姉妹、旅行を断る 1
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毎朝の姉の朝食とお弁当を作ることは緑子に課せられた重大な使命である。
食事とは人間の生きる喜びの多くを占める。これを司るということの責任の重みは緑子はきちん理解していて、よって緑子は朝の五時には布団から出て台所に立ち最高の食事を姉の為に提供する為に努力を惜しまなかった。
「おまえの飯ってちょっとおかしいくらい美味いよな」
紫子は朝からもりもり食事を取りながら、などと言って緑子を称賛した。
「ほら前にちょっと評判のレストランやいうて、たっかい金払って外食したことあったやん? 二人で三千円とか払っといてこんなこと言うんも悔しいけんあの時は言わんかったけど、ぶっちゃけあっこより緑子の飯のが美味いねん。どうなっとるんやろ」
「そこまで言われると嬉しいなあ」緑子は頬に手を当てる。
姉は緑子を励ます為のお世辞は言うからどこまで本気かは分からないけれど、一定の評価を自分の料理に与えていることは間違いなさそうで、緑子としてはこれが非情に嬉しい。
「……いやホンマ。どうなっとるんやろ」紫子は心底から悩まし気な表情を浮かべる。「おまえ料理の勉強とかしたことがある訳でもないもんな? 作るんも割と普通のモンやし……だのにプロの料理より明らかに美味い。ホンマに天才なんか?」
「お姉ちゃん、本気で不思議がってるの?」
「ちょっと異様やで緑子の料理上手は」
「わたしの腕前自体は割と平凡なんだけれど」緑子は自己分析した。「お姉ちゃんの好みは知ってるから。そういうことだと思う」
「ほうか?」
「うん。小さい頃から何か食べる時はだいたい一緒だったでしょ? わたし以上にそれ知ってる人っていないよ。だからわたしが一番上手にお姉ちゃんのごはん作れるの。そういうことなの。えへへ」
「……なーへそ。ちょっと納得した気がする」
おいしさなんてものは個人の趣味に大きく左右される分野であり、技術的に優れている者が必ずしも評価される訳ではないのである。辛いのが好きと言いつつ辛すぎると食べられないとか砂糖は割といくら入れても大丈夫だとか、姉の味覚について正確無比な知識を持っているのは世界中に緑子だけだ。だから緑子は紫子専用のシェフになれる。
「まあなんにせよ。緑子はウチの宝や。これからもおいしいご飯を頼むでぇ」
「うん! お姉ちゃん!」
緑子は幸せいっぱいではにかんだ。
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「あれ。お姉ちゃん、お弁当忘れて行ってる」
紫子がバイトに出かけて三時間と二十七分。緑子は台所に置きっぱなしの弁当箱に気が付いた。
「というか……わたしが渡し忘れちゃったんだ」
緑子はそう言って弁当箱を抱える。毎朝姉が出かける支度をして渡すのは緑子の仕事である。緑子はそうした世話を焼くことが好きだしそれが存在意義だと思っている。
だがしかしならばこそミスは望ましくない。増して自分なんかの料理をあれだけ好んでくれている人を空腹にさせてしまうなど言語道断である。一人で外に出るのは恐ろしいが……緑子は決意して姉にお弁当を届けに行くことにして鞄にお弁当を入れた。
電話がかかって来た。
自分にかけて来るのは姉だけだ。姉じゃなければ悪魔だ。今回は姉だったので大丈夫。電話に出た。
「おう緑子」
「あ、お姉ちゃん。どうしたの?」
「ウチ弁当忘れとるやろ?」
「うん。ごめんね。わたしが渡し忘れたの。持ってくね」
「……それや。それが問題」紫子が電話の向こうで苦笑する。「おもっきしバイトの途中やったけど、緑子のこっちゃけん無理して自分で持って来ようとするんちゃうかなって怖ぁなって。電話さしてもろたんや」
「わたしのミスなんだからわたしが持って行くよ。待ってて、待ってて」
