姉妹、隣人と交流する 1
〇
西浦姉妹の生活する貧乏アパートには何故か猫が良く集まる。
住人たちのゴミ置き場を目当てにやって来るのかもしれない。本来ならば害獣が寄らないように住人同士結託し何らかの対策を行うものだが、そのアパートには住人同士の付き合いというものが希薄な上周囲の環境に頓着しない者が多かった。よって、誰の口からも『猫対策』の言葉が出ることがなくその問題は放置されている。
そもそもの話、住人達もアパートに遊びに来る野良猫達を殊更に嫌っていた訳ではなかった。ゴミ置き場を荒らされる程度のことなら、行動するよりは悪臭に耐える方が楽だと考えるものが多かったし、敷地内でちょくちょく見掛ける猫のフンも、誰がやっているのか定期的に掃除がなされていた。車を持っている者が何人かいたなら傷物にされるのを恐れて結託しただろうが、そのアパートに自家用車の所持者は一人だけであり、その人物は車に猫の引っかき傷が刻まれることに無頓着のようだった。
ある日、アルバイトから帰って来た西浦紫子は、建物の前で座り込んでいる人影を目にした。
一見それは華奢な人物に見えた。ケツが小さくて靴のサイズも肩幅も小さかったから。しかし近づいて良く見てみると、その丸めた身体がやけに細長いことに気が付く。頭身がムチャクチャ高いのだ。
男物の白いTシャツに紺のジーンズという出で立ちの髪の長いその女は、足元に複数の猫を従えていた。大きな銀の皿にはキャットフードだろう塊がてんこ盛りになっていて、女はそこに集っている猫たちのアタマやら顎やらを無表情で撫でていた。
「ちょっとちょっとあんた」紫子はその女に声をかけた。「ただでさえこのアパート猫多くて困っとんのに、エサやりはまずいやろ? ゴミ置き場とか荒らされてたまに臭いことあるし、糞も落ち取ることあるやん? 迷惑なんやわそれ、やめてくれ」
女は振り返った。見れば見る程肌は不健康な青白さで頬も病的に痩せている。その割に顔立ちは非常に良く整っており、目は大きく視線は透明で、一見して幽霊のような印象すら抱かせた。
女はこちらを見たままじっと沈黙している。何も感じていないようですらある無表情。紫子はその態度に少し苛立って声をやや大きくした。
「あんたに言うとるんやで? 黙っとらんとなんとか言えや」
小さく首を傾げて、女は猫たちから皿を取り上げてしゃがんだまま体ごと紫子の方を向いた。
「……あ? なんやねんその態度。……ひょっとしてなんや、耳聞こえとらんとか?」
女はふるふると首を横に振る。二十歳を少し過ぎたくらいの端正な顔立ちに、その少女のような仕草は不釣り合いだった。
「ってことは……口聞けへんとか?」
こくんと頷く。
「ふうん。まあええわ。とにかくそれ持ってどっか行けや」
紫子が言うと、女は皿を持ったまま立ち上がる。その姿に、紫子はびっくりして思わず「わわっ」と声を出してしまった。
背は高いだろうと思っていたが想像以上だ。140センチ足らずの紫子と比べてアタマ二つ分以上の差がある。180、いや190センチ近くあるのではないだろうか。全身はガリガリに痩せていて肩も華奢だったが、手足はそういう妖怪だと言われれば信じてしまいそうな程細長い。伸ばしっぱなしだろう長髪は腰まで届き、その隙間から青白い顔が覗いているその姿は本当に幽霊のようで、紫子は思わずビビってしまった。
「あ、すまん」驚いてしまったことに対して紫子は謝罪した。相手を傷つけたのではないかと思ったのだ。「思ったよりタッパあったけん、びっくりしたんや」
女はフルフルと首を振る。構わないというニュアンスだろうか? それから女は右手に銀皿を持ち左手はだらんと落としたまま、紫子に背を向けて立ち去っていく。
「あ、ちょっと待って」
