姉妹、猫殺しと対決する 前篇5
〇(※)
教室における紫子の立場はそのまま草壁のものとなった。
『私を騙していたの?』と追及する火口に、草壁はただただ下を向いて押し黙り続けた。そんなことをすれば火口の苛立ちが加速することは明白であり、震えようが泣こうが時間の許す限り延々と続けられる追及に、草壁は紫子が見ても哀れな程に精神を疲弊させていった。
紫子にされていたような嫌がらせは草壁にも行われた。傍観者に回ってみて気付いたことだが、持ち物に悪戯するような類の陰湿な行動は火口ではなく取り巻きが行うようだった。誰よりも率先してそうした嫌がらせ行為に取り組むのは誰であろう水倉で、かつての親友の持ち物を汚し隠し破壊し身も凍るような悪口を彫刻刀で机に刻む水倉の姿は、活き活きとしているようにすら紫子は見えた。その姿が紫子には恐ろしくさえあった。
紫子への誤解は完璧に解けた。クラスメイト達からはもちろん大人に対しても。火口が紫子の手を引いて職員室へ向かい、携帯電話に届いた映像を教頭に見せたのだ。この行動の意味が紫子にはよくわからなかったが、本人が言うには『自分なりのケジメ』なんだそうだ。
「無実のあんたをイジメたのは私の落ち度でもあるけれど、でもあんたが悪いんだからね。どうしてもっときちんと否定しないのよ」
紫子の対応が完璧だった訳ではないことは認めるが、しかしこいつにだけは言われたくない。多分こいつはどんな物事でもこの調子で責任を他人に転嫁してしまい、またそれをまかり通らせてしまうだけの強情さがあるからこそ、女子社会における頂点の地位にいるのだろう。
それでも紫子はこの女の子とはそこまで嫌っていなかった。いやイジメられたことはムカつくし許していないが、少なくともこいつは緑子のことを直接は攻撃しなかった。それをやられるのが紫子にとって一番嫌なことはおそらく承知で。そこは彼女なりの節度かもしれない。間違いなく非道でありながらもどこかしらで一本筋の通った理性も持っていて、そうした部分で彼女は人を従えるのかもしれなかった。
〇(※)
朝から大変だった一日を過ごし終え、妹と一緒に施設へ戻る。そこでは青沼が待ち構えていて紫子を仰天させた。何かぶたれるような理由はあったかと色々と想像をめぐらせたものの、しかし実際に青沼が行ったのは平手ではなく抱擁で、それは紫子にとって平手の数百倍は不愉快だった。反吐が出るのをこらえるのは大変だった。
「ごめんなさいね。あなたのことを信じてあげられなくて。ワタシは母親失格だわ」
抱きすくめながら泣きじゃくる青沼に、紫子はこいついつか殺すと心の中で唱え続けていた。
「最初から母親とか思うてへんわい。アホんだら」
悪態を吐く内心で、紫子は実はこんな風にも思っている。
自分にとっての本当の母親は自分達を糞野郎の義父のところへ置き去りにし、地獄の入口に見捨て、艱難辛苦の渦中に放り込んだ人物である。母親という言葉の持つ甘い幻想は捨て去った後で、母というのは現実の中で悪鬼にも閻魔にも成り得る存在なのだと理解していた。その道理に従うならば、青沼という人間は確かに自分にとって二番目の母親なのかもしれない。毎日嫌でも顔を合わせて、こいつに世話をされ、こいつの言いつけを守らされ、反発しひねくれるという意味で強い影響を受けてもいる。
しかし今回の出来事で青沼が少しでも罪悪感を持ってくれたなら、今後ちょっとは話を聞いてもらえるようになるかもしれない。……などという甘い幻想は、夕飯の時に箸の持ち方に言いがかりを付けられ頬を張られたことで脆くも崩れ去った。ほんのわずかの手加減もそこにはなく、紫子はなんだかおかしくなって、怯える妹の肩を叩いて笑いすらした。
〇(※)
良くも悪くも、紫子は学校、施設と共に元通りの生活に戻ってきた。
違うことがあるとすれば教室の席が一つ空席になった。草壁がいた場所だ。
草壁は脆かった。あらゆる人間関係は彼女の敵に回り、彼女自身はただただ縮こまり怯え孤独に震えているだけの哀れな存在になり下がり、かつての友人たちにその尊厳を踏みにじられ生活を邪魔され続け、耐えかねた彼女は数日で学校に来なくなった。
自業自得とは思わない。彼女は確かに卑怯な真似をして自分に罪を着せはしたが、しかし根本的な部分では被害者でもある。彼女はただ、そこに鯉の餌が入っていると信じ込んで洗剤の容器を翻しただけなのだ。
もちろん、他の誰が同情したとしても紫子にそれを同情する余地はない。しかし不思議ではあった。何故草壁が自分の過ちの理由を誰にも打ち明けられなかったのだろうか。
