北野霞、妹を救う 5
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「こんにちはハイカワさん」
姉がアルバイトに出かけたある日の午前中、緑子はアパートの階段で見掛けたハイカワさんに声をかけた。
『こんにちは』という表情をハイカワさんは浮かべる。『隣、どうぞ』
「うんっ」緑子は笑顔で隣に腰かける。
階段に腰かけてお酒を飲んでいるハイカワさんの隣で、しばらく緑子は沈黙していた。仲の良い相手の気配を感じながら時間を共有するというのは幸福なことだ。これと言った会話は必要ない。最近、緑子はハイカワさんのことが以前よりも好きになっていた。
「妹さんとはどんな感じなの?」緑子は言った。自分でもそう口にしたことに気付かなかった程、それは自然に口を着いた。
『一緒に暮らせて幸せだわ』ハイカワさんはそう言う表情で答える。『話すことがたくさんあって毎日楽しい』
「うんうん。そうだよね」緑子は上機嫌になる。兄弟姉妹で仲が良いのは素敵なことだ。切っても切れない素晴らしい絆で結ばれた素敵な親友が、いつでも家にいてくれるのだ。こんなに幸せなことってない。
『もっと早くこんな風に一緒に暮らすべきだった』ハイカワさんはそういう顔をする。
「わたしもそう思うなあ。でも、今からでも失った時間は取り戻せるよ。わたしとお姉ちゃんがそうなの。施設でたくさん寂しい思いをした分だけ、今は、たくさん一緒に……」
「ミドリコサン」
声がした。
それが北野霞の声であるということを緑子は認識した。少し前にスーパーの廃墟で彼女が喋っているのを耳にしたから。
「うん?」緑子は首を傾げる。「どうしたの?」
「アタシノコエ、ドウオモウ?」
緑子はすぐに答えた。「ちょっと聞き取りにくいけど、素敵な声だよ」
「ウソ」
「嘘じゃないよ」緑子は微笑んだ。「妹さんを助けようとするお姉ちゃんの声が、素敵じゃない訳がないよ」
緑子は心からそう思っていた。基本的には自分の思ったことや感じたことに正直な性質だ。優しい嘘をまったく口にしない訳でもないが、しかし緑子はあの時妹を励まし心を開かせようとする霞の声を聞いていた。それはとても優しい声だった。
「ソウ……」霞はそう言って緑子の方を見た。
「これからもそうやってお喋りしてくれていいんだよ、ハイカワさん」
「キタノヨ」霞は言った。微笑んだようだった。「キタノカスミ。オボエテ」
「よろしく霞さん」緑子は言った。「初めまして」
緑子は北野霞を優しい人だと知っている。妹を想いやる優しい姉だと知っている。
だから怖くなかった。『ハイカワさん』がどこかに消え去っても、いなくなっても、緑子はこの人とならいくらでも仲良くしていられると思えた。
○
「アノコッタラホントウワガママナノヨ」猛烈な口調で霞は愚痴を言った。「イソウロウノ、ブンザイデ。ソンナニハヤク、オキラレナイトカ。ヒトノ、セイカツリズムニ、モンクヲ、ツケテクルノヨ!」
いつも霞が酒を飲んでいるアパートの階段である。紫子が仕事から帰って来ると霞がぐびぐびやっていたので、紫子が声をかけて見たのだ。
「あんたの気持ちは分かるわだ」紫子はうんうんと共感して頷いてやった。「ただあんたってショクギョー的に、朝起きて夜寝るみたいなリズムとは違う訳やろ? ふつうの学生である朱梨さんと同じ部屋で寝起きするのがそもそも無理があるんやろうな。あんたはそら大変やろうし、同じくらい向こうかて大変な訳や。ウチもほら、九時んなったら眠ぅなる性質やけん緑子にメーワクかけとって……」
不眠症を患う緑子にとって眠るタイミングは必ずしも一定でなく、たいして紫子は決まった時間に眠くなる性質だ。施設時代、九時に寝室に移動して十時に消灯というルールだった際、寝室に移動した九時の時点でもう眠ってしまいたかったことを叶えている形ではある。妹の体調次第では気合で起きていることもあるが、それでも日付が変わるまで耐えられたことは一度もない。
