姉妹、田んぼの様子を見に行く 2
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胡桃は黒いリュックサックをビニール製の袋に入れて雨具の上に背負い、黒い長靴を履いていた姿で姉妹の小さな城にやって来た。
ズボンもシャツも羽織ってる上着も黒か灰色で統一されており、桃色と黄色が基調のど派手なカラーリングの『クルミン』と違い、本人はいたって地味なもんだ。紫子にはその気持ちが少し分かる気がする。なんか色を主張するものを選ぶのが面倒臭く、汚れに強く仕事着にも使えて合理的な黒色を手に取ってしまう。今自分が来ているのも黒いシャツに紺色のジーンズだ。
「急に無茶を言ってすまないね」
言いながら、玄関で胡桃は雨具をビニール袋に折りたたんで詰め込み、濡れた靴下を脱いでポケットに入れ、さらには同じく濡れているズボンの裾を絞り始めた。床が濡れないよう気にしているのだろう。ずぶ濡れのままドタバタ入って来るのに何の抵抗も持たない茜などとは大違いだ。
「本当に助かった。あのままだと凍死するところだったから。ありがとう」
「しょうがあれへんよ。妹があんたのこと好いとるからや」
そう言って、これだと邪険にしているように聞こえなくもないことに紫子は気付く。肩身の狭い思いをしている時に家主からこんな言われ方をしたら胡桃もしんどいだろう。しかし『仕方のないこと』なのも『入れたのは緑子が好いてるから』なのも真実なので、紫子は二の句に迷う。
「まあお茶でも淹れたるわ」言葉が浮かばない時紫子は行為で気遣いを示す。「冷たいんとぬくいんどっちがえぇ?」
「『ぬくい』って『温かい』って意味だったかな?」胡桃は何だかたわいもないものを見るような微笑みを浮かべる。「冷たい方で。ありがとうね」
「ほーい。ほな机の前座れや」
玄関から机の近くまで紫子が案内する頃には、緑子が甲斐甲斐しくお茶を用意していた。ちなみにこちらはシンプルな白いワンピース着ている。昔初めて二人で服を買いに行った時似合うと褒めたら、そういう服を良く選ぶようになった。
冷たいお茶を運んでくる緑子。ふと疑問に思って紫子は胡桃に尋ねた。
「あんた外で冷えとったんやろ。ぬくい方が良かったんちゃうんか?」
「猫舌でね」胡桃はほほ笑む。「というか、この部屋ポットないだろ? 代わりにやかんが置いてある。あれに火をかけて一から湯を沸かしてもらうとなると手間だろうからさ。遠慮したんだ」
「なんやそれ」紫子は肩を竦める。「んなこといちいち気にしとったら胡桃さんハゲるで?」
「君たちみたいな可愛らしい女の子の部屋に上がり込むとなると、僕みたいな冴えない男はどうしたって気を使ってしまうんだ」
「はーん」優男みたいなことを真顔で言いやがる。「脚くらい崩したら?」
「そうさせてもらおうかな?」胡桃は正座を解いて胡坐をかく。
緑子はおどおどした態度で紫子と胡桃のやり取りを眺めている。来客があるといつもこうだ。だがそれでも部屋の隅っこで震えたり押し入れに隠れたりしないあたり、まだしも自分達の窮地を救い熊から茜を守った胡桃には、好意を感じているらしい。
姉妹の見ている世界は単純だ。紫子と緑子二人だけの世界が『内側』で、疎ましさと恐怖に満たされたそれ以外が『外側』だ。ようするに『味方とそれ以外』だ。基本はこの二つで分類できるが稀に中間層が出現することもあり、再会した旧友である茜などは瞬く間にこの位置に根を張って強い影響力を持つようになったし、北野ことハイカワさんだって今は姉妹の良き隣人だと認めている。
