の組み方はしっかりしていて読みづらさはない。

 『お財布を拾っていただいてありがとうございます。お願いしたいことがあります。このお財布は父からもらった大切なもので、失くすとあたしは悲しいと思います。中のお金は差し上げますので、お財布はどうか近所のポストに入れておいて下さらないでしょうか? もしくは、こちらの電話番号にかけていただけたら、あたしの方から取りに伺います。お礼もします』

 携帯電話の番号が記されている。文章を読み上げた緑子は眉を顰めて姉の方に視線をやると、

 「電話、かけてあげたいな」

 と呟いた。紫子は胸を張ってそれを請け負った。


 〇


 電話を掛けると、若い女の声が出た。

 「はいもしもしどなたですかー? え? はい? お財布ですか? ちょっと待ってくださいねー。あれ? 持ってないや。…………持ってない!? わぁー! どうしようどうしよう! わー! わーわーわー! え? なに? 大丈夫だって? なんでですか? え? あ、そうか、拾ってくださったんですよね。それで電話かけてくださったんですよね。じゃあそうか、大丈夫か。大丈夫なんだ、返してもらえるんだ。えへへ。えへ、えへへへへへ」

 屈託のない笑い方だった。焦燥したり照れ笑いしたりせわしない。ただ財布を落として動揺しているというだけではおそらくなく、本人の気質としてそそっかしい部分もありそうだった。

 「今すぐ伺いますので、ご住所いただいてもよろしいですかぁ?」

 紫子は素直に教えてやった。と言っても住み始めて数か月のここの住所なんてはっきりと暗記はしておらず、町の名前とアパートの位置をたどたどしく説明した後で「そこの二階の一番左端や」で締めくくった。

 女は相槌を打ちながらそれを聞いていて、最後に元気よくこう言った。

 「分かりました! じゃあメモをするのでもう一回言ってください!」

 紫子はブチギレそうになりつつ復唱した。

 「お礼を用意して伺いますね。本当にありがとうございます」

 通話を終える。緑子は少しだけ緊張した面持ちで「どんな人だった?」と紫子に聞いた。

 「アホやと思うで」

 ぶった切るような紫子の人物評に、緑子は苦笑する。

 「名前とかは?」

 「え? 名前? あ、そういや聞いてへんわ。この女名乗ってすらない。うん、焦っとったんやろな多分。でも免許証入っとるんやっけ? おまえカード類集めよったやろ? 名前とか知っとるんとちゃう?」

 「そんなにじろじろ見てないよ。顔はちらっと見たけど多分若い女の人。あと綺麗だった」

 「へえ。どんななん? ちょう見して」

 「個人情報だし、不必要に見ることもないんじゃない?」

 「電話かけた時点で財布の中勝手に見たことはバレとるんやし今更やろ?」

 「そうだけど……。お姉ちゃんが気になるなら」

 そう言ってカードの束を紫子に渡す。緑子が注目していた黒いクレジットカードを始め、紫子は見たこともないようなカードが並んでいる。妹が言うにはこんな小さな入れ物に輪ゴムで縛って放り込んで良い代物ではないらしい。

 「浮世離れした人なのかも」緑子は言う。

 「まあ八万も持ち歩くくらいなら金持ちやわな」紫子はずれたことを言う。「あったあった。免許証」

 確かにすごい美人だった。肩までの黒い髪は柔らかそうで、白くて綺麗な肌と宝石のような黒い瞳を持っていた。浮かべられている微笑みは屈託のなさと上品さを兼ね備えていて、免許証に相応しくないはずの笑顔も彼女がしているとそれが自然なような気がして来る。大人の女の人の『綺麗』でありながら、どんな年代の少女より可愛らしくもある。そんな人だ。

 「すごいやんけ」紫子は思わず言った。「テレビに出とるモデルさんとかでもこんなに綺麗な人他におる?」

 「ちょっと思いつかないなぁ。すごいよねぇ」緑子は頬に手を当てる。「この人いくつなんだろう? ねぇねぇ生年月日見せてよ」

 「おまえも興味津々やんけ」

 相方と同じ顔であるという一点で自分の見てくれは好きな姉妹だが、それでも女の子としてこういう美人には憧れるし興味もある。きっとビタミンCたくさんとってるんだとかそういう話をしながら、生年月日を年号から引き算して二十九歳という年齢を割り出す。そして名前を確認し、紫子は目を剥いた。

 「どうしたの、お姉ちゃん?」緑子は心配そうに言う。

 「……名前、見てみぃ?」

 「う、うん」緑子は免許証の名前欄を見詰め、それから紫子の方を見た。「こ、これって……」

 「……『あいつ』、『年の離れた姉がおる』ちょっとたよなぁ」

 『虹川憩にじかわいこい』というらしいその女の顔に、かつての友人の面影を探す。だが凍り付いたように無表情だったあの友人と、こんなにも綺麗に笑っているこの女性を結び付けるのは、容易なことではなかった。


 〇


 やがて電話がかかって来る。

 「言われた通り一番右端の部屋に付きましたよー。早く来てくださいー」

 間延びした声が電話口から聞こえて来る。なんというか、教育実習の女の先生が小学校の低学年の子に対して出すような声だった。

 「ウチ中におるでー。チャイム鳴らしてやー」

 「チャイムなんて付いてませんよぅ。それに中になんて誰もいないじゃないですか」

 「は? いや、どういうこと?」

 「ですから一番左端の部屋ですよね? おトイレがありましたよ? そこに行けば良いんですよね?」

 ……大丈夫なのかこいつは。

 二階の廊下を左端まで進めば確かにそこにある部屋は共用トイレだ。そこも部屋と言えば部屋かもしれない。しかしまさかトイレの中で住んでいるなんてふつうは誰も思わないはずだった。