「あの子もホンマは生活リズム作ってかないかんのやろうけども、どうしてもほら、症状的に、夜が来ても寝れれんっちゅう状況が多くてな。多分本人は結構退屈やし孤独やしつらいんやろうと思う。テレビ付けるとかしとったら気がまぎれるんちゃうかなとは思うし、ウチも勧めるんやけんども、あの子遠慮しいやけん、ウチに気遣ってずーっと静かにしとるんよ。ライトスタンドとかも買うたったんやけんども、『お姉ちゃんが寝るの邪魔しちゃ悪いから』ってほとんど使いもせぇへん」
「ウチノ、イモウトニモ、ミナラワセタイワ。ホントウニ、イイ、イモウトサン」
「まあ緑子は世界一やで」紫子は胸を張る。「ただまあ、すり合わせっちゅうんも大事やとウチは思うんよなぁ。たとえ家主と居候っちゅう扱いなんやとしても、同じ家の中で助け合って生きる仲間同士には違いないんやけん、互いにある程度尊重しあう部分ちゅうんは必要やと思うわ。あんたの行動時間ってどんな感じなん?」
「カエッテ、クルノガ、ヨジトカ」
「ほーん。いうなればその時間にあんたが帰って来てごぞごぞしだすもんやけん、朱梨さんとしては目が覚めてもうて困っとるいう訳か」
「アカリガ、ハヤク、ネレバ、スムハナシヨ。コッチハ、シゴトナンダカラ」
「それはそうやな。立場とか関係なく、朱梨さんのが譲るのがええと思うわ。あんたかて、妹が目ぇ覚ますまで外で時間潰すんとかはややろうし……。その内理解してくれるとええな」
「マア、ムカシハ、コドモベヤデ、イッショニネオキシタ、ナカダシ。イソウロウッテイウノハ、ホンキジャナイワ」霞は言う。
結構色々大変らしい。まあそこは血の繋がった姉妹なんだからなんだかんだお互いに歩み寄ってすり合わせるに違いない。互いへの思いやりがなければ共同生活なんて成り立たない。血の繋がった家族であることは大切だ。
「つか緑子が不思議がっとったんやけども、あんたっていわゆるフーゾクギョーなんやろ? 確かそれってホーリツで夜の十二時までしかエーギョーできんのちゃうんか? 帰るんが四時って……」
「イエ、オモテムキ、タダノ、キッサテンダカラ」
「ズルいなー。だれがやんりょるん?」
「ボーリョウクダン」
「いかついなー」
「ソウイウ、オミセデシカ、ハタラケナイ、ヒトタチモ、イル。イキテイクニハ、シカタガナイノ」
「まあせやな。ホンマに自分や身内の生き死にかかったら、ズルいとかいうてられへん」
「カラダヲ、ウル、オシゴト、アナタハドウオモウ?」
「職に貴賤はないで。ただ、施設時代、一個年上で施設の男相手にバイシュンしよったすごいキレーな人がおってな。誰とでもエロいことするんやけんども、その分妊娠してしもうたりとかしてな。友達巻き込んで自分で堕胎したりとかアホなことしよったんよ。そういう危険考えたら、過酷な職業ではあると思う」
紫子も散々貧困は経験したので、というか今現在普通に貧乏暮らしをしているので、金策になりふり構わない人間の気持ちは良く分かる。白瀬千春の例は少々特殊だろうが。
「まあ、その辺のリスクを押してでもそうした職業を選ぶ理由っちゅうんも、人それぞれあるんやろ。金がええっちゅうんもあるやろうし、そもそもそういうんが好きっちゅうんも立派な理由かもしれん。最近はウチもな、うん、そういう風に考えるジューナンセイちゅうんかな、身に付けてきたんやで」とこないだ緑子から褒められた。風俗業をテーマにしたドキュメンタリーをテレビで視聴した時のことである。
「ソウ。デモ、ホンバンコウイ、キンシダカラ、ダイジョウブ」
「ホンバンコウイ?」
「ニンシンノ、リスクハ、ナイノ」
「ああなるほど」『エロいこと』にも色々あることをぼんやり思い出しながら紫子。「ほうか。まあでも、無理はせんようにな」
「シンパイシテクレテ、アリガトウ」
「ええんやで」
霞の声は聞き取りにくいが、その分区切って喋ってくれるので最近は円滑にコミュニケーションが取れるようになっても来ている。ノートに文字を描いてもらうよりはよっぽど早い。
「コウシテ、コエヲダシテシャベルノモ、イイモノネ」
霞は言う。初めて声を聞いた時、紫子は少し不安だった。霞に声に付いての感想を聞かれた時に、どう答えれば霞の繊細な心を傷付けずに済むのか考えていたのだ。
