北野霞、妹を救う 1
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雨が降っていた。
ぼんやりと明るくなり始めた朝の街だ。自身の運転する車の走行音に、雨粒の音が混じる。なのにどうしてか、世界がとても静かであるように感じられた。
勤めを終え、自宅を目指していた北野霞は、アパートの傍のフェンスに寄りかかる白髪の少女の姿を認めた。
妹だ。
思わず、車を停める。北野朱梨は不良少女であるのでこんな時間帯に外にいることはさしておかしなことではない。しかし気になったのは雨の中で傘も持たず、かと言って雨宿りできる場所を探すでもなく、濡れそぼりながらぼんやりとただ立ち尽くしていたことだ。
ワイパーを使っても視界が完全にはならない程度に、雨の勢いは強かった。雨粒は大きく、強く降り注ぎ、冷たいとか濡れる以上に痛みすら感じているだろう。虚ろな視線を虚空に注ぐ妹に、車を降りた霞は傘を差しだした。
「なに?」
朱梨はそう言って霞の方に視線を向けた。
「家帰るとこー? こんな朝早くまで、大変だね売女って奴は。でも良かったじゃん。あんたみたいなガリガリでも抱いてくれる変態がいるんだから」
『のって』
あらかじめ用意していたノートの文字を指し示す。
「あ?」
『いえまでおくる』
「いいよ。家帰るつもりとかないし」
『どこにいくの?』
「特にないけど」
朱梨はそう言って差し出された傘から出る。
「じゃあね」
そう言って立ち去ろうとするずぶ濡れの妹に、霞は長い腕を伸ばす。肩を掴んで引き寄せると、雨で化粧の落ちた頬を指先で撫でた。
水に濡れた頬をこすると白い垢が浮いた。触れた髪の毛は酷く傷んでいて、雨水に混ざって皮膚の油が絡んでいる。切れ長の瞳はいつも以上に光を失って感じられた。
「なあに?」
じっと妹の目を見詰める霞に、朱梨はそう言って攻撃的な視線を向ける。
「ダイジョウブナノ?」
「その声で喋んな!」
朱梨は叫んだ。
「ソレドコロジャナイデショウ?」
「うっさい黙れ!」朱梨は霞の肩を突いて自分から突き放す。「放っておいてお姉ちゃん。あんたはあの家を自分で逃げ出した。何をしてようがどんな暮らしだろうが、あんたはあの家を自分の力で逃げ出したんだ。だったらそれであんたは良いじゃない。わたしに構うこたないよ」
「ナニカアッタノ?」霞は朱梨に歩み寄る。
「だから喋るなって」
「チカラニナルワ」霞は朱梨の肩に触れる。
「しつこいんだよ!」朱梨は姉を振り払った。「なに味方面してんの。わたしがあんたに何したか覚えてない?」
「ナニモイヤナコトハサレテイナイワ」
朱梨は肩を竦める。「心にもないこと言わないで。サムいから。もうあんたのその声聞きたくないから、行くね」
そう言ってとっとと歩き去って行こうとする朱梨のことを、霞は追いかけようとして、やめた。そしてポケットから携帯電話を取り出すと、電話帳を呼び出してもう数年間呼び出していない番号をじっと見つめた。
『母親』
首を振り、一つ下の番号を呼び出す。眠そうな声が出た。
「なぁに霞ちゃん? つか霞ちゃんから電話かけて来るのって初めてじゃね?」
小柳文江だった。年下の友人のその声に、霞は無言で答える。
二人の間にしばらくの沈黙が下りて、文江は小さく溜息を吐いた後、話し始める。
「電話しといて喋んないってどうなんよ?」
「…………」
「あーごめんごめん。霞ちゃんはしゃーないね。でもメールとかじゃダメなんだ?」
「…………」
「でもさー。実際さぁ。用件とか分からんし? 何聞きたいのかとかさぁ」
「…………」
「……もしかして、朱梨のこと?」
肯定を示す意味で携帯電話を二回叩いた。
「は? なにコンコンって。イエスってこと?」
肯定を示す意味で携帯電話を二回叩いた。
「イエスでいいんだね? 朱梨だったら、うん、そうだね。今家出中」
「…………」
「しばらくウチで泊めてたけど限界来てさ。母親からいい加減追い出せって言われちゃった。朱梨は他にアテがあるっつってたけど、まああの子あんま友達多い訳じゃないしさ。ちょっと心配はしてる。学校も来てないし」
「…………」
「霞ちゃんのとこ来たりしてね?」
「…………」
「霞ちゃん?」
「…………」
「一回電話やめてメールでやり取りする? それかそっち行こうか? なんかあったんでしょう?」
優しい声音の年下の友人に、霞は泣きたいくらいの気持ちで言った。
「アカリガイタワ」
「……は?」
「アメニヌレテイタ。オフロトカニモハイッテナイミタイダッタ」
「ちょっと霞ちゃんそれどういうこと……? 宿に困ってそうってこと」
霞は携帯電話を二回叩く。
「……ん。分かった。連絡しとく」
霞は携帯電話を二回叩く。
「ありがとうね知らせてくれて。それじゃあまた連絡……」
「フミエチャン」
「うん?」
「アタシノコエ、ドウオモウ?」
「変じゃないよ」
「ウソ」
「あたしは知ってるから。霞ちゃんがどうしてその声になったのか」文江は言う。「だから何も変に思わないし笑ったりしない。いつもその声で喋ってくれていいんだよ」
「…………」
「じゃあね霞ちゃん」
電話が切られた。
鳴りやまぬ心臓の上に手を触れてから、妹を引き留められなかったコンクリートの道を、霞は見詰めていた。
