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姉妹、田んぼの様子を見に行く 1

 〇


 小学生時代の大半は大きな台風が来ると嬉しかった。学校が休みになるからだ。台風のニュースを見るたび妹と『これ休みにならないかなぁ』みたいな話をしていたけれど、しかし施設時代となると話は変わる。

 まだしも逃げ場のある学校と違い、嵐で外にも出られない狭い建物の中で、妹と二人肩身の狭い思いをしなければならないのは憂鬱だった。その上『学校に行かない分の勉強は自分でするのよ』とか言って紫子を机に縫い付けようとする『鬼婆』の相手をするのはまさに最悪と言って良く、台風何号とかのニュースを聞く度にいつもげんなりした気持ちになっていたものである。

 だがそれも昔の話。貧乏アパートで妹との幸福な二人暮らしを手に入れた今となっては、平和な頃の感覚が戻って来ていた。鳴りだした携帯電話に耳を当て、バイト先の店長の話を聞いて電話を切った後、紫子は嬉々とした表情で妹に告げた。

 「今日バイト休んでえぇって!」

 「本当!」

 緑子は両手を合わせた。まあさっきまで『お姉ちゃん飛ばされたりしない? 怖いなぁ心配だなぁ』とか呟きながら、動物園の気の触れたクマみたいに四畳半を歩き回っていたのだから、さぞかし安心したことだろう。こいつの為に自主的に休もうかなと割と本気で検討したものだった。

 「いやぁなんか得した気分やわ。実際は給料減って損なんやけどな」

 「そのくらい大丈夫だよお姉ちゃん。いつもたくさん働いてくれてるから、一日分くらいの稼ぎが減っても大きな影響ないよ」

 「ほうかな? でもまあなんちゅうかウキウキや。昔は台風って大嫌いやったけど、なんか今こうやって雨風の音聞っきょると……ちょっとわくわくする」

 紫子は窓の方に視線をやった。灰色一色の空が果てしなく続いていて、早朝だというのに世界はほの暗い。降りしきる雨で視界は覆われごうごうと吹き付ける風の音が窓を揺らし、唐突に光が視界を覆ったかと思ったら、雷の音が鳴り響く。なんというか世紀末だ。

 「アハハっ。涼しいしなんか良ぇわ。非日常感っちゅうんかな? これゴ〇ラでも来るんとちゃうか? 風神様と雷神様が肩を組んで降りて来てコサックダンスはじめたりな。アハハハっ」

 「でも確かに、こんな風に外が嵐で薄暗いと、何か怖いのが来そうで怖いかも」雨風や雷の音に素直に怯えていた緑子は眉を弱気な形にしてそう言った。

 「いけるいける。飛んでくるんはオバハンの下着くらいや」紫子は妹の柔い身体に腕を回す。「おまえ雷とか一人やとあかんもんな。休まさしてもらえてホンマ良かったで」

 「うん! お姉ちゃんがいて良かった!」

 「それに仕事行かなあかんとなったら、雨も風も雷も純粋に厄介やからなぁ。ウチにとっても助かる話や。台風ってワクワク感あって実はちょっと好きやねん。今日みたいな日は何やってもおもろい気がする」

 「せっかくお仕事休みになったんだしね。なんか楽しいことしたいね」

 「せやな! ……いうても、まさか『田んぼの様子を見に行く』とかそういうアホなことはせん方が利巧やけれど」

 こういう嵐の日にはそれで死ぬか大けがする奴か何人かいる。田んぼや川が凄まじい様子になっているのを見物しに行き、結果水害に見舞われるのだ。中にはその田んぼの持ち主であったりでやむを得ない事情がある場合もあるのだろうが、しかし自分達がそんな危険なことをする理由はない。