胡桃はこの位置に入って来るのだろうか? 紫子次第だとは思う。緑子がこいつのことを『魔法少女クルミンミナミン』として気に入ってはいても、姉がこいつを好かないことを察すれば妹は躊躇なくその好意を捨てる。茜と再会したばかりの頃、殻にこもっていた紫子に、緑子が合わせたのと同じことだ。悪い人間じゃなさそうに思えるし、緑子が胡桃に親しみを感じるのなら、それは尊重してやりたいが……。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
物思いにふけっていると、隣から緑子にささやき声を投げかけられた。ぼんやりと本棚に置かれたぬいぐるみや絵画を眺めている胡桃の隙をついて、自分に何やら相談を持ち掛けているらしい。
「どしたん緑子?」「……ちょっと気まずい」「あー、まあ知り合ったばっかの人と一つ屋根の下じゃな。向こうもだんまりやし」「きっと胡桃さんもしんどいと思うの」「確かに無理言って上がりこんどる立場で家主に気まずそうにされたら胃ぃ痛いわな」「なんとかもてなして気をほぐしてあげたいんだけど……」「おまえは優しいなぁ」「でも何も思いつかなくて」「……なあ緑子。ウチらって芸あるやん?」「芸? ……それってひょっとして」「そう。『とっておき』や」「とっておきだね」「とっておき」「とっておき」
交信を終了し、姉妹は唐突に手を繋いでその場を立ち上がった。
急な動きに驚いた表情で、胡桃は姉妹を見上げる。姉妹は片ややけっぱちみたいな顔で、片や恥ずかしそうに赤くした顔で、息を合わせてこう絶叫した。
「「ナンバーゼロワン西浦姉妹、『とっておき』、やります!」」
「え、ええ? う、うん」胡桃は少し混乱している。「な、なにが始まるのかな?」
「胡桃さん胡桃さん。後ろ向いてくれんか」「い、良いっていうから、それまで、そうしててくださいね」
「あ、ああ。かまわないよ」言いながら、胡桃は胡坐をかいたまま後ろを振り向く。
姉妹はこくんと頷き合うと、おもむろに服を脱ぎ恥じめた。そしてお互いの着衣を交換すると、髪の癖やら肌に付着しているものとか点検した後、最後に位置を入れ替えてその場で座った。
「「もういいよ」」
「はいはい」
胡桃は振り向いた。一見して何も変わっていないその現場を見ながら、しかし服を着替える音は聞こえていた訳で、何が起きていたのかはうすうす察しているのだろう。困惑と好機の入り混じった表情で姉妹をまじまじと眺めている。
「「どっちがどーっちだ!?」
声を合わせてこう言ってこれ以上情報は与えない。自分は元々喋り方に癖があるし、妹はあんま親しくない人に吃音気味になるので、声を揃えて喋るようにしなければ一発でバレる。
「ふうん。おもしろいね」胡桃はくすくすと笑って言った。「服を着替えたのか、着替えたと見せかけて一回脱いでまた同じ服を着たのか……っていう訳だ」
「「そうそう」」姉妹は肩を組んで頷く。
髪形が一緒の一卵性双生児でも漫画のように瓜二つな訳がない。茜などにとっては問題として成立しないレベルだろう。しかし胡桃ならきっと迷う。チェスのキングとクイーンの違いのようなものだ。『違うもの』だと認識できる人間にとっては一目瞭然でも、チェスそのものを良く知らない人なら、どこをどう見て識別すれば良いか知らず、案外間違う。
胡桃は迷っていた。姉妹を見たのはほんの数回しかなく、そのレベルであれば双子の主な識別要素はその時々の服装のはずだ。胡桃は少しの間首を傾げていて、それからふと何かひらめいたように目を輝かせたかと思ったら、紫子、緑子の順に正確に指し示した。
「君がお姉さん、君が妹さんだ。『二人は服を着替えている』」
「「正解」」姉妹は笑顔で拍手をした。
「良く見抜いたな。当てられたん二回目や」と紫子は割と本気で感心する。
「そうだね。……やったの三人目だけど」緑子は目を丸くしている。
