姉妹、旅行を断る 3
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「ねえお姉ちゃん。これ着させて」
その日の朝緑子はちょっとわがままを言ってみた。姉がバイト先で着用している制服を着てみたいと申し出たのだ。
「ええでええで。そんなんわざわざ訊くなや」紫子の答えはこうだった。「着たいんやったら着りゃええねん。似合うと思うで」
姉は自分の持ち物と緑子の持ち物の区別をしない。というより、基本的に姉妹は自分だけの財産というものを持ちたがらない。持ち物や金銭はもちろんのこと、食事を入れるお皿も白いご飯以外は一つずつだ。『同じ縄張りに生きる獣が縄張りの中にさらに縄張りを作るなんてばからしい』というのが紫子の理論。緑子の理論は『この家にあるものは全部お姉ちゃんのもので、わたしはそれを別けてもらっている』というものだ。
「家にあるもんは全部おまえのもんなんや。ウチもちょっとは使うけど基本共有財産やな」
「でもこれだけはお姉ちゃんだけの物って感じがするじゃない? お姉ちゃんが職場で使うものでわたしは着ないんだから」
緑子は姉の制服に顔をうずめる。洗濯機で洗ってあるので姉の体臭なんかを感じる訳ではないが、それでも好きな人の持ち物というのは何か素敵なものが乗り移って感じる。
「でもなんかもったいない感じがしてきた。この家の物の中で唯一純粋に『お姉ちゃん』なのがこれなのに、そこにわたしが混ざっちゃうんだもの」
「……言いたいこと分からんでもないけど、なあ緑子? 人の持ち物に執着やせんでも本物がここにおるねんで?」苦笑がちに自分を指さす紫子。「匂いくらい嗅いだって怒らんよ」
「お姉ちゃんがバイト行ってる時とか、何着かある制服から一枚取って匂いとか嗅いだら落ち着くの」
「……そこだけ聞いたらなんか倒錯的やなぁ」
「だから着るのちょっとだけにしとこ」
袖を通してみる。これを着て姉が働いているのだと思うとなんだか気持ちがピリリとした。それは自分には絶対にできないことだからだ。
「わあすごい」緑子は自分の着ている服を見詰めながらクルクル回った。「すごいすごい。わたしお仕事の服着てる」
「似合っとるで緑子」紫子は手を叩く。「せっかくやし今日はそれ着てちょっと散歩するか?」
「え? でも汚しちゃったりしたら……」
「ただでさえバイトで既に汚れとる。代えもある」紫子は笑う。「気にいっとんのやろ?」
「うん!」
ってな訳で近所のディスカウントストアの制服を来た緑子は姉と一緒に家を出た。
「でもお姉ちゃん良かったの?」
「何がや?」
「こういう制服って確か職場以外で着てたら良くないんじゃ……」緑子は姉が使っている仕事のメモ帳の内容を思い出しながら言う。
「ウチはあかんけどおまえはいけるで?」
「え? どういうこと」
「『従業員が』職場以外で制服を着用してはいけません……って禁止事項には描かれとるんや。おまえはあの店のバイトとちゃうやんけ」
「お、お姉ちゃん?」
紫子はたまにこういうことを真顔で言う。屁理屈を言っているつもりなのではなく本気でそれで構わないと思っているのだ。
「なんでウチは着たあかんのやろなそれにしても。まああかん言われたことは無暗にせぇへんけどもやな。ほんでも謎やわー。制服来た奴に外うろつかれたらサボっとるように見えるとか、そんな妙なこと心配しとんのやったら従業員以外に着せるんもあかんはずやのに……」
「ねえお姉ちゃん。多分わたしが着るのも良くはないと思うよ」
「え? でも禁止事項店長が読み上げたんひらがなでメモにし直したけど、そんなことは描かれてないで?」
「そうだけど、でも全部が全部描いてあるとは限らないし」
「うーん……おまえが言うならそうなんかな? まあ禁止事項描いた奴も人間なんやけん、ちょっとくらい書き漏らしがあるんもしゃーないか」
「うん、そうだねお姉ちゃん」
この人の勤務態度がおろそかだとは思わない。禁止事項の文言を一字一句暗記してそらんじて見せるだなんて、公平に言って熱心なアルバイトである。紫子にとっての労働とは同じ歳くらいの女子高生たちとは全く意味が異なる。今日明日の生活がかかっている為常にシリアスにアルバイトに取り組んでいる。ただ自分自身と妹のことしか視野にない所為か、生真面目さのベクトルがずれていることだけが不幸なのだ。
「まあでもおまえが気に入っとるもんを取り上げる気はない。もしばれたらウチが怒られるで」
「いいの?」
「ええでええで」
なんだか嬉しかった。