しかしその問題は知らない間に緑子が解決してくれていた。その時の緑子とのやり取りをノートに描き記す霞に、紫子は『ウチもそう思うで』と言えば良かった。
「大事なんは声やなくて言葉や。言葉もそうやし、気持ちもや。あんたは言葉も気持ちもすごい優しい。せやから声なんてのは些細な問題やで」
「アリガトウ」
霞はそう言って微笑んだ……ように見えた。相変わらず、鉄面皮だったのだ。
△
「霞ちゃんと朱梨、上手くいってる?」と文江。
「私に問われても困ります」と茜。
子分(もとい、ボーイフレンド)の胡桃を引き連れて下校中、校門の前で文江に呼び止められた。言いたいことは言い終えたのでとっとと帰ろうかとしたところで、文江に肩を捕まれる。
「ちょっと待っててば」
「これ以上の回答を私は用意していません。早く家に帰ってプロ野球のクライマックスシリーズを視聴したいです。我がジャイアンツはベイスターズに勝利を飾れるのでしょうか」
「飾れねぇよ! クライマックスシリーズはもうとっくに終わってるんだよ! 巨人村田が決死の覚悟の内野安打で掴んだサヨナラのランナーを、代走鈴木がまさかの牽制死に倒れて敗退したよ!」
「そういや今年って2016年なんでしたっけ?」
「それがどうしたんだよ!」文江は地団太を踏んだ。
「なんかそんな気がしませんね……。まあ良いでしょう。気になるのであれば朱梨さんご本人に確認すれば良いではないですか? 親しいお友達でしょう?」
「聞いても『ぼちぼち』としか言わないんだよ。例の姉妹からなんか訊いてない?」
「喧嘩するほど仲が良いそうです」茜は言った。紫子の見解だ。「霞さんも家主としてそれなりに物は言いますが、朱梨さんも気が強いのでちょうど良く張り合っているみたいですよ。霞さんの運転する車の助手席に朱梨さんが乗っている光景もたまに見るとかで、まあ一緒に買い物に出かけていると言ったところだそうです。まあまあ、ぼちぼち、仲良くやってるんじゃないですか?」
「ならいいんだけど」
「心配症だね」胡桃はそう言って口を出した。「事情は茜さんから聞いたよ。結構大変なんだってね。朱梨さんが早くご両親と仲直りできることを祈らせてもらうよ」
「誰に祈るんだよ」と文江。
「フェアリークイーンさ」
「マジカルキューティに魔法の力を与えた妖精の女王様に祈って何の利益があるのさ?」
「マジカルパワーが増幅し、悪を打ち倒すことができる」
「知るかよ! アニメのキャラだろうがよ! つかあいつが昔の恋人である堕妖精ルシファーに騙くらかされたのがダークキューティ生み出されちまった原因でしょ? あたしあんま好きじゃないんだけどあのキャラ!」
「そういう人間臭いところがいいんじゃないのかな? 子供目線だと、フェアリークイーンは自分達と同じ目線で活躍するキューティ達とは違い、親や教師に近い存在だと思う。でもそうした存在であるフェアリークイーンも決して完璧ではない。しかしその完璧でないことをキューティ達は理解した上で受け入れて、共に失敗を埋め合わせようと尽力する訳さ。非情にメッセージ性に富んだ素晴らしい展開だと僕は思うよ」
「小難しい話はいいです。キューティが魔法使ってドンパチ戦ってるシーンだけ見れれば私は構いません」茜はぶった切った。「なんならあなた、今から霞さんの家にでも遊びに行けば良いのでは?
その時だった。
上品な黒いドレスを着こなした背の高い女性と、それに付き従うように後ろを歩くくたびれた雰囲気のスーツの男性が、文江に向かって声をかけて来た。
「文江ちゃん」と女性の方。「おひさしぶりね。こんにちは」
「おばさん……おじさん?」文江は警戒した様子で頷いた。「ひ、ひさしぶり。どうしました? 何か用ですか?」
「敬語なんて使わなかったじゃない文江ちゃん」上品に微笑む女性。「親戚のおばさんくらいに想っていて良いのよ?」
「ああそう? ならお言葉に甘えるわ。正直こっちのが話しやすいし」文江は息を吐いた。「で? どうしたの? 朱梨ならもう帰ったけど」
「私の娘が、私の家以外のどこに帰ったというのかしら?」
女性は言う。茜は察した。この二人は……北野姉妹の両親なのだと。