洗剤の容器を餌の持ち運びに使っていたことは、飼育委員達の間では知られたことだったはずだ。それ自体は多少テキトウだとは思うがそこまで妙な事じゃない。紫子の産みの母親などは熱帯魚の餌入れどころか飼育場所を整腸剤の瓶にしていた。このくらいのズボラは誰だってやるもんだ。餌の容器と本当に洗剤の入った容器を取り違える可能性については飼育委員の誰もが気付いていたはずで、実際に誰かがそれをやらかしてしまったとしても、ミスをした当人だけが責められるような問題ではないはずだ。
増して今回のケースでは容器の口にカッターで細工をした何者かまで存在している。本当に悪いのは誰がどう考えてもソイツであり、誰かを犯人に仕立て上げるだなんてリスクの高い行動を取ってまで、責任回避を図る必要が草壁にあったとは思えない。
一体何が草壁をあんな愚行に走らせたのだろう? 紫子には、それがどうしても疑問でならなかった。
不思議なことはもう一つある。
あの映像。草壁が間違って洗剤を池に撒いてしまい、その後紫子に容器を押し付けて逃げ出すまでのあの映像。あれはいったい何者によって撮影された代物なのだろう? そしていったいどういう目的で、あのタイミングでクラスメイト達に一斉送信されたというのだろうか? あんな、草壁の名誉に一番傷がつくような、図ったようなタイミングで。
何もかも分からない。紫子はただ翻弄されただけだ。翻弄され続けていつの間にかすべてが終わっていた。いったいこの事件は、誰の手によって、どんな目的で行われたものだと言うのだろう?
〇(※)
「君には分からないさ」
と、紫子に言ったのは虹川梢だった。
放課後の養護教室である。一日を過ごし終えた姉妹が放課後の過ごし方を話し合った結果、養護教室に寄ってみようという話になった。虹川と話をしたかったのだ。
九月二十二日現在、三年生の虹川の卒業にはまだ日はあるが、彼女は十月を待たずして家族ごと引っ越すことが決定していた。虹川との友情は姉妹にとって貴重なものだ。ふつうに同じ境遇でふつうに仲間として出会い、そして大きな理由もなくふつうに仲良くなったふつうの友達。そうした存在は姉妹にとって稀有であり、別れを惜しむ気持ちは姉妹で共通していて、だから残された時間を惜しむように会う機会を増やしていた。
「草壁が君を犯人に仕立て上げた理由なら、君には絶対に分からない」
「ほんなら虹川くんには分かるんか?」
「経緯はともかく、皆で育てていた鯉を自分の過ちで殺してしまった。そのこと自体が彼女にとって後ろめたく恥であり、そして見捨てられ嫌われるに足る理由であると判断してしまったのだろうね。冷静になって考えてみれば、紫子の言う通り、悪い奴は誰の目にも容器に細工をした人間のはずなのだけれど」
「そら人に話すのはちょっと勇気いるかもしれへんよ? ほんでも全部の責任をたまたまそこに居合わせたウチに擦り付けるやなんて、そんなたいそうな行動を取ってしまう程のことやろか? ウチがどんくさかったからたまたま上手く言ったけど、ふつうは全部バレるで?」
「そんなことを考える余裕などないさ。何せ……」虹川は透明な視線を姉妹に投げかけた。「彼女は君達とは違う。自分の見たこと、経験したこと、陥れられたこと、それを全て無条件に信用して味方になってくれるような人間は、彼女にはいなかった」
「いや、あいつにかて友達はおったやろ?」
「いるように見えるだけで、本当は孤独なのさ。例えどれだけの仲間に囲まれているように見えたって、彼女自身が自分を孤独と思えばそれは孤独さ。たった一つの小さな過ちで、周囲からの信用や好意など全て儚く崩れ去ってしまうと思い込んでしまう程度には。だから隠そうとした。どんな手段を使っても、彼女は自分の過ちを隠さなければならなかった。孤独だったから」
「……意味分からん」紫子は眉を顰める。
「分からないさ。君たちには殆ど理想的と言って良いような理解者がいる。世界の全てが敵に回ってもたった一人味方でいてくれると心底から信じていられるような、そんな理解者がね。他の誰に分かったところで君達に草壁氏の気持ちは分からない」
虹川の言い分が良く分からず、紫子は妹の方に視線をやる。緑子はうーんと眉を顰めて、それから首をふるふると横に振った。妹に分からないことは姉妹にとって分からないことだ。
虹川は小さく笑って話し始める。
「小さい頃ね、母親の化粧品の瓶を割ってしまったことがあったんだ。過失だったから、正直に非を認めれば、母親はあくまで注意で済ませただろう。しかしボクは世界が終わったような気持ちになって瓶を隠して震えていたんだ。つまりは、ボクは母親のことを信用しきれず、化粧瓶如きでボクを見捨てると信じ込んでいた訳なんだな。草壁氏が犯した過ちというのは、つまりそういうことなんじゃないかな?」
「んな子供みたいな……」紫子は呆れる。
