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北野霞、妹を救う 4

 うっかりしてまる一日投稿が遅れました。本当に申し訳ありません。次は気を付けます。

 〇

 

 「お姉ちゃんが一言もしゃべらなくなって、それで母親も懲りたと思ったんだけどねぇ」

 スーパーの廃墟の中、壁に背中を預けた朱梨が昔話を終える。

 「喉元過ぎれば暑さも彼岸? 自分の長女ぶっ壊しておいて、同じことを次女にもしようってんだ」

 紫子は目を見開いていた。緑子は姉の手を握って震えている。

 「自分がお姉ちゃんにしたこと何も覚えてない。反省してない。そんな親のところにいたところで、わたしの人生どうなるっていうの? 逃げ出すべき『時期』がいつ訪れるっていうの? 何を置いても、一秒でも早く逃げ出さなくっちゃ……お姉ちゃんみたいに」

 「……どうしても母親と向き合えんのか」紫子は尋ねる。

 「どうやって向き合えるっていうの?」朱梨は肩を竦める。

 「……まあ。それができんかったから家出して来た訳やしな」紫子は息を吐く。

 「あなたが向き合うべきなのはご両親ではなくて、あなた自身の人生ではないですか?」

 茜は言った。朱梨は目を剥いて立ち上がり、茜の方を強く睨みつける。

 「ちょっとばかりアタマが良いからって何も考えず好き放題にしてるあんたに言われたくないよ。この糞漏らし」

 「私をどんな風に罵ろうとも、あなたの現状が少しでも好転する訳ではありません」

 「……あんたに何が分かるの?」

 「何も分かりません。無関係ですから」茜は胸を張った。「人は自らの産まれる境遇を選べません。その運命も。ですが自分を変えることはできます。どんな状況に置かれても人はなりたい自分になれますし、幸せを掴めます。あなたはあなたなりにとことん足掻いてみることができますし、その為にはこんなスーパーの廃墟でくすぶっているのは単なる時間の無駄です。それだけは誰の目にもはっきりしていますよ」

 「…………」

 「ね……ねぇ、あかねちゃん」緑子がおずおずとした表情で言った。「この人は十分……十分にもう、たくさん、たくさん、がんばったんじゃないのかな? 自分の運命から逃げ出す為に、十分に十分に、がんばったんじゃないのかな? だから今はもう疲れてて……」

 「同情心と嗜虐心は一緒の種類の感情や」紫子は言った。

 「どういう意味で?」と茜。

 「……いや、すまん」と紫子。「あかねちゃんの発破は的を射とると思う。けど、誰にでも通じるようなもんでもないやん? 自分のお姉ちゃんがそんな酷い目に合うんを目の当たりにしたらふつうは親に失望するし、その親が自分に牙を剥いたのであれば必死に逃げて来たのも頷ける。逃げたはいいものの身動きとれんっちゅう状況には素直に同情するで」

 「……あんたに同情されてもね」

 「わたしに何かできることは……」と緑子。

 「誰に口効いてんの? わたし、あんたに結構酷いことした記憶があるんだけど?」

 「過ぎたことだから……」緑子は目に涙を浮かべる。

 「じゃあ金でもくれる訳?」

 「ええと……」困惑して紫子の方に視線を送る緑子。

 紫子は頷く。「おまえが本当に望むことなら何でもすればええで。ウチはおまえのような優しさは好きや。いくらでも協力するよ」

 「この人が自分でどうにかするより仕方のない問題です。中途半端に施しても意味があるとは思えません」茜は言った。

 「余計なこと言うなよ。こっちはお人よしに付け込んで金でも毟ろうって腹なのに」朱梨はふんと鼻を鳴らす。

 「そんなことこの二人は分かっています。ですがあなたの単なる逃避行に協力したところで幸福になる人間は一人もいません」

 「元家出少女の言うことは含蓄があるねぇ」

 「あなたに一人で生きる力がないのなら、誰かがきっとあなたを捕まえます。それがあなたの限界なら、そうなるよりもどうしようもありませんよ。そうなってからじっくりとどうするかを考えなさい。何ならわたしが警察でも連れて来てあげましょうか?」

 「そりゃ嫌だねー。いいさ。このままのたれ死んでやる。ろくな人生じゃなかった。あーあ」

 そう言って心を閉ざしたように目を閉じる朱梨。何を言っても無視する構えだ。

 「行きましょうか」茜は姉妹の方を見る。「私達にできることは何もありませんし、何もする義務もありません。言いたいことは好き放題に言ってやりましたしスッキリしたので私は満足です」

 「あかねちゃんらしいわ」紫子は表情を引きつらせた。

 「……どうすればいいんだろう」と下を向いて緑子。「あの人……本当に死んじゃうんじゃ……」

 「放っておけばいいんです。人は一人です。余計なことはしても仕方がありません」

 茜は言う。そうかもしれないな。紫子は思った。

 あの女にいくらか施しをしたところで、その金を使ってあの女が現状を脱する保証はない。むしろ無意味な逃避行を助長する結果に終わる可能性の方が高い。アパートの頭金と当面の生活費を全て看てやれる程の経済力は姉妹にはないのだ。

 朱梨が仕事を見付けるまで宿を提供するという手だても絶対に不可能だ。あの女が今どれだけ弱っていようとも、危険人物には違いない。緑子と同じ空間に置いておくなど言語道断だ。

 気の毒なのは緑子の純粋な同情心である。髪の毛をボサボサにして垢塗れで座り込む姿に完全に胸を打たれてしまっている。しかしこの非力な妹に差し伸べる手などどこにも存在していないし、それを本人が分かっているから自分を責めるように塞ぎ込んでいる。

