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北野霞、妹を救う 3

 #(※)


 あなたは歌手になるんだ、と言われた。

 あなたは私の娘だから。あなたには才能があるはずだから。優しい母親はそう言って幼い霞の頭を撫でた。言われている内容はともかくとして、頭を撫でられることは嬉しかった。

 母親に手を引かれて歌謡教室に行った。

 そこでも母親は優しかった。講師を務める母親はそこでも霞のことを娘として扱い他の子よりも熱心に指導した。特別扱いされているとも言えたし、贔屓されているとも言えた。母親は指導中に霞を称賛することを忘れなかったし励ますことも忘れなかったし機嫌をとることも忘れなかった。プレッシャーというものを理解するには霞は幼く、愛情と期待はただただ清いものとなって霞を淡く包んだ。

 たまに、ヒステリックな姿を見せることはあった。

 幼い霞にはいきなり覚えられないこともある。教えられたとおりにできないこともある。失敗をしても最初の一回は優しく励ましてくれる。二回目もたいていは同じようにしてくれる。ただ三度目となると叱られることが多いし、四度五度と続けば平手が飛んでくる。

 泣き喚いても許してくれないこともあった。

 逃げ出して足腰立たなくなるまで殴打されたこともあった。

 鍛錬は深夜まで続いた。折檻を受けることに疑問はなかった。母親は確かに霞を愛していたし霞に期待をしていたし、霞が上手に言われたことをこなしている内はひたすら優しい母親だった。恐ろしいのは、嫌なのは、霞が明らかな不手際をやらかした時だけで、つまりそれは霞が悪いのであって、だから母親は何ら間違った存在ではないのだ。霞はそう信じていたし、母親もそう信じていた。

 最初に喉の手術をしたのは十歳の時だ。

 突然に綺麗な声が出なくなった。歌い過ぎの時に同じようなことが起きることはあったが、歌うのを控えても薬を飲んでも良くならないのは初めてだった。

 簡単には治らない病気だ、と医者は告げた。

 無理をさせ過ぎたのだ、と医者は説明した。

 喉を休めていればやがて声はまともになる。しかし再び酷使し始めればまた同じように綺麗な声が出づらくなるし、それを繰り返す内にまともに喋ることも適わなくなる。日常生活での発声程度ならともかく、歌手になることは諦めた方が良い。

 医者にそう言われ、霞は正直、ほっとしていた。このまま声が出なければ自分はもう二度と歌わずに済む。苦しい思いをしなくても済む。歌謡教室で失敗をしない限り霞にとって母親はあくまでも優しい存在だった。歌なんてなければ優しい母親であり続けてくれる。自分は自由と安寧を手に入れるのだと思うと、霞は嬉しがった。

 病院から戻り、机に伏して泣き続ける母親を眺めながら、胸を撫で下ろした霞が子供部屋に戻ると、泣きじゃくる妹の姿があった。

 「お姉ちゃん。もう歌は歌わないの?」

 霞は頷いた。「ソウヨ。コエ、キタナクナッテルデショウ。ダカラ、ムリナノヨ」

 「一杯休んでもダメ?」

 「ダメヨ」

 「お薬を飲んでもダメなの?」

 「ダメヨ」

 「シュジュツをしたら?」

 朱梨は言った。

 そんな話を夜両親がしているのを聞いた、と朱梨は続けた。

 手術という言葉がどういったものを指すのかはおどろおどろしいイメージと共に漠然と理解していた。身体を切り裂いて細工をして閉じるのだ。そうしたことが自分の身に降り注ぐことは想像できなかったし、起こるとしても相当な未来だと思っていた。

 「アカリハ」霞は妹に問うた。「アカリハ、オネエチャンガウタワナクナルノハイヤナノ?」

 「嫌だよ」朱梨は応えた。「だって、お姉ちゃんが歌を歌えなくなったら、わたしがお姉ちゃんみたいにされるでしょう?」

 そう言われ、霞は目を見開いた。

 確かにそうかもしれない。確かにそうかもしれない。朱梨は霞と同じ歌謡教室に通ってはいるが、特別扱いされるのはいつも姉の霞だけだった。

 だが霞と朱梨とでそこまで才能の違いがあるようには霞には思えない。むしろ、妹を引き合いに「朱梨はあんなに飲み込みが早いのに」などという叱責のされ方をすることも多いくらいだった。自分ばかりが厳しい鍛錬を課せられるのはあくまでも長女だからに過ぎない。母親はどちらか一人が歌手になればそれで良いのだ。もう片方は、精々が保険に過ぎないのだ。