紫子は呼び止める。女は細長い身体をトカゲのように捻じ曲げてこちらを向いた。
「ちょいと言い方きつかったわ。ごめん」紫子はばつが悪そうに頬をかきながら言った。「猫が好きなんやったら、アレや。Y町のスーパーの前の信号右に行ったとこに、『猫カフェ』やいうてけったいな店ができとるらしいで? そこやったら誰にも文句言われんと猫と遊べるんちゃう? 行って見たらどうや?」
女はしばし沈黙したままこちらをじっと見つめると、体の前に両手を重ねて頭を深々下げた。前にテレビで見た、身体を売っている女が客に対して行うお辞儀に、少し似ているように紫子には見えた。
それからこちらに小さく手を振って、女は立ち去っていく。紫子は「ほななー」と声をかけておき、腕を組んで首を傾げた。
「変な女やったなー。悪い奴やなさそうやけど」
紫子が再びその女と出会うことになるのは、その数日後のことだった。
×
その日の緑子はなんだか調子が良かった。
三時間だけだけど薬なしに眠れたし、いつも緑子を監視している恐ろしい壁のシミもあんまり気にならなかった。どこかから悪魔の唸り声が聞こえることもなければ、脳に悪影響を与える音波が近くのビルから飛んでくるということもなく、一人でいてもなんだか安心していられた。生きていればこんな日もあるのだなと思うと緑子は幸せな気分になる。
こないだ段ボールで届いた造花作りの内職は全てやり終えてしまっていて、次の段ボールが届くのを待つ状態である。昼食は取り終えていて見たいテレビもない。
ちょっとだけ出かけてみようと思った。と言っても、アパートの周りを少し散歩するくらいだ。そんな程度でも緑子一人で行うのは大冒険だが、今日は行ける、という確信がその日はあった。
靴を履いて、片足を引きずりながら玄関を出る。外は少し曇っていて、真夏にしては涼しかった。
二階の廊下を少し歩くと、男物の白いTシャツを着た細長い影が、階段に腰かけているのが見えた。緑子はその背後に近づき、声をかける。
「こんにちはハイカワさん」
細長い影……『ハイカワさん』は、幽霊のように青白いその顔を緑子の方に向けた。
男物の白いTシャツに紺色のジーンズ、ハイカワさんはいつもこの服装だ。体はガリガリに痩せていて、背は高く身長は188センチだと言っていた。
ハイカワさんは『あらこんにちは緑子さん。今日は一人でお出かけかしら?』という顔をして緑子を見た。ふつうに見ればただの無口無表情でしかないのだが、緑子には確かにそういう顔に見える。
「そうだよハイカワさん。隣座っていい?」
ハイカワさんは『もちろんかまわないわ。お話ししましょう』という顔で頷いた。えへへと微笑んで、緑子は彼女の隣に座る。
「何してるの?」
ハイカワさんは階段の上に置いてある青い缶を手に持ってこちらに掲げる。そして『これを飲んでいたのよ。たまには外でやるのもいいものよね』という表情を浮かべる。
「なにそれ? 飲み物?」
ハイカワさんは『ええそうよ。缶チューハイというものよ』という顔で頷く。
「そうなんだ。おいしいの?」
『そうね。あなたも飲んでみる?』という顔で、ハイカワさんは階段の上にもう二つ三つ置かれた缶の一つを緑子に差し出した。
「いいの? うれしいなぁ」言って、緑子は缶を受け取る。それからプルタブを引いてから、それを口に付けた。「変な味。こんなの飲んだことないや」
『まあ、アルコールだからね』という顔をハイカワさんはした。
「ハイカワさんはこれが好きなの?」
『大人はみんな好きよ』という顔をハイカワさんはした。
「ふうん……。そうだ、ねえ聞いてハイカワさん。こないだね、お姉ちゃんがね……」