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姉妹はいつものお散歩コースを歩く。途中、カラオケボックスを目指す女子高生の集団と横断歩道ですれ違った。
彼女らはきゃあきゃあと楽しそうに笑いお互いの肩を抱きながら、我が物顔で横断歩道のど真ん中を占拠している。緑子はなんだか威圧的なものを感じて姉の腕に巻き付いた。大きな声で姦しくされると緑子は怯える。集団で迫りくる同年代の人間というものに、いじめられっ子特有のトラウマがあるのだ。紫子は妹を抱いて嵐から守るように女子高生たちに背を向けた。
「あれ西浦?」
女子高生共の一人が紫子を指さした。
「なんや?」紫子は鋭くした視線をそちらに向ける。「シンゴー赤ぁなるで。早う渡れや」
アルバイト先の人とかだろうか? 共通の知人ではない相手ということはそれしか考えられない。紫子は緑子を受け入れる人間でない限り不必要に人とつながらない。
「そっちこそ何やってんのそれ?」
「あんたらが渡るん待っとるんや」緑子を抱きしめてかばいながら言う。「はよ渡って?」
「感じわるぅ」女子高生は鼻を鳴らす。「そいつ誰?」
「そいつ?」紫子は不愉快極まりないとばかりの表情をした。
「あんたと一緒にいるそいつ」
自分の存在に注目されて緑子はきゃうんとなって姉に縋りつく。紫子はほとんどとびかかる寸前の獣みたいな声音で女子高生に言った。
「妹」
「顔似てるもんね」くすくすと女は笑う。「カラオケ行くとこ。あんたも来る? 妹ってんなら連れて来ても良いよ」
「………………いい」
緑子には分かる。この『いい』の中には『何のつもりだ?』『ふざけているのか?』といった言葉が飲み込まれている。その証拠にその表情は警戒心と嫌悪が色濃く表れていた。あまり折り合いの良い相手ではないのかもしれない。相手は気まぐれに歩み寄っているが、紫子は妹を抱きしめて頑ななのだ。
「……あっそ」紫子が飲み込んだ感情の何割かを察した様子の女はそう言ってため息を吐く。「あーあ。ねえ西浦、あんたさ何なのその態度。生意気だし不愛想だし。ずっとそんなんじゃあ職場でイジメられるよ?」
「さっさぁ行けや」紫子は苛立った表情で点滅し始めた青信号を指さした。「危ないやろうがっ」
「何そいつー」女子高生たちの中からそんな声があがった。「ヤな奴ぅ」
「バイト先の変な奴。せっかく誘ってやったのにさ」女はへらへら言いながら立ち去っていく。「いいじゃんもう誘わないし。一生そのどんくさそうな妹と遊んでれば?」
「ああっ?」紫子はあからさまに憤慨して顔を真っ赤にした。「妹バカにしたな? あんたこの子の何を知っとるねん?」
「は? そいつがグズなことくらい見たら分かるんですけど」
「この子はグズやないっ!」紫子の目は据わっていた。「あんたみたいなボケカスは車に轢かれて死ね!」
信号は完全に赤になっていた。あまりの剣幕に動揺している女をにらみつけた後、紫子は緑子の腰に手をやって抱え上げ、横断歩道から立ち去って行った。
「て……て、てめぇ! 待てっ! 待てって!」
女は追いすがって来る。走り始めた自動車がクラクションを鳴らす。「こっち来なよヨシコ」という仲間の制止も聞かず、紫子のところへたどり着いた。
「なんや?」紫子は緑子のことを優しくその場に降ろし、テキトウな段差に座らせる。「ウチのことが気に入らんのか? そしたらウチのことだけどつけや。そんくらいの度胸はあるんやろ?」
女は紫子の胸倉をつかんだ。紫子は意にも介さない表情で睨み返す。
「あんたこの子の何を知っとるんや。何も知らんとただウチムカつかす為だけにこの子バカにしたんやろ? ざけんなこら何様やっちゅうねん。てめぇみたいな奴は死ねばええんや」
「ああ? てめぇが死ねよチビ」
「殺してみぃボケコラ」
「言ってんだろ? そいつがグズなことくらい表情見りゃわかんだよ」
「また言うたなぁっ!」
紫子は女の髪の毛を引っ張り、自動車を行きかう道路に放り投げた。紫子の腕力は大したことないはずなのが、その剣幕に冷静さを失った女は足を縺れさせて道路の方へ転んでしまう。その身体を跳ねるかどうかという距離を自動車が通過した。クラクションの音。
「きゃああっ」
女は慌てた様子で歩道へと戻って来る。混乱した女の腹部を紫子は全力を込めた靴底で蹴り飛ばした。
「死ねっ! 車に轢かれて死ねっ!」
女はその場で尻餅を着く。幸いにもそこはまだ歩道の範囲内だった。女は紫子の剣幕に怯えた表情を向ける。本当に自分を殺そうとしている相手というのを、女はおそらく人生で初めて目にしたであろう。