 「わたし、文江とソフトボールがしたい」

 朱梨は言った。

 「だからお姉ちゃん、がんばってよ」

 涙を浮かべて、身代わりを求める視線が霞に向けられる。

 応えなければならない。『お姉ちゃん』なのだから。


 #(※)


 手術が行われた。

 医者も止めた手術だった。対症療法にしかならない可能性が高いのだと。一時的には良くなるかもしれないが長い目で見れば喉に負担をかけるかもしれないと。増して体の出来上がっていない十歳の霞に施すような手術ではないと。

 しかし霞は訴えた。必ず自分は歌声を取り戻すのだと。ここまで母親と二人でやって来たことを無駄にはしたくないと声高に訴えた。

 それが功を奏したと言えるのかどうかは分からない。霞がどれだけ嫌がろうと母親は長女に手術を施したかもしれないし、或いは早い内に霞に見切りを付けて今度は朱梨に英才教育を施したかもしれない。だがとにかく現実として手術は行われ、そして成功した。

 霞は姉の務めを果たした。妹の身代わりとなり、庇護したのだ。

 妹は喜んだ。小学四年生から入れるソフトボール教室に通い始め、親友である文江と共に練習に励んだ。『進んだ』上級生から少し悪い遊びも仕入れて来るようで、文江と一緒にコソコソと化粧の真似事をしたり良くない場所に出入りしたりし始めたが、そうしたことは霞の喉の調子に一喜一憂する母親の目には映っていないらしかった。

 コンクールに出場して結果を残した。観客席には妹の姿が常にあった。髪の色を抜いた妹の姿は垢抜けていて、着せられたような服でおめかしした自分よりも、くっきりとした輪郭を持った命であるかのように思えた。

 「お姉ちゃんの声は本当に綺麗だね」朱梨はそう言って、尊敬と感謝を込めた表情でほほ笑んだ。「ちょっとだけ嫉妬しちゃうな。お母さん、お姉ちゃんのことばっかり構うから」

 「あなたも歌謡教室を続ければ良かったんじゃない? 今からでも遅くはないわ」

 「いいよ。ソフトボール楽しいもん。わたしはわたしのしたいことするよ」

 「そう。良いことだと思うわ」

 「というかお姉ちゃん、背、伸びすぎじゃない? 小学六年生でもう百七十センチ近くあるじゃない。目立つよね」

 「なんだか知らないけどすごく伸びるのよ。あなたは普通くらいなのに」

 「お父さんもお母さんも普通くらいの背なのにね。いや、親戚に一人すっごく高い人がいたんだったか。でもいいじゃない。お姉ちゃんは顔も可愛いし、すらっとしてて、綺麗だと思うな」

 「ありがとう」

 「結構、自慢のお姉ちゃんだと思ってるんだよ。歌は本当に上手いし、わたしにも優しいし。お姉ちゃんが喉の手術受けてくれたおかげだしね、わたしがソフトボールできるの」

 「気にしないで」

 「お姉ちゃんは歌うのって好きなの?」

 霞はしばらく沈黙していて、そして、こう答えた。

 「あなたやお母さんに喜んでもらえるから、好きよ」


 #(※)


 中学に上がる前に、再び喉を傷めた。

 コンクールでも結果が出始めた頃だった。才能が正しく発揮され始めた頃だった。

 母親は泣いてわめいてヒステリックに医者に詰め寄った。医者は静かに首を横に振り、霞の運命を告げた。

 手術をしても手術をしても、何年かごとに喉を悪くする。それを繰り返している内に霞の歌声は輝きを失い、最後にはまともに声を出すことも不可能になるかもしれない。歌手にするのは断念した方が良い。

 母親は信じなかった。同じ病気にかかっても活躍している人はいる。ウチの娘がそうできないのならば、それはあなたの腕が悪いからではないのか?