緑子はハイカワさんに良く姉の話をする。今回は、バイト先のスーパーの閉店業務で『電気を全部消しといて』と言われて冷蔵室の電気まで消してしまい、叱られながら『言われたとおりにしただけやろ?』と憤慨した話だった。
「なんかねー。食べ物が腐っちゃうってことはお姉ちゃんも分かってたんだって。でも『店長が言うからにはなんか考えがあるやろう思っただけや。自分の指示がおかしかっただけなのにウチに文句言われても困るわホンマに!』って、結局言い負かしちゃったんだって」
『それは言い負かしたというよりは、あなたのお姉さんの性質を改めて理解した店長さんが、ただ諦めたというだけの話だと思うのだけれど』という顔をハイカワさんはした。
「そうだねー。でもお姉ちゃん、今回の職場はまだやめさせられずに続いてるんだよ? 今回は、職場の人にも好かれるといいな。お姉ちゃん、たまにすごい失敗するけど、でも本当は頑張り屋さんで優しいんだ。ちょっと誤解されることあるけど、でも本当は、すごくすごく良い人で……」
『そうね。少しルサンチマンは強いけれど、思いやりがあって、人を気遣える、とても良い子だと思うわ』ハイカワさんはそうともとれる感じの表情で頷く。
「うん、うん! う……ん、んぅ?」緑子はなんだか目の前がぼやけて来るのを感じていた。「ありぇ、なんだろ? ハイカワさんが、二人にみえるような……?」
『アルコールの影響かしらね』ハイカワさんはそんな感じの顔をする。『あなた、お酒はきっと初めてよね? 大丈夫かしら?』
「でもこれおいしーよー」緑子はゴクゴク缶チューハイを飲む。「喉が変な感じになるのがおいしーね」
『気に入ってもらえたなら良かったわ。でも、ほどほどにね』という顔でハイカワさんはぼんやり頷く。
その内、雨が降り出した。雨粒の降り注ぐしとしとという音が貧乏アパート中に鳴り響く。
「あ、まずいなぁ」アルコールによってぼやけていく意識の中で、緑子は漠然と雨が降り始めたらしいことを認識した。「お姉ちゃん、そろそろバイトから帰る時間なのに。傘持ってってないよなぁ。濡れちゃうなぁ、風邪ひいちゃうなあ」
『あなたのお姉さんのバイト先はどちら? 遠いのかしら』ハイカワさんはそんなことを問いかける表情。
「うん。Y町のスーパー。自転車だと二十分くらいかな? でもわたしが傘持って迎えに行っても、一時間くらいかかるし……」緑子は自分の右足を見詰める。過去に骨折したまま長時間放置された所為で変形治癒し、人の半分の速さでしか歩けなくなっていた。この片脚は確かに姉の脚を引っ張っていて、そのことが緑子にはとてもつらい。
ハイカワさんはそこで唐突に立ち上がった。それから緑子の方に視線をやり、細長い指先で地面の方を指さす。
「どうしたの? ハイカワさん」緑子は問う。
『アレを見て』ハイカワさんはそんな表情。
「ん? えっとぉ……」酔いによる赤ら顔でふらふらと立ち上がり、転びそうになりながら塀に捕まって建物の麓を見詰める。ハイカワさんの指先には、黒いオンボロの車があった。
『あれ、あたしの車なのよね』ハイカワさんは自分を指さしてそんな顔をした。『今からお姉さんを迎えに行って来るわ。あなたはお家で待っていて?』
「え? お姉ちゃんを迎えに行ってくれるの? いいの、そんなことしてもらって?」
『気にしないでちょうだい。お友達でしょう? 助け合うのは当然のことよ』ハイカワさんはそんな風に言っているように見えなくもない顔だ。『お姉さんには連絡しておいてね』
ハイカワさんは緑子に背を向けて、缶チューハイは置いたまま階段を降りていく。途中、ふと思い立ったように緑子の方を振り向くと、細長い腕をこちらに突き出して親指を立てた。それから颯爽と、長い髪をなびかせて車の方へと向かう。
「ありがとうハイカワさん!」緑子は大きな声でお礼を言った。