「緑子に謝れやぁ!」紫子は女を道路に蹴り出し殺害する為の脚を高くあげた。
女はようやく自分が喧嘩を売った相手の正体に気が付いた。紫子は真実に自分のことを道路に蹴り飛ばして轢死させようとしているのだ。脅しでも虚勢でもなく心底からの殺意でこのような行動を取っているのだ。その事実を紫子の全身の殺気が表現している。女は涙を流しながら四つん這いでもがき必死の形相で逃げ惑う。
「待てやこらぁ」
紫子は額に血管を浮き上がらせながら、逃げる女にとびかかろうとした。
「やめてお姉ちゃん!」
そこで緑子が背後から紫子に抱き着く。興奮しきった様子の紫子は、しかし自分に組み付いて来たのが誰なのかをすぐに察したようだ。息を切らしながらこちらに振り向く。優しい姉の顔があった。
「や、やめてよお姉ちゃん。お姉ちゃんがその人殺しちゃったらわたし一人ぼっちだよ。うぅ……うぇええん」
紫子は息を整え、足を縺れさせながら立ち上がって逃げ去っていく女に視線をやる。標的がいなくなったことと緑子の涙を見たことで冷静さを取り戻した紫子は、その場に跪いて紫子の肩を両手で抱いた。
「……ご、ごめんよー」深い自省がそこにはあった。「お姉ちゃんが悪かったよー。もうせんけん泣かんとってよー。許してよー。ごめんよぉ……」
その弱り切った表情は、七歳の頃ささいな諍いで妹の自分を泣かせてしまった時と変わらない。紫子は状況問わず自分の所為で妹が泣けば心底からの罪悪感を漲らせて謝るのだ。ほとんど取り乱したような表情を浮かべるのだ。ゲームに負けたとかちょっと悪口言われたとか些細なことですぐに泣く子供だった緑子の涙に、紫子だけは何度でも真剣に取り合ってくれた。皆が辟易する中で、一番近くにいて一番緑子の泣き虫に手を焼いていたはずの紫子だけが、緑子を緑子自身の涙から救い続けてくれたのだ。
「うん、うん……」緑子はそう言って顔を上げる。「ごめんお姉ちゃん。また泣いちゃった」
「ウ、ウチが悪いよ」紫子は唇をあわあわとさせる。弱り切っている様子だった。「緑子に泣かれたらいけんよー。ごめんよー。おまえ怖い思いしたんやなーごめんなごめんな」
それから二人で手を繋ぎ合って歩き出す。その場でただ泣いているのではなくとにかく時間を進めてしまうのが、何であれつらいことを過去にしてしまう一番の方法なのだ。姉妹はそれを知っている。一緒に前を向くのだ。
「ありがとうねお姉ちゃん。わたしの為に怒ってくれたんでしょう?」落ち着いた緑子は何より先にそれを言った。これだけは絶対に何を置いても伝えなければならない。
「うん。おまえバカにされたらウチは怒るよ」紫子は言った。「せやから喧嘩んなったんもしゃーないし、その結果アイツが死んでもうてもしゃーない。おまえ泣かしてもうたんはあかんけども……でも……うーん。……うん! 全部アイツが悪いな!」
紫子は自分の信念と理論に基づいてそのような結論を出した。
「さっきの人って誰なの?」
「バイト先の同僚。同い歳の高校一年」紫子はそう言って息を吐きだし、頭に手をやる。「やっぱウチジョシコーセーって人種のことだけはどうにもきついわ。見よったらどうしてもつらぁなるねん」
「そ、そうなんだ」
「うん。おまえと手ぇ繋いでガッコー行って授業受けて一緒に帰ってってしよう自分のこと、たまに考えてまうねんけど、すっごいキツいんよそれが。それってできんことやけんな。ウチおまえと違うてアホやけん、高校や通えんもん」
そう言って寂寥を表情に込める紫子。その姿に胸を締め付けられた緑子は、姉を元気付けるためにこんなことを言った。
「わたしはどこでだってお姉ちゃんの傍にいるよ。学校なんか行かなくてもわたしは一緒だよ」
「おまえはウチのいうて欲しいこと知っとるなぁ」紫子はそう言って緑子の頭を撫でる。「ありがとう」
「うん。でもねお姉ちゃん、本当はお姉ちゃんがわたしの傍にいてくれてるんだよ。お姉ちゃんはわたしがいなかったら高校なんて良いところにいくらでも行けたんだよ」
「ほへ?」
「わたしがお姉ちゃんなしで高校なんか通える訳がないの。というか生きていける訳がないの」緑子は言う。「でもお姉ちゃんはわたしがいなかったらもっとふつうの女の子だった。さっきの人達みたいにふつうに生きて行けた」
「…………そんでもウチはおまえのお姉ちゃんが良いな」
そう言われて緑子は嬉しくなった。言って欲しいことを知っているというのなら、それは紫子だってそうなのだ。相手が自分に求めている気持ちが何なのか知っていて、しかもその通りの気持ちが自然にいくらでも湧いてくる。こういうのって本当にすごいことじゃないだろうか。