 浮かない顔で下を向く緑子の頭に、紫子は手を置いた。

 「あかねちゃんのいうとおりかもしれへんな」紫子は言う。「自分にできることを一生懸命に考えとるおまえは偉いと思う。けど、誰のことも助けてやろうなんていうんが許されるんはスーパーマンだけや。おまえが悩んで苦しむ必要はないんやで」

 「う、うん。うん」緑子は震えた瞳で頷く。

 「この人にはこの人に手を差し伸べる人がきっとおる。それを祈ろうやんけ」

 その時だった。

 「朱梨っ!」

 廃墟スーパーの休憩室の扉を開けて、小柳文江が飛び込んで来た。

 「まさかとは思ったんだ。本当にこんなところにいるだなんて……」

 「文江……」朱梨は一瞬だけ目を大きくして、すぐにぷいと目を反らした。「もうあんたにできることはないでしょ? 何日か泊めてくれたのは感謝してるけど、もうわたしに関わったってどうしようもないよ」

 「そうじゃない!」文江は言った。「そうじゃないんだ」

 長身の影が背後から現れる。

 気温が下がるに従って長袖になったTシャツに、サイズの合っていないジャンバーをただ引っ掛けている。背の高い植物のような存在感のその女性は、ふらふらとした足取りで濡れた髪から滴を垂らしながら朱梨に歩み寄り……細長い手を差し出した。

 「なあに?」朱梨は睨みつける。「お姉ちゃん? なんでこんなとこ来たの? どうしてここが分かった?」

 『しらみつぶし』湿ったノートを妹に差し出す北野霞。『あなたはこういうところを見付けてヒミツキチにするのが好きな子だった。良く付き合わされたわよね』

 「失せろよ」朱梨は言った。

 『あの家をにげだしたいのよね』霞はノートに文字を書き足す。『お姉ちゃんが連れ出してあげる』

 「ふざけんな!」

 「何を拒む必要があるんや!」紫子は叫んだ。「なんでお姉ちゃんの気持ちも汲んであげれんのや!?」

 「おまえは黙ってろ!」朱梨は立ち上がる。「わたしがあんたに何したと思ってんのよ? わたしがどういう気持ちでいると思ってんのよ? 口の効けないあんたの傍でわたしがどんな気持ちだったか、無残な声で喋るあんたの声を聞いてわたしがどんな気持ちだったか……」

 「だから朱梨は悪くないんだよ!」文江は吠える。「霞ちゃんが喉の手術をしたとき朱梨は小学生とかでしょう? 止めてあげられなかっただとか、自分が自由でありたいがために助長するようなことを言っただとか、そんなこと気にしたって何になるのよ?」

 「うるさいな!」

 「霞ちゃんと朱梨は、ちゃんとお互いのことが好きなんでしょうが!」

 文江は叫んだ。

 「なんで仲良くできないの? なんでそんな風に傷つけあう必要があるの? 朱梨は間違ってるよ」

 朱梨の気持ちも分かる。朱梨は自分を攻めている。姉に縋り甘え無茶な要求をし、その結果大切なものを奪ってしまったことに負い目を感じている。その負い目と向き合うことを恐れている。自ら心を閉ざし瞳を閉じて、姉の存在ごと自らの罪を拒絶している。

 それを卑怯と弾劾することは簡単だ。しかし自らの罪に怯えるその心自体は、繊細な優しさに満ちてもいるのだ。姉を傷付けた、壊してしまったという事実に怯える朱梨の精神の根っこには、純粋な良心が悲痛な叫びをあげながら横たわっているのだ。

 誰かがその叫びに耳を傾け、救ってあげなければならない。屈折し矛盾したその精神を力いっぱい抱きしめてあげなければならない。

 「ユルスワ」

 声がした。

 心臓が跳ねる音を紫子は訊いた。妹と二人、凍り付いた目で長身の友人を見詰めた。

 「ユルスワ。アナタガアタシニシタコトヲスベテ、ユルス」

 霞は朱梨を抱きしめた。細長い腕が朱梨を力強く抱きしめた。

 「コレヲイッテホシカッタンデショウ?」霞はいつもの鉄面皮を少しだけ緩ませた。見ていて心がとろけるような優しい笑みだった。「ゴメンネ。オネエチャン、イジワルダカラ。シランプリシテタ」

 朱梨は信じられない物を見るような目で姉を見上げる。

 『自分は咎人だ』と朱梨は姉に言い続けた。それは裁かれたかったからだ。裁かれて、許されたかったからだ。

 しかし霞は首を振り続けた。朱梨の咎を否定し続けた。

 「ユルストカ、ユルサナイトカジャ、ナイトオモッテタ。アナタハ、ナニモワルクナイカラ。ソレデモ、アナタハ、ユルサレタカッタノネ。アナタト、チャントムキアウベキダッタ」霞は言う。「フミエチャンニ、オシエラレタワ」

 「……そんなこと」霞は姉の胸の中で震える。「そんなこと、そんなこと」

 二人にとって必要なだけの沈黙が流れた。霞はひたすら妹を優しく抱きしめ続けていた。失った時間を少しでも取り戻すために、壊れかけた妹の心を離すまいと力一杯抱きしめて捕まえていた。

 「うぅ。うぅうう」朱梨は涙を流した。「ごめんね、ごめんねお姉ちゃん。酷いことをして……ずっと酷いことをし続けて……ごめんね」

 「イイワ。ユルスワ」

 きっとこの簡単な、本当に簡単なやり取りをずっとできずに、姉妹はすれ違っていたのだ。

 雨音の中、二人はお互いの身体を抱き続けていた。

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