 どうしてウチの娘にそんな運命が降り注ぐのだ?

 母親は手術を強行した。霞は拒まなかった。

 霞は一時歌声を取り戻したが、しかし自分の才能が致命的に傷付いたことは察していた。手術をする前よりも明らかに出せる音域が狭まっていたし、負担を欠けすぎた喉は頻繁に炎症を起こす為に長時間のレッスンに耐えられなくなった。

 母親は喚いた。こんなはずじゃない。もう一度手術を受けさせるべきだ。

 この頃には霞も現実をありのままに判断できる能力が備わっていたし、母親の愚かしさも理解していた。物事が全て自分の思うがままになると信じ込んでいて、その信仰が為に不断の努力ができる点は確かな長所でありそれが彼女の音楽家としての成功に結び付いたことは確かだけれど、ことここに至っては医者の言うことがすべて正しい。母親は現実を受け入れていない。

 霞とて歌を失うことはつらかった。心底から自分が歌手になりたかったのかどうかは確信できないけれども、それでも何年間そればかりを続けて来た自分の技芸であり生きざまだった。それによって自分は母親から褒められ周囲の人から認められた。それを失うことは翼を失うことと同義だった。

 だが事実は事実だ。これ以上声を失ってはたまらない。自分は一度ここで母親に立ち向かわなければならない。母親に現実を説かなければならない。如何に自分の声は醜く喉は痛み歌うことに苦痛を伴うのか、それを自分自身の口から説明し納得させなければならない。

 教室と病院とを往復しながらその決意を固めていた霞の手を、朱梨は必死に握りしめて来た。

 「お姉ちゃん。助けて。お母さんがソフトボールやめて、歌の教室に戻るように言って来る」

 それも仕方がない。霞は黙って妹の頭を抱きしめる。

 「わたしってお姉ちゃんの代わりなの? そんなの嫌だよ。わたしはわたしなのに」

 整髪料の匂いを嗅ぐたびに、彼女は自分の庇護を離れたものだとそう思っていた。

 だがそれはどうやら違うようだった。

 「わたしもお姉ちゃんみたいに声が変になるかもしれない。そんなのって嫌だ」

 涙を流す妹を抱きしめていると、胸の奥から本能的なエネルギーが湧いてくる。

 霞は今日まで家族の為に尽くして来た。母親の期待に応え、妹を庇護する為に歌い続けた。

 誰よりも優しい歌声の持ち主だった。それは正当に評価されていた。霞には才能があった。霞はその優しさを力に代えその声を世界にとどろかせることのできる資質を持って生まれていた。しかしそれは無理なレッスンによって奪われていた。

 そんなことは分かっている。そんなことは分かり切っている。分かり切っているからもうどうだって良い。自分は歌手にはなれない。

 だがしかし、妹を庇護する『お姉ちゃん』にはなれるのではないか?

 もう一度手術を行えば、一時、自分に歌姫の声が宿るかもしれない。それが永遠に続かないことは分かっている。しかしそれを繰り返している内は自分は妹を守れるし、妹が自分の手を離れるまでそれを続けられれば、自分の歌にも何か意味が産まれるかもしれない。妹を守り抜き、その尊厳と自由を守り抜いた誇りを手に入れられるかもしれない。

 分かっている。そんなのは歪んだやり方だ。本当に妹を守りたいのならもっときちんと母親と戦わなければならないはずなのだ。母親からの要求から身を挺して妹を庇うやり方には限度があるのだ。

 それでも。

 それでも霞はそうしようと思った。

 十二歳だった霞にとって母親とはほとんど絶対的な存在でまともな手段では逆らいようがなく、同時に三つ年下の妹はどんな手段を使ってでも庇護する姿勢を見せ続けなければならない存在なのであり、その求めには応えなければならなかった。

 ならば自分はこうするしかない。手術を受けるのだ。手術を受けなければならないのだ。

 今、目の前で怯えて、泣きじゃくる妹を一時安心させることができるのであれば、それでどうなっても構わないと、霞は心底からそう思った。


 #(※)

 

 三度目の手術が行われた。

 霞は人間らしい声を出すことも不可能になっていた。


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