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姉妹、隣人と交流する 3

 〇


 案内されたのはアパートの隣の部屋だった。なんとこの女、紫子達とは隣室だったらしい。

 明かりは既についていたが、それでもなんだか薄暗く見えた。青白い光に包まれたその部屋でもっとも目につくのは、壁に立てかけられたいくつかの絵画だった。植物や建物といったものが主なモチーフで、人や動物がまったく存在しない。どの絵にも共通して感じるテーマは『静謐さ』で、およそ音を出しそうなものが何一つ書かれていないのが特徴的だった。

 部屋の隅には大きなデスクがあり、画材用具があちこち散らかっている。女はデスクの端っこの方に床に落ちそうに引っかかっていたノートパソコンを起動した。紫子を手で自分の傍に招きよせ、キーボードを叩く。

 『あなたの妹さん、大丈夫なの?』細い指がキーを叩く動作はすべらかだった。『お酒、飲むの止めた方が良かった?』

 喋れないというのは声を出せないというだけのことで、こうした形での会話はできるらしかった。

 「そらそうやろ。ただでさえ未成年なのに」

 『ごめんなさい』キーを叩いて、女はアタマを下げた。『きちんと謝りたくって。あの子があたしの飲んでるものに興味があるみたいだったから、手渡して見せたら飲んじゃったのね。そしたらなんだか気に入っちゃって。あたしがあの子くらいの時はふつうに飲んでたし、良いかなって思っちゃったの』

 「そんならまあ、飲んだんは緑子やし、あんただけを責められへんけど」意外と殊勝な女の態度に、紫子は態度を軟化させた。「でもあいつも酒と分かったら飲んだりせんはずなんやけどなぁ。まさかジュースと勘違いしたんとちゃうやろうし……」

 『それなんだけど』女はそこで、一瞬だけ手を止める。それから遠慮がちにキーを叩き始めた。『あの子、ちょっとおかしいんじゃないかしら? あたしは何も言わないのに、勝手に一人で会話してるし。あたし『北野』なのに、勝手に『ハイカワ』なんて呼ばれてるし。あたしの挙動とか表情で察してる部分あるんだけどね? でも言動とか、さっきの様子とか、ちょっとふつうじゃないわよね。普通飲まないお酒を飲んだのも、正気じゃない部分があったのかもしれないわ』

 「……なるほど。そういうことやったんか」緑子がこの女……北野に対して妙に友好的というか、無警戒だった理由が判明した。つまり緑子にとって、『ハイカワさん』というのは自身の空想上で北野の中に作り上げた存在なのだろう。

 壁や天井のシミ、ドアノブや人形なんかに対して行っているのと同じだ。無口無表情で意思表示に乏しい北野は、緑子の空想の土壌として最適だったのだろう。何も言わない北野の意思を緑子が勝手にイメージし、『ハイカワさん』という人格を作り上げた。

 「妹が迷惑かけたらしいな。察しの通りあの子はちょっとおかしくてな。どうおかしいんか説明するとちょっと長いし、ウチアタマ悪いから伝えられるか微妙なんやけど……」

 『かまわないわよ。あたしだってこのとおり口が利けないしね。それに迷惑なんて思っていないわ。妹さん、優しくて良い子ね。あたし、口が訊けないから、だから、誰かと会話をしている気分は久しぶりで、嬉しかったわ』

 「ウチを迎えに来てくれたんは、妹に頼まれたんか?」

 『それはあたしから発案したわ。あたしは喋れないけど、身振り手振りで妹さんはくみ取ってくれたみたい』

 「ほうなんか? なんでわざわざウチを? 察するにあんた飲酒運転やろさっきの? ケーサツに捕まるリスク犯してまでウチを迎えに来てくれたんはどして?」

 『楽しかったから』言いながら、北野はポケットから財布を取り出し、一枚のスタンプカードらしきものを取り出す。『あたし、テレビ見ないし、新聞も取らないから、あんな素敵なお店があるなんてこと知らなかったのよ。だから、あなたには感謝をしている。飲酒運転をしても良いと思えるくらいにはね』

 紫子が依然紹介した猫カフェのスタンプカードだった。猫の肉球を模したスタンプが、もう既に上の列が埋まるほど押されている。教えたのはほんの数日前だから、かなり通い詰めているということになる。

 「気に入ってくれたんか」

 『ええ』

 「そら良かった」紫子は笑う。「ところであんた、なんで口聞けへんのや? 風邪かなんかで喉でも悪くしとるとか?」

 『喉がおかしいのは子供の頃からよ。風邪なんかじゃないわ』

 「生まれた時から? どういうこっちゃねん」

 『私の声は人を不快にするのよ』女は無表情のままだった。『小学生の頃、学校の人や家族から、そんな風に言われ続けたの。聞いていると耳が腐るって。あたしが喋るとみんなが耳を塞ぐから、あたしは決して喋らないようにした。人に迷惑をかけたくない訳じゃないのよ? あんな奴らの耳なんて腐ってしまえば良いって思ってる。だけど、あたしの声は確かにガラガラして不愉快で、自分で聞いてもみじめな気持ちになるから、喋りたくないの』

