北野霞、妹を救う 2
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「あ、あのぅ……」緑子は小さな声でおずおずと言った。「あの、その……えっと。大丈夫、ですか?」
「何が?」北野朱梨は気だるげに首を傾げる。
「い、いえ。そのぅ……」緑子は顔を伏せる。
「あんたを心配しとんのやこの子は」紫子は妹の肩に手を置いた。「風呂入ってないんやろその様子やと。自慢のパッキンがボロボロやし。どしたん? 家出でもしたんか?」
「だーかーらー。あんたらには関係ないでしょ」
「まったくもって関係ありません」茜はそう言って腕を組んだ。「人は皆自由です。一人で生きて行きたいのであれば好きに一人で生きれば良いのです。私も中学生の頃、放浪の日々を過ごしたことがありました。一か月立つ前に父に見付かって連れ戻されましたが」
「へぇ。そりゃ意外。あっさり連れ戻されてやったんだ、東条あんたが」朱梨は興味のなさそうな表情で、しかし視線は確かに茜の方を見て言った。「なんで帰ることにしたの?」
「父を愛していたからです」
「は? じゃあなんで家出なんかしたの?」
「楽しそうでしたから。特定の巣を持たず、止まり木から止まり木に、自由に飛び回ってみたかったのです」
「それに飽きたってこと?」
「そんなところです。……と、いうより」ふうと、茜は息を吐き出す。「本音を言うと、少し疲れていました」
「はあ?」
「今のあなたのように、垢塗れになりながらひたすら歩き回っていました。お金がかかるからと交通機関も使わずに、山で冬眠中の蛇を捕まえて焼いて食べたりとかしていました。夜は橋の下で眠り、襲い掛かって来る浮浪者を返り討ちにして財布からお金を奪いました。時には年齢を誤魔化して日雇いの仕事もしましたけれど。露出の多い服を来て変なパンフレットを配る仕事は儲かりました」
茜は少しだけ自嘲げな表情を浮かべる。
「手段を択ばなければ自分でも一人で生きていけると思うと誇らしく、充実した気分ではあったのです。それでも……途中からなんだかすっごくクタクタになって来るんですよね。少しの間だけでいいから、ちゃんと柔らかい布団の上で寝る生活に戻りたいとそう感じました。だから、ほんの少し、ほんの少しだけの休憩のつもりで、住み込みの新聞配達の仕事に着いたのです。でもそこからは……父に連れ戻されるまでずっとそこにいました」
「家出ごっこにしちゃ頑張った方じゃね?」
茜はそれには答えなかった。「あなたはどのくらい頑張るつもりで?」
「……文江のところで泊めてもらいながら、アパート借りるお金稼ぐつもりだった」朱梨は言う。「バイトは受かったけれどすぐクビになった。愛想が悪いって。同時期に、文江に出て行って欲しいって言われた。親が迷惑してんだと。お礼言って出て来て、漫画喫茶に泊まってたら小金なくなって、しゃーなしここに居着いて、もう四日目」
「体壊すで」と紫子。「なんであんたは家出やしたん?」
「…………親が進路押し付けて来るんだよ」
「どんな進路?」
「音大」
「オンダイ?」
「音楽の大学だね」と緑子。「歌とか楽器の勉強をするんだよ。曲を作ったりとか……」
「歌謡の学部もある」と朱梨。「わたしが行かされるのはそこ」
「歌手になれと。それはまたあなたには似合いませんね」と面白がるように茜。「出て来て正解です。あなたには向いていませんよ」
「向いとる向いてないはこの際えぇとして、別に家出まですることはなかったんちゃうん?」と紫子。「いやまああんたなりにほかに選択肢がなかったんやっちゅうことは分かる。親と話し合うんがホンマなんやろうけど、それが決裂したけん飛び出して来たんやろうないうんは重々承知なんよ。そんでもな、家出て来るにしたって、時期っちゅうもんはあるとウチは思うんやで」
「時期?」
「ウチとこの子は昔児童養護施設におったねんけども」紫子は妹の頭を撫でる。「まああんま良い扱いは受けとらんでな。どーしても我慢できんようになって、ウチが妹の手を引いて施設を飛び出したことがあったねん。まあ脱走や」
「わたしがお姉ちゃんに頼んだんだよ。もうこんなところ耐えられないって」と緑子。「わたし、弱虫だから。たくさんいじめられて、嫌になって。だから、連れて出て行ってってお願いした」
「一日二日は楽しかった。二人きりで寝るのも久しぶりだったから、例え公園の滑り台の中でも、幸せやったわ。一瞬だけ、二人きり自由になれた気がしたわ」遠い目をする紫子。「ただ三日目に緑子が熱出してな」
二日目に雨に降られたのが良くなかった。がたがた震えだす緑子を抱きしめながら二日目の夜を過ごしたものの、朝起きた頃には触れているのもつらいくらいに発熱していた。
「あんまり熱いし、苦しそうやし、このままやと死ぬんちゃうかな思うて。せめて薬でも飲ましてやろうと思うて。でもお金とかそん時はほとんど残っとらんかったから万引きしようとしたら、出入り口で店の防犯システムがビービー鳴りだしてな」
「まあそうなるよね」
「一番高くて良さそうな薬を盗んだんやけど、他の安い薬と違ってタグが付いとったんやな。慌てて全力で走って逃げたんやけど、店員は追って来んかった。冷や汗かいて、死に物狂いでとにかく緑子のところへ走って戻りよったら……なんか涙出て来たんよな」
「…………ふーん」