「……ケガするわ。やめとくんやで? ええな」紫子は優しい口調ながら強く言った。「たかだがウチの昼飯が如き為に、緑子が一時間かけてウチのバイト先まで歩いてくるなんて望まへんよ。気持ちは嬉しいけど、でも一人で外出るん危険やん」
「そうだけど……でも。でも」
「弁当はもんたら食うけん。夕飯のおかずが倍になったと思うたらええんや」紫子は言う。「それかおまえの昼飯にしたらええねん。まあとにかく外出るんはすなよ。お姉ちゃんの言うこと訊いて? な?」
そんな風に懇願されてしまう。緑子はこうなると何も言えなくなる。
「うんわかった。ごめんねお姉ちゃん」
緑子はそう言って目を伏せた。申し訳なさでいっぱいになる。
「……元はと言えば朝の身支度もおまえがかりのウチが悪い。こんなことで落ち込まんといてよ。帰ったら昨日のゲームの続きなぁ」
「うん、お姉ちゃん」
「ほなな」
電話が切られる。緑子は姉のやさしさに救われつつも、やっぱりちょっと落ち込みつつ窓の方を見た。
一人でいるとどうしても気持ちはネガティブな方へと陥って来る。弁当を渡し忘れたミスにより自己評価はどん底に落ち込み罵り声の幻聴が聞こえ、声を張り上げることもできずに頭を抱えてじっとしていた。
『なんて間抜けな奴なんだあれほど世話になっている姉に迷惑をかけるだなんて。恩知らずにも程がある。感謝の気持ちがないからそんなことになるんだ。おまえはあさましい卑怯な奴だ。そんな卑怯な人間は地獄に落ちる地獄に地獄に落ちる落ちる落ちてしまえ』
「多分これ幻聴だ」緑子は自分に言い聞かせた。「大丈夫、大丈夫だから……」
顔面蒼白の嘔吐寸前。姉が帰って来るのを待ち続ける。万事そんな感じの緑子であった。こんな子が一人で往復二時間の道のりを経て姉に弁当を届けるなどということができようはずもなく、姉の判断はいつだって正しいのだった。
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「もんたやでー」
姉が帰って来た時の緑子は、本棚と立てた机で作ったバリケートの中で布団をアタマから被ってぶるぶる震えていた。
「……緑子おまえ何と戦っとるねん」
「ムラヤマ星人が……ムラヤマ星人がこっちを狙ってる……」
「そ、そうか。ほんならそん中にウチも入れてくれや。一緒にムラヤマ星人と戦おう?」
孤独な布団の中に最愛の姉が入って来てくれる。緑子はうんとほっとした。どんなにつらくても怖くても紫子がいれば大丈夫なのだ。
姉の慰めと説得が小一時間続いて緑子は正気になってようやく布団から這い出す。
「ごめんねお姉ちゃん。いつも迷惑かけるね」べそをかきながら緑子。
「何いうとんねん。緑子が一番がんばっとるんやで。おまえは偉いよ。どんだけつらぁてもウチの傍におってウチを想うてくれるんや。緑子を迷惑や思うたことはないし一生涯思わんで」
「ありがとうお姉ちゃん……。うぅうう、お姉ちゃんだけだよ。わたしのこと分かってくれて、見捨てないでいてくれるのは」
えぐえぐ泣きじゃくる緑子の頭を姉はよしよし撫でてくれる。
「一生だよ。一生一緒にいてよ。お姉ちゃん」
「当たり前やで緑子。ウチはおまえがおらな生きてけへんのや。おまえがどれだけウチに対して献身的にしてくれるか。こんな優しくて素晴らしい家族がずっと傍におってくれて、ウチのことを必要としてくれるんは、ホンマに幸福なことなんやで」
「ありがとうお姉ちゃん。ありがとう。ありがとぉお……」
おまえは必要だおまえは素敵だと何度でも何度でも言い聞かせてくれる紫子。ダメ人間の自分に価値を見出してくれるのは姉だけだ。
もっとも、人間的に欠落しているのは紫子も同じであり、妹のサポートなしでは相当に退廃的な暮らしをしてしまう性質だと紫子自身理解していて、ようするに共依存なのだがこんな感じで姉妹は成り立っていた。