「子供みたいだと思うかい? しかし草壁氏の心の中で、鯉を殺してしまったということは、自分の積み上げて来たあらゆる信頼がことごとく崩れ去るような、衝撃的な出来事だったのさ。どんな卑怯な手を使ってでも、取り消さなければならないと思えるくらいにはね」
さっぱりだった。どうして草壁はそこまで愚かだったのか。その草壁の愚かさを虹川が理解しているように話すのか。紫子には分からない。表情を見るに緑子にも分かっていない。
分かるのは草壁がとんでもない愚か者だったということ。草壁がどんな風に愚か者だったかということ。しかし何故そこまで愚かなのかというとまったく持って理解不能だ。正直に話せばきっと皆分かってくれただろうに、どうしてそれができなかったのだろうか。
「さて。もう一つの疑問に話を移そうか」虹川はどこか楽しそうにしている。「草壁氏が池に洗剤を撒いている決定的瞬間、それをカメラに収めた人物はいったい何者だったのか?」
「そんなん考えて分かるん?」紫子は首を傾げる。
「証拠はない。しかし推理はできる」
「どうやって?」
「順番に行こう。まず一つ目。犯人は草壁の凶行を制止するでもなく撮影していた。そんなことをするからには、草壁が池に餌だと思い込んで洗剤を撒きに来ることを把握していた可能性が高い。つまり犯人は、草壁を鯉殺しの犯人に仕立てた上、証拠の映像まで撮影したという訳だ。こうした推理は当然可能だよね?」
「犯人は共通の人物いう訳か。まあ草壁嵌めるんが目的やったら、そのくらいするかもしれへんな」
「そして二つ目。犯人は飼育委員が普段鯉の餌の持ち運びに用いている洗剤容器の中身を入れ替え、細工をした。こうした行動をするからには犯人自身が飼育委員である可能性が高いと言える」
「そうとも限らんけどその確率が高いかもな。洗剤容器に餌が入っとるなんて、実際にそれを使っとる飼育委員くらいしか多分知らんし、それ利用して人嵌めようなんて思いそうなのも飼育委員や」
「最後に。犯人は君のクラスメイト達に一斉にラインで映像を送信したね。そうしたことができたからには、犯人自身が君のクラスのライングループに所属している人間、つまりクラスメイトであった可能性が高い。ここまでは良いかな?」
紫子は頷く。
「すると犯人は、飼育委員で、かつ君のクラスメイトということになる。これに該当する人物に心当たりは?」
「えぇっと……」
誰がどの係だったなどと全て理解している訳ではない。しかし草壁と委員会活動を同じくしていた人間など、一人しかいない。それは覚えている。
該当する人物を思い浮かべ、紫子は血も凍るような心地になった。
まさかとは思う。もしこの考えが確かだとすると、この世界というのはあまりにも残酷で無慈悲だ。全てが上っ面でしかなく、信用できるものは何もない。自分の生きるこの世界に何かを期待したことは一度としてないつもりだったのに、紫子は打ちのめされた気持ちになってしまった。
「お、お姉ちゃん?」緑子は凍り付いた姉の表情を心配そうに伺う。「どうしたの? お腹痛いの?」
「あ、いや、ちゃうで」紫子は正気に戻る。「ちゃうで、緑子。ウチは大丈夫や」
「それで……犯人はいったい誰なのかな?」虹川はどこか愉快がるような表情を浮かべている。全てを見透かしたように。「その犯人というのは、いったい、草壁にとってどんな人間だったのかな?」
「あんた……どこまで分かっとるん?」紫子は眉を顰める。
「いや何も知らない。ただ紫子の表情を見ていると、色んなことが分かる」虹川は嘲るように頬を捻じ曲げた。「それで? 犯人の名前は」
「水倉」紫子は言った。「草壁の親友やったはずの女や。いつも一緒に行動しよった。今は毎日草壁の悪口やけどな」
「そうか」虹川は言う。「では最初の疑問に立ち返ろう。草壁は何故愚かな隠ぺい工作に乗り出したのか。ボクはそれを、草壁が孤独だったからだと推測した。たった一人でも、自分の言い分に耳を傾けてくれる人間がいることを、信じられなかったくらいにね。さあて、紫子が今挙げた犯人候補の名前は、ボクの推測を裏付けているのではないかな?」
「……知らん。一つ分かるんは」紫子は妹の手を引いた。姉が自分の存在を求めるのにこたえるように、緑子はぎゅっと紫子の腕に抱き着いて、身を寄せてくれる。「やっぱり草壁は、あいつは、気の毒な奴やったいうことやな」
「男でも取り合ったか、それとも、そもそも内心では本当は嫌っていたか。それとももっと単純に、たまたま思いついた策略のターゲットにふさわしい立場の人物が親友だったか」虹川は首を横に振る。「どうでも良いね。人が人を壊れる程傷つける理由だなんて、きっと、たいしたことじゃない」
紫子には分からない。分かりたくもなかった。