「髪の毛を見たんだ」胡桃は得意げにするでもなく言った。「君たちの散髪に付き合ったことあったでしょう? 二人の散髪の腕前には差がある。というか緑子さんが素人離れして上手い。だから髪が上手に切ってあるのが紫子さん、母親に散髪された子みたいになってるのが緑子さんだ」
「なーへそ」紫子はそう言って眉を少し顰める。「すまんな緑子。ウチがもっと髪切るん上手かったら勝っとったのに」
「お姉ちゃんに散髪されるのわたし好きだよ」緑子は言う。「一生懸命やってくれるのが大好き」
一生懸命だしかなり気が気じゃない。神経をすり減らしながら変なアタマにしないように最大限度努力していて、それでようやく達するクオリティが『母親に散髪された子』なのだ。気の毒に思うが、本人はハサミをアタマに突きつけられるのなんて姉以外の誰にやられても心底怖がるので、金があったとしても美容院には連れて行ってやれない訳だが。
「でもおもしろいクイズだな。ちょうど良いバランスでもあると思う。一瞬ドキっとするけど、冷静に何か特徴を思い出せれば十分見抜ける」胡桃は頷く。「服、着替え直しなよ。後ろ向くから」
「必要ある?」と紫子。
「いいんじゃないかな?」と緑子。
「せやな。ええよ胡桃さん。ウチらこのままで」
「そうなの? 自分の服が他人に着られてるのって姉妹でも気にならない?」胡桃は目を丸くする。
「別にウチらどっちがどっちの服とかないで?」「体格同じだし別ける理由がないもん」
「え? ……茜さんから聞いたことあるけどそれ本当に本当なの? まさか肌着まで別けてないなんてことないよね?」
「別けてへんよ」「必要ないもん」
上着やズボンやスカートはぼんやり好みもあるので、だいたいどっちかしか着ないようなものもある。しかし肌着類は徳用品を補充するばかりなので、どっちがどれを使うか完全にアトランダムだ。それが普通だと思っているし別けることの合理的な意味もない。同じ縄張りに住む動物同士が縄張りの中にさらに縄張りを作って何の意味があるというのか。
「僕が信じるのとは違う世界だな……」
胡桃はいっそ身を退いて言った。
「とにかく、楽しめたよ二人とも。雨宿りさせてもらった上、一発芸まで見せてもらって。なんだか気を使わせちゃったかな」
見抜かれていたか。紫子は苦笑する。
「いやあんた黙っとるけんな。退屈なんか思うて緑子がなんかしてもてなしたろ言うてな」
「ずっとだんまりでごめんね。僕ってば話すと一方的になっちゃうから、つい黙っちゃうんだ。……君らって確か十六歳なんだよね」
「せやな」「そうだよ」
「じゃあマジカルキューティ世代だ」
「「うん」」
「僕は結構魔法少女のことは詳しくてさ。ねぇ知ってる? キューティブラックって元は構想になかったキャラクターなんだ。いや、ローズ女王によってキューティの偽物が生み出される展開はあったのだけれど、それが人の心を手に入れてマジカルキューティの一員になるストーリーは、シーズン2に入る際急遽組み込まれたものでね。そして本来予定されていたストーリーというのが……」
マジカルキューティについて一席ぶち始める胡桃。紫子も緑子もマジカルキューティは心から好きだったし、今でもちょくちょく話題にする。だから姉妹は胡桃の話をそれなりに興味深く聞くことができた。
「つまりキューティブラックは製作者の意図を超えて人気が出過ぎてしまったキャラクターなんだな。でなければ、ブラックは予定どおりローズ女王の手で殺されていただろうね。自らの手で生み出した、しかも人型のブラックを殺させることで、女王の残酷さを演出するという小道具。元々はその程度の存在に過ぎなかった」
「で、でも、結局は、キューティブラックはグッズもたくさん出て、すごく人気のあるキャラクターに」と緑子。
「うん。番組終了後に行われたキューティの人気投票でもキューティピンクに次いで二位という大躍進だった」
「ほれに、ローズ女王って最後の方キューティ達と一緒に闇の龍と闘ってなかったか?」と紫子。