「こんなん続く訳ないわ思うて。このままやとウチは緑子を死なせてしまう思うて。ウチはそのままその薬を持って薬屋にもんて……施設に電話してもらった」紫子は息を吐き出す。「あの時程、自分をみじめに感じたことはない。死にたいとか、消えてしまいたいとか、そういうことを本気で思うたわ」
「…………」
「そっから我慢して我慢して中学出るまで待って、ちょっと施設でバイトさしてもらって、お金も借りて、緑子と一緒に施設を出られた。正式に施設を出て自立するのであれば、養護施設出身者は国からしばらく補助金を貰えたりするんよ。ウチらは二人だけで自由に生きられるようになった。夢を適えたんや」妹の肩を抱く紫子。「ウチらにとって中一のあの時は、『時期』やなかった。あんたにとっての今この時も多分そうなんやと思う。それだけのことなんやと思う。せやから、もう無理はせられん? したってしゃあないもん。家に帰って、もうしばらく我慢するんや。いずれ時期が来るよ。明けない夜はないんやけん。せやから今は帰り? 帰るべきなんやで、いずれ自由になるために」
「…………なんであんたがわたしにそんな親身な訳?」
「緑子が心配しとる。この子は弱っとる人間をほっとかん」
「ほーん」朱梨はそう言って眉を顰め、そっぽを向いた。「しばらく我慢ってか? あんな酷い親の元で?」
「いったいどんな親なん?」
「あんたら、わたしのお姉ちゃんのことは知ってるんでしょ?」
「『お姉ちゃん』?」紫子は目を丸くして、少し考える。「ああ北野さんのこと?」
「わたしも北野だけれど、まあそうね。北野霞」
「カスミ……あの人そんな名前なんか。えぇ名前やな」
「一文字で『霞』だよ」
「ウチ漢字分からへん」
「あっそ。……なんであの人が人前で口効かないか、知ってる?」
「自分の声が嫌いやいよったな」
「本っ当に嫌な声なんだよ、お姉ちゃん」朱梨は言った。「昔は本当に……誰にも負けないような綺麗な声をしていたのに。今じゃあ見る影もない。聞いてるだけで、イライラして背筋が冷たくなってくるみたいな、そんな本っ当に嫌な……」
「自分の……自分のお姉ちゃんのことっ。そんな風に言っちゃダメだよ」顔を赤くした緑子が、拳を握りしめて言う。
朱梨は溜息を吐く。「汚い声は汚い声だ。あんたはきっと聞いたこともない。聞けばそんな風には言えない」
「どんな声かは知らん。そんなんは些細なことや」紫子は言う。「どんな声をしとったとしてもそんなんは些細なことや。ウチらが大切な友達を好きな気持ちは何も揺らいだりせぇへん」
「何も知らない癖に」
「あの人がどれだけ素晴らしいのかをウチは知っとる」
「そうだね。お姉ちゃんは悪い人間じゃない」朱梨は目を伏せる。「でもあの声はダメだ。あの声だけは。どんなに良い人でも、あんなバケモノみたいな声にさせられちゃあおしまいだよ」
「もう言うなや! あんたみたいな奴でもあの人にとっては妹や。そんな風に言われて苦しくないはずがないんや。あんたがあの人の声をどんなふうに思うとるんか知らんけど、そんな悪し様に言う必要がどこにある! っていうか……」紫子は朱梨に詰め寄った。「バケモノみたいな声に『させられた』? どういうことなん、それ?」
声は生まれつきだと聞いていた。それが故に迫害され続け、深いコンプレックスを抱えることになったのだと。
「ほぅら、何も知らない」朱梨は肩を竦める。
「妹で家族のあんたとはそら付き合いが違う」
紫子は肩を竦める。つまり北野霞は自分に嘘を吐いていたことになる。もちろん、自分の抱える事情や過去について真実と異なる説明をすることは誰だってすることだ。それは構わない。
だが嘘を吐いてまであの女性が自分に語らなかった真実とは、いったい何なのだろうか? あの喋らない女性があのアパートに身を寄せるまでに、いったい何があったというのだろう?
「わたしはああはなりたくない。何を犠牲にしてでも、あの人のようになるつもりはない。だから逃げた。家を出た。もう戻るつもりはない」
「……何があったん? あの人に」
「聞きたい?」
朱梨はくすんだ瞳で紫子を見詰める。
「聞きたい」紫子は応える。
「いいよ。教えてあげる」朱梨は言う。「あの人は……お姉ちゃんは三度、喉の手術をしている」
「喉を治そうとしたんか?」
「喉を治そうとした。……歌手になる為に」
「は?」
「あの人の……わたし達の母親は歌謡教室で歌を教えている。わたし達はそこに通っていた。長女であるお姉ちゃんは……産まれた時から歌手になることが決まっていた」
「良くある話ですね」と茜。「お姉さんには才能があったのですか?」
「『あった』。でも無理をしすぎたから、喉を使い過ぎたから、ちょっとずつ無くなって行って。無くなったものを取り戻そうとした母親が無理な手術を繰り返させて……、そして……、今のみじめな声にさせられた」
紫子は息を呑みこむ。
「歌手になれなくなったお姉ちゃんに家に居場所はなかった。だから出て行った。母親は懲りたと思っていた。夢を押し付けて、娘を良いようにいじくりまわして、娘を壊して、だから懲りたと思っていた。お姉ちゃんの犠牲でわたしは同じことをされずに済むと思っていた。なのに、なのに……」
朱梨の声に嗚咽が混じり始める。
「わたしはああはならない。お姉ちゃんのようにはならない。なりたくない。だから逃げる。わたしは逃げる。逃げるんだ……」
雨が強まっていた。