〇
「天然のシャワーですよ。紫子ちゃん緑子ちゃん」
東条茜はそう言って水たまりから水たまりに飛び移る。
「しかし『雨』という概念を知っているならともかくとして。上空から液体がひたすら降り注ぐと言う現象は、なかなかに怪奇なものがありますよね。私、小さい頃はこれが不思議で仕方がなかったものです。父が『魔法使いが降らせている』だなんて嘘を吹き込んだのもありますけど」
「ウチらんとこは、空ででっかい蛇の怪物が泣いとるとか吹き込まれたよな。緑子」そう言って紫子は同じ傘に入った妹に視線を向ける。「今にして見れば、龍っちゅう奴なんかな」
「そうだと思うよお姉ちゃん」と姉に身を寄せる緑子。ぎゅっと身体を押し付け合っておけば、並のサイズの傘でも二人とも濡れずに済む。
紫子は父親の話を思い出す。「確か……なんやっけ?空飛ぶ大きな蛇さんは一人が寂しくて涙を流すんよ。涙を流しながら友達になってくれる人を探して街を見詰めるんよ。そしたら余計に涙が流れ落ちるもんやけん、人はみんな家に帰ってしまったり、傘を差して蛇さんから隠れてしまったりするんやな。そしたら蛇さんには誰の姿も見えんようになる。それが悲しくて、余計に泣くんや」
「わたし達だけは友達になってあげようって、一緒に傘を持たずに出かけてママに怒られたりした」
「それ覚えてます」と茜。「わたしが小4の時でしたっけ。どっちの親のいうことが正しいか言い合いになった記憶がありますよ」
「二人がかりでも茜ちゃんに口で勝てんかったけど」紫子は苦笑する。
「パパってそういうおとぎ話みたいなの良くしてくれたよね。競馬とか勝ったら絵本買って来てくれたし」と緑子。
「せやなあ。まあそのパパもウチらが小4なってすぐくらいに蒸発したねんけどなHAHAHA!」
「あ、あはは…………」
「HAHAHAHA父親などなくともあなた方は立派に生きています。安心してください」茜はそう言ってけらけら笑う。「さて、目的地はもうすぐです」
『近所に良い感じの廃墟を見付けたので一緒に遊びに行きませんか』と茜から唐突に連絡があった。妹の顔色を窺ったところ『そういうところで雨の音聞くのも良いよね』などと乗り気だったため、姉妹は付いて行くことにした。
十六歳になってする遊びが廃墟探検というのも思うところがあるが、しかしならば十六歳に相応しい遊びが何でそれが面白いのかどうか紫子には良く分からなかった。分からないならば今思いつく遊びを大切な仲間としていれば良いのであり、よって紫子はそれなりにわくわくした気持ちで目的地へと歩いていた。雨の中危ないので自転車はお留守番である。
「ここです」
茜が指差したのは最近潰れたというスーパーマーケットであった。姉妹がこの街にやって来た時既に潰れていたのだが、『工事の人』がなんだかうようよしていたので近づくことはなかった。しかし最近ではそう言った人達からもほったかされているようで、探検遊びの対象として茜が目を付けたのだった。
「早く入ろうよお姉ちゃん」と緑子。「ちょっと寒いし」
「もう十二月近いもんなぁ」と紫子。「雨降っとるし。今日六度とかやろ気温。中はちょっとぬくいんかな?」
「雨露をしのげるだけマシです」と圧し折れた傘を肩に抱えた茜。ずぶ濡れになっている。
「あんたに傘を提供する為にウチらは相合傘やねんけどな」と紫子。「『たかが水滴如きからいちいち身を守るのも軟弱です』とかほざいて振り回した挙句叩き壊しやがって。男子小学生かい。まあ傘一本の方が緑子と歩調合せやすいしええねんけど」
「謝罪と弁償は行いました」胸を張る茜だった。ようするに緑子の歩みに合わせている間が暇で武器にして遊んでいたのだが。
裏口から入れることは茜が事前にリサーチしていた。
中は窓から漏れる明かりで薄明るい。壊れた傘を振り回して『水滴攻撃』と称する茜の頭をしばいて黙らせる。本当に男子小学生並だ。たまにハプニングを齎してくれるのは面白くて良いと姉妹はある程度受け入れているのだが。
「不良の溜まり場とかなってへんかな?」と紫子。
「だとしたら危ないよねお姉ちゃん」と緑子。
「私がいるのでご安心ください」と茜。「ヤクザが麻薬の取引をしていても私にかかれば余裕で切り抜けられます」
などと言い合っていた時だった。
人の気配を感じた。ぱたぱたという足音だ。緑子が紫子の身体に抱き着く。
「先駆者がいるのかもしれません」茜は冷静に言う。「挨拶をしておきましょう」
茜を先頭に足音のした方へ向かう。従業員用の休憩室にあたるところで、撤去されていない机の一つに腰かける白い頭をした少女の姿があった。
「……北野朱梨?」紫子は眉を顰める。
全身ずぶ濡れで壁に寄りかかり、スマートホンから延びるイヤホンを耳に突っ込んだ少女は、三人に気付いたかのように小さく目を開けた。
「あんたらも雨宿りー?」間延びした声。「静かにしててよ?」
あちこちに跳ねたまま固まった髪の毛。ずぶ濡れのまま皺塗れになった服。ほのかに感じる垢の臭い。どんよりとした暗い瞳。
「……あんた」紫子は言った。「いけるんか?」
見たことがある。これは一定期間まともなところで寝起きしていない人間の様子だ。施設を脱走した子供などがこんな様子で帰って来るのだ。
「あんたには関係ない、的な?」北野朱梨はそう言って目を閉じた。