 こうして妹と身体を寄せ合っていられるだけでも幸福なもんだ。外が世紀末な分だけ屋内にいるとシェルターにいる気分でスリルと安心感がある。まあ嵐はこれから増してくるというし、窓ガラスが吹き飛ぶとかなったら妹は確実にパニくるしまずいけど。窓にガムテープとか貼りゃ良いのかな? 妹に聞いてみよう。

 「あ、そうか。そういうことして死んじゃう人もいるんだね」緑子が目を伏せて言った。

 「毎年ニュースでやるもんな。……でもしょうがないで。ウチらにどうにかできる訳でもない」

 「……なんか怖くなっちゃった」

 「お姉ちゃんはそんなアホなことせぇへんで」

 「でもその……すごくそういうことしそうな人に心当たりが」

 「あ? ぶっちゃけウチはおまえ以外誰がどんな死に方したところでそんなに興味な……」

 などと言おうとして、頭の中に馬鹿笑いを浮かべた友人の顔が思い浮かんだ。

 「……あかねちゃんか」

 「……うん」

 「確かにやりそうな人やな。うん、下手すりゃウチらを誘いに来る。『一緒に田んぼの様子見に行きませんか』とか言いに来る」

 「止めないとだよね、全力で」

 「止めたら止めたで一人で行きそうな気はするけど……いや、あん人が台風如きで死ぬとは思えんけどまあ……メールくらい送っとくか。『アホなことはすんなよー』って……」

 言いながら、紫子は携帯電話を起動して、慣れない指先で文面を紡ぎ始めた。


 ◇


 『これから一緒に田んぼの様子を見に行くので家に来て下さい』

 『危険だからやめときな』

 クルミンは届いたラインに速攻で返答した。

 有無を言わさぬその文言は茜らしくもあるが、今回ばかりは子分らしく付き従う訳にも行かない。こんな嵐の日に茜が外出すればどんな無茶をやらかすか分かったものではなく、クルミンはその行動のいちいちに気を張り胃を痛めることになる。

 こんな嵐の日に外出するなんて気が触れている。そう、アタマのおかしな人間のすることだ……なんて思いながら、クルミンは雨具の内側のコスチュームのポケットにスマホを差し入れ、雨宿りをしていた公衆トイレから飛び出すと、設置したカメラの手前に手を振りながら姿を現した。 

 「みんなー☆ 待たせてごめんねー☆ それじゃあ『クルミン、川の様子を見に行く放送』再会するぞ☆」

 魔法少女コスの男子高校生という、アタマのネジの緩んだキャラでやっているクルミン☆ミナミンは、降りしきる雨の中で絶叫するように視聴者に言った。

 「キャハ☆ 早朝だっていうのにたくさん来てくれたね! うん? 『クルミンマジ最高!』ありがとー! 『もうねアボカドバナナかと』大分古いぞーでもクルミンそのネタ好き☆ 『おうクルミン喉仏出てるぞ』意味わかんなーいクルミン女の子だから喉仏なんて出てないもん! キャハ☆」

 背後は反乱寸前のどぶ川である。透明な雨具の下にコスチュームを着こんだクルミンを、皆が若干の尊敬と大いなる嘲笑と共に受け入れていた。

 身体を張ったネタというのはこういうのを言うのだ。並の放送者とはここが違う。

 「さぁて……じゃあ早速どぶ川の様子を見てみたいと思いまーす。カメラ動かすよーちょっと待っててねー」

 などと、クルミンがカメラの前に近づいたところで、ポケットで携帯電話が鳴り響く。

 「……うーん? ちょっと待ってねー電話だー。大丈夫大丈夫、大事な用事とかじゃなさそうだったらスルーするから。でも家族とかだったらでさしてねーごめんねごめんね」

 着信元を確認する。

 学校だった。

 「……学校でしたー☆」

 いっそチャンスだ。クルミンがにぱーっと笑うと画面内に猛烈に草が生える。

 クルミン☆ミナミンは視聴者にウケるならどんなチャンスも逃さない。あえて画面の中で電話に出た。

 「はい。はいクルミンです!」最後の『ン』は小声である。本名を名乗った形だがどうせ住所とかバレてるし問題なさそうである。その開き直りっぷりに画面内は草の嵐。「はい! 今家にいます! え? 放送? それ別人ですよ。そのクルミン☆ミナミンって僕も知ってますけど女性じゃないですか! 僕は男子生徒ですよね先生!」さらに開き直って性別をカミングアウトするクルミンにまた草の嵐。「え? ふざけるのはやめろ? さっさと家に帰れ? 明日早めに来て職員室に来い? 分かりました! はい! はい! はぁい、失礼しまーす……」