 言葉の意味を言葉の意味のとおりにしか受け取れない性分なのかもしれない。紫子はそういう人間もいることを知っている。

 しょうがないのでこっちから向かってやった。ノックをすると、中から女が出て来る。

 免許証で見たのと同じ顔がそこにあった。写真で見るより実際に会った方がはるかに美人だ。背が茜より高くてすらりとしたスタイルをしているからかもしれないし、そのほほ笑みが視線と共に微妙な変化をするからかもしれない。何一つルサンチマンを抱えていなさそうに、純粋で屈託のない、そんな微笑みだ。

 「あなたが拾ってくださった方ですね!」女はいきなり紫子の手を握ってブンブン振った。「ありがとうございます! あなたはあたしの恩人です。あの財布を失くしていたら、あたしはどんなに悲しい気持ちになっていたでしょうか」

 「お、おう。そら良かったやな」紫子は困惑する。三十前の女がするには幼い動作のはずなのに、その女がやると不思議と自然な印象になった。しかし腕が疲れる。「そない振り回すんやめぇや。ほら、財布は返したるで。落とさんように気ぃつけえや」

 「はい! 助かりました」財布を受け取り、女はぺこんと頭を下げる。お辞儀を覚えたばかりの子供みたいな頭の下げ方だった。「あ、こちらはお礼です」

 そう言って女は茶色い封筒を取り出して紫子に渡す。何が何だか分からなかったが、爆弾ではなさそうなのでとりあえず受け取った。

 「それでは重ね重ねありがとうございました。あなたの愛らしい魂に幸運がありますように」女は妙なことを言って一歩下がる。「それでは、あたしはお仕事がありますので失礼いたします」

 「う、うん」紫子は言って、それから引き留めるように言った。「なあ、あんたの免許証見てもたんやけどな。『虹川』いうんやって。虹川憩」

 「はい。虹川です」

 「あんた年の離れた妹おらんか? 名前は……確か、『梢』」

 女の表情が一瞬、硬直した。それから真っ黒い瞳の焦点をきっちりと紫子の方に合わせ、唇を薄く開きっぱなしにしてしばし呆然とすると、それから恐る恐るといった調子でちょんと頷いた。

 「は、はい。あの、どうしてご存じなんですか?」

 「いや、虹川梢って昔の知り合いがおってな。で、そいつが『年の離れた姉がいる』言いよったけん、もしかしたらそれがあんたなんちゃうかな思うたんや」

 「そうでしたか……」女は親指の爪を咥えて明後日の方向を見る。「あの、『梢ちゃん』とはどのようなご関係で……」

 「……うーんと、友達やったねんけど」今となっては、なんと形容したものか分からない。姉貴の手前、『仲良くさせていただいていました』とでも言っておくのが礼儀なのだろうが、そうした常識に即した振る舞いは紫子の不得手としているところだ。「ちょっと色々あってもてな。なあ、お姉ちゃんなんやろ? 教えて。虹川くん……妹さんは今どこで何しよるん?」 

 「……あたしにもさっぱり」虹川姉はゆっくりと首を横に振った。「教えていただきたいくらいで」

 「え? どういうことなん? なんで姉のあんたが知らんのや?」

 「悪い人達が、とても意地悪で悪い人達が」虹川姉はそこで、小さな子供が絵本の悪役に対してするように眉を顰める。「梢ちゃんのことをあたしから遠ざけて、閉じ込めるんです」

 「よう分からん。何があったねん?」

 「……ごめんなさい。これ以上はあたし達家族の話になってしまいます」虹川姉は肩を落とした。「あの、あたしは虹川憩。あなたのお名前は?」

 「西浦や。西浦紫子」

 「あたしの電話番号は控えていただいてますか?」

 「履歴に残っとる」

 「もしも、梢ちゃんがあなた達にコンタクトを取るようなことがあれば、あたしに教えて欲しいんです。なんでもします。その封筒の中身と同じものを百倍用意してもかまいません」

 「……まあ、あんたもお姉ちゃんなんやけん、そら妹とは会いたいわな」

 紫子は頷く。自分にも緑子がいるから分かる。もしも妹と離れ離れになるようなことがあれば、きっと気が狂わんばかりの気持ちになると思う。居場所が分からないとなれば猶更だ。

 「分かったわ。もし虹川くん……妹さんにでくわすようなことがあったら、あんたに教えるえんな」

 「ありがとう」虹川姉は濡れた瞳で頷いた。「梢ちゃんの居場所が分かったら、必ず、必ずあたしに教えてくださいね。お願いします」

 必死の表情だ。余程妹のことが好きなんだろうと思う。どんな『家族の問題』があって妹と離れ離れにされているかは知らないが、それでも大切な人間と会いたくても会えないのは想像を絶する苦しみであることは理解できた。

 「ウチらが貢献できるかは分からんけど」紫子は言った。「会えると良いな」

 「必ず取り戻しますよ」虹川姉は言う。「絶対に。絶対に、絶対に」

 それから紫子は虹川姉と分かれる。

 虹川姉が紫子に手渡した封筒に二十万円が入っていて、姉妹が揃って泡を吹くのはその数分後のことだった。 

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