 「そんなんただのイジメやろ? 気にすることあれへんって」

 『あなたはあたしの声を知らないから言えるのよ。何か喋ってみましょうか? きっと耳を塞ぎたくなるから。まあ、そんな風に言った手前、平気を装って我慢するんでしょうね。そして内心であたしのことをバカにするに決まってるわ』

 「……あんたの場合、自分の声が不快やって言われた方が、安心してまうようになっとるんとちゃうんか?」

 紫子が言うと、北野の無表情がわずかに揺らいだ。手は震え、紫子の方を何か抗議するような、或いは救いを求めるような、そんな表情でじっと見つめる。

 「緑子にもそんなことがあったんや」紫子は北野の顔を見つめ返して言った。「孤児院の仲間に『クサいクサい』言われていじめられとってな。当然ウチは『クサないよ』言う訳なんやけど、緑子にはそれが信じられへんのよ。あんまり悪口言われ過ぎて、自分がクサいって信じ切ってもうとんの。ウチがいくら否定しても、それが優しい嘘やとしか思えれへんのや」

 脚が悪く精神的に不安定だった緑子は、悪童たちにとって格好の被虐者だった。理不尽に攻撃されることに耐えられなくなると、人は本当に自分に非があって人に迷惑をかけるのだと思い込むようになっていく。そうやってある種の納得を得ることでしか自分を救えなくなってしまうのだ。それは心が挫けたことを意味する。当時十歳の緑子の精神がそうした状態に陥ったのは、無理のないことではあった。

 「じゃけん。ウチは言い方を変えた。『緑子はクサくない。けどもしクサかったとしても、お姉ちゃんは何も変わらんと緑子のことが好きや。緑子がクサかろうがクサなかろうが、ウチには緑子が一番大切なんや』って、そう言い続けたんや。緑子が泣くたび何度も何度も……。そしたらな、笑ってくれるんや、緑子は」

 『良いお姉さんね。心からそう思うわ』

 「同じことがあんたにも言えへんか? あんたの声がどんなもんかは知らへん。でもな、あんたの周りの人間の誰もかもが、声がおかしいくらいのことで、あんたのことを見限って見捨てたりするもんやろか? そうではないと思うんよ。アパート借りれて車持っとるんやったら、口効けんいうても人との繋がりが皆無いう程でもないやろ?」

 『綺麗じゃないけど仕事はあるし、あたしを応援してくれる親類もいる。その人達は、アタシの声をバカにしないかな?』

 「せんと思うし、もし万が一ちょっと笑われたとしても、それであんたの全てが否定される訳やないで。あんたは車の免許持っとるし、キーボード早ぅに叩ける。良いところがたくさんある。緑子が心開くくらいなんやから間違いない」言って、紫子は壁に立てかけてある絵の一つを指さす「この絵ぇ、あんたが描いたんか? 上手やんけ」

 空の絵だった。くっきりした青に、少し濁った色合いの白い雲がずっしりと描かれている。荘厳な気配を漂わせながら、ゆっくりと流れていく雲は、とても静かだった。

 『差し上げるわ』北野はキーボードを叩き、席を立って絵を拾い、紫子に手渡した。『妹さんによろしく。お酒飲ませちゃってごめんなさいって。今度、またお話ししましょうって』

 「りょーかい。絵、ありがと」紫子は絵を受け取って笑う。「ほなまたな」

 部屋を立ち去っていく紫子に、北野はキーボードを叩く代わりに、親指を立てて突き出して見せた。


 〇


 部屋に戻ると緑子が布団に横たわっている。薬が効いているのか、すやすやと深く眠っている。

 「ただいまー。北野さんに絵ぇもらって来たでぇ」言いながら、紫子は部屋の本棚の空きスペースに絵を立てかける。「にしても、よぅ寝とるなぁ」

 人差し指で頬をふにふにつつく。その頬はひたすら柔らかかった。

 「世話焼けるやっちゃで」紫子は笑う。「でも救われとるんはウチの方や。おまえがおらんかったらウチはどうなっとったやろ。おまえは脚をそんなにしてウチをかばってくれた。卑怯なウチを、自分を犠牲にして助けてくれたんや」

 ふと窓を見ると、雲の切れ間から夏の太陽が覗いていた。その内雲をかき分けて青空が顔を出し、北野からもらった絵のような綺麗な空が顔を出すだろう。

 「おまえは強いよ。ウチやったら絶対に壊れてしまっとる。命がけでウチを守ってくれて、その後もずっとウチの隣におってくれて……ウチはホンマに救われとるんや」

 二人だけの四畳半はひたすらに静かだった。紫子の独り言だけが誰にも聞かれずに消えていく。薬を飲んで眠っている妹の顔を見ていると、紫子はなんだか眠くなって来た。

 「色々あって疲れたわぁ」紫子はあくびをする。「ちょいと寝よう」

 妹の隣に横になって、目を閉じる。自分と同じ体格の緑子の体温を感じながら、気が付けば彼女の手のひらを探している。しっかりと彼女の指に自分の手を絡めると、紫子はまどろみの中へと落ちて行った。

 やがて空が茜色に代わり、夕焼けが手を握り合って眠る二人を包み込んだところでこの話はおしまい。

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