 クルミンは電話を切り、画面に向かって頭を下げる。

 「ごめんなさーい。クルミン、魔法の国に帰らなくちゃいけなくなっちゃったの……」

 『ワロタw』『超神回』『クルミン身体張るなー』『その内退学だろこれwww』『おう胡桃おまえ学校とキャラ違うな』『←そういうのハッタリでもやめたげてw』

 「じゃあ最後に川の様子だけ写して終わりにしまーす。おつかれさまでしたー☆」

 反省文描かされる未来を覚悟しながら、クルミンは今日の放送もハプニング混みで無事成功させられたことに感謝した。


 ◇


 公衆トイレで胡桃に戻る。撮影危機から入念に水気を取ってリュックの中に入れてから、帰路へと着いた。

 とっとと帰らないと反省文の分厚さが増す。多分視聴者の中に胡桃の同級生がいて学校にチクったんだろう。親にも連絡が行っていて電話でしこたま怒られた。それでもクルミン☆ミナミンをやめるつもりはなかったが。

 「……あー。帰れるかなこれ」

 出かけたばかりの頃は嵐もさほどではなかった。天気予報を確認すれば時間と共に嵐が強くなることは分かったはずだが、しかし同じことを始めるアホはネット上に複数いるはずで、そいつらに後れを取らない為に胡桃は情報収集は程々に放送を始めた。その所為で今胡桃は割と差し引きならない状況になっている。

 自転車で帰るのはもう無理だ。なるだけ安全そうなところに停めて置いて、後日取りに来るしかない。では徒歩で帰宅する必要がある訳だが、今回クルミンが選んだ『人気がなく程々に危険そうでいて実は安全などぶ川』は、家からそれなりの距離があった。

 途中嵐で前も見えなくなり、ところどころ足元が水浸しで脚を取られて流されそうになり、そうした場所を避ける為に迂回を続ける内にさらに家から遠ざかり……そんなことを続けていると胡桃の若い体力と言えども尽きて来る。せめて雨宿りできそうな建物に避難し、腰を落ち着けた。

 「……我ながら無茶やったもんだ」

 苦笑する。意識が朦朧とすらした。ここでしばらく休んで行こうかと思いつつも、この家賃の安そうなアパートの階段は、屋根があるというだけで気温までは閉じ込めてはくれない。風邪をひきそうな胡桃の体力回復には向かなさそうだ。せめて友達が近所にいればそこで雨宿りさせてもらえるかもしれないが、しかし胡桃にはもともと同性の友達すらろくにいないし……。

 「……あ?」

 その時、胡桃はあることに気付く。

 このアパート。見覚えある。

 「……ああ、そう言えば」

 茜と懇意にしている例の小学生みたいな双子姉妹が確かここに住んでたんだ。部屋も覚えてる。電話番号も知ってるからアポくらい取れる。

 だが女の子の二人暮らしにこんな女装癖の変態が押し入ったら色々まずいんじゃないか? しかし一対一ならともかく向こうは二人だし、一緒に野球盤をした仲でもあるし、向こうの反応次第だが一時的に雨風からかくまってもらうくらい良いのではないか。そもそも、今の自分になりふりを構っていられる余裕があるのかという話でもあるし……。

 胡桃はポケットからスマートホンを取り出すと、最近登録したばかりの西浦紫子の番号を呼び出した。

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