「キューティブラックを殺さなかったことで、ローズ女王は純粋悪ではなくなり、過去を掘り下げ改心させる余地が生まれたのさ。しかしそれは不評だった。安易にラスボスを挿げ替えておいて、闇の龍というキャラクターは、あらゆる罪悪を引き受けてただ倒されるだけの役どころだったから。予定されていたローズ女王とのラストバトルの方が良かったという声は大きい」
胡桃はここでいったん話を切った。そしておそらくはここからが彼自身の言いたいことに繋がるのだろう。真剣みを増した声で再び口火を切る。
「視聴者の声がこれほど物語を変えたという事実は、果たしてどう受け取るべきなんだろうね。つまりマジカルキューティは誰のものかという話さ。僕が思うに」
話が長くなってくる。集中力のない紫子などはちょっとぼんやりとしてしまう。しかし胡桃はそれに気付いた様子もなく力強い演説を続けている。このあたりがなんというか、自分の好きな話をし出すと止まらなくなるオタク少年達の気質に思えた。
緑子は胡桃が話したいだけ話させてあげようという表情だ。なんだか茜に対する接し方に似ている。相手の根底にある自身への好意や信頼といったものを掬いあげ、相手の変人性や厄介な気質をありのまま飲み込んでやっている。自閉気味ながら緑子はそういうことができる。
だったら自分も『ちょう長いわ』というのは少し我慢しておこう……と思いつつも、とうとう本格的に創作論にまで切り込んで来た難しい話を聞いていると、瞼が降りて来るのを我慢するのは至難だった。
「……無論、もともとあった作り手の思想と視聴者のエゴを完全には両立できなかった点では作り手の力量不足だし、それを断罪するのは簡単だ。しかしその試行錯誤の足跡は後世の作品に影響を与えたし、キューティブラックというキャラクターを視聴者と共にあれだけのものに育てあげた点は大いに評価できる。その意味では……と、紫子さん大丈夫?」
机に突っ伏しかけていた紫子は「ほへ?」と起き上がり、目を開ける。妹がハンカチで口の周りを拭いてくれた。よだれ出てた。
「あ、ごめん」向こうなりに場を繋ごうと気を使ってくれただろうに、眠ってしまうのは失礼だ。「胡桃さんの話ちょい難しいてな。ウチアタマ悪いけん、付いていけんようになってもた」
「いや、こちらこそごめんね。僕ってば夢中になると自分の話ばかりして」
「わたし達を退屈させないように話してくれたんだよね?」緑子は笑う。「マジカルキューティ好きだから楽しかったよ。今度お姉ちゃんにかいつまんで話しておくね」
「最初はそのつもりだったんだけど、途中から楽しくなって」ふうと息を吐き出し、胡桃は自分と緑子の顔を交互に見た。「なんだか、茜さんが君たちを気に入るのも分かる気がするね」
「あん人と付き合えるんウチらとあんたくらいやろ?」紫子は目をこすりながら言った。
「わたしあかねちゃんのこと好きだよ」緑子は言う。「今頃何してるのかな?」
「まさか田んぼの様子見に行ってないやろな」
「メールで止めたんでしょ?」
「返事ない」
「そう言えば僕のスマホにラインが来てたよ。『田んぼの様子見に行かないか』って。断ったけどさ」と胡桃。
「アハハっ。フられたんかあかねちゃん」紫子は笑う。
「でも、わたし達から制止のメールがあったから胡桃さんのところに行ったとして、じゃあ次にあかねちゃんがどうするかというと……」緑子が心配そうに首を傾げる。
そこで、姉妹の部屋のチャイムが連打された。二人して転びそうになりながらどうにか支え合い、二人して頷き合った後で、紫子が扉の方へと向かった。
扉を開ける。
雨粒と共に、どんな激しい嵐よりも騒々しいその友人の笑顔が、ずぶ濡れの身体で仁王立ちしていた。
「私です!」
東条茜が姉妹の部屋に舞い降りた。




