二人の距離、二人の恋
こちらの短編は若干突貫工事のようなところがございます。明らかに文章がおかしいと思われる個所があるかもしれないので、もしよろしければ報告していただけると幸いです。報告先はどちらでも構いません。
十月のある日、午後の講義が終わった後の出来事だった。俺、西沢泰地はいつも通り講義を終え、荷物をまとめて家路に着こうとするが、やたらとガタイのいい奴――便宜上“不良”と呼ぼう――が俺の前に立ち塞がった。不良はじっくりと値踏みをするように俺のことを凝視し、「貴様が西沢泰地か?」と低く野太い声で話しかけてきた。突然の出来事に俺は軽くパニックを起こし、思わずコクコクと何度も首肯してしまった。
「ならば俺の後を着いてこい。さもなくば……」
そこから先は口にしなかったが、ゴキゴキと指の関節を鳴らして俺に脅しをかけ、自身は悠々と外へ向かう。不良が去った後、辺りの学生から憐憫の籠った視線を向けられた。一部からは「東京湾に沈められるんじゃね?」などと物騒な物言いが聞こえる。そう思うなら俺と立場を代わってくれと叫びたい衝動に駆られたが、もたもたしているとあの不良に本気で沈められかねないので、周りの視線を無視して外に出る。
校舎の外に出ると真っ黒に塗装された車が一台あり、不良はその運転席に乗り込んでいた。助手席と後部座席、はたしてどちらに乗ればいいのだろうか。考えあぐねていると助手席側の窓が開き、不良が鋭い眼光で睨んでくる。気づくと俺は助手席に乗っていた。車もいつの間にか走っている。恐怖は人の思考を停止させるのか。そんな知りたくないことを身をもって知り、どこに連れて行かれるか分からない恐怖がないまぜになり、今すぐにでも車から飛び降りたくなった。そんな俺の心情も知らず、不良は危なげなく車を操る。
「何をしているか知らんが、着いたぞ」
十数分後、不良はエンジンを切り俺に話しかける。野太い声に変わりはなかったが、その声音はどこか困惑しているようにも感じ取れた。
俺はというと、完全に丸まり頭を抱きかかえるように保護していた。いわゆる耐ショック姿勢というものだ。外界から得られる情報は音以外何もなく、それだけに不良の言葉が恐ろしかった。いくら声音は困っていても、そんなもんは自由に変えられる。むしろそうして陥れようとしているのではないかと疑心暗鬼する。
間もなくして車の外から音が聞こえる。それはドアが開く音に聞こえた。
ついに俺の人生終了のお知らせが届いたんだなーなどとぼんやりしてると、「あいつ……!」切羽詰まった声が聞こえ、不良が慌ただしく降りていく。恐る恐る顔を上げて周りを見渡すと、ちょうど左側で不良が誰かと言い争っている姿が見えた。家の壁に阻まれて誰と話してるのかは分からないが、今こそ逃げるチャンスだと考えて、なるたけ音を立てないように車のドアを開ける。よし、気づかれてないぞ! と思うのも束の間で、降りた瞬間にズボンのポケットから携帯を落としてしまった。不幸なことに地面はコンクリート、乾いた衝突音が耳に刺さった。
不良の方を見てみると、完璧にこちらを睨んでます。絶好のチャンスが最悪なピンチに変わり、全身の筋肉が震え上がった。とりあえず黙ったままだと怖かったので、「す、すみません……」と上ずった声で謝罪する。不良は黙したままこちらへ近づき、何も言わず俺の首――正確にはシャツの襟――を掴み、引きずりながら先程の場所まで戻る。恐怖はまだ残っているけど、ちょっとした好奇心で不良が言い争いをしていた相手を見る。
そこには、一人の女の子がいた。綺麗というよりは可愛い顔立ちに、腰まで届くほど長く漆のように艶やかな黒髪、透き通った白い肌、清楚さを感じさせる服装、そして儚くも可憐な佇まいが、まるで深窓の令嬢のように思わせる。そんな彼女に俺は見惚れた。ただ彼女が綺麗だとしか感じることが出来なかった。
「あの、もしかして泰地くん?」
不意に声が掛けられる。とても綺麗なソプラノで小さいけれどよく通る声が耳に心地よかった。しかし、こんなにも綺麗な人なら間違いなく覚えているはずなのに、逢った記憶は全くない。だから俺は素朴な疑問を投げかけた。
「えと、そうですけど、貴女は誰ですか?」
「え……?」
彼女は俺の対応を全く予想していなかったのか、驚いて目を丸くしていた。そして慌てたような、寂しがってるような顔をした。
「小学校と中学校で一緒だった佐藤楓だよっ。覚えてない……?」
「佐藤楓……って楓ちゃん!?」
楓ちゃんのことはもちろん覚えてる。なんせ当時の俺は彼女に片思いしていたから。ただ、そのころに比べるとすごく綺麗になっていたものだから、楓ちゃんだとは思わなかった。
「良かった、思い出してくれて」
そう言って柔和な笑みを浮かべる。その笑顔は、昔好きだったころの笑顔に重なって見えて、懐かしい気持ちになれた。
「久しぶり、泰地くん」
「ひ、久しぶり」
思わぬ出会いだったけど、楓ちゃんと会えたのはとても嬉しい。こんな機会を与えてくれた不良に感謝しなくては。……不良?
後ろにいるはずであろう不良の方へ振り向くと、やはり鋭く睨んでくる。しかし、その眼には優しさがあり、怖さなど微塵も感じさせなかった。そしてその視線は楓ちゃんの方に向けられて声を掛けた。
「楓よ、いい加減中に入れ。客人たる佐藤泰地をいつまでも立たせておくわけにもいくまいし、お前は体が弱いのだから」
「い、いきなり泰地くんを連れてくるって言った兄さんのせいでしょ!? それに話をしてすぐに行くなんて思わないじゃない!」
再び不良と楓ちゃんの言い争いが始まる。というか楓ちゃんの兄さんだったのか、この人。
「え、大学に行ってない?」
言い争いの後に家に上がらせてもらい、今はリビングで数年ぶりの会話を交わした。最初は何気ない世間話しかしなかったけど、大学生活の話になると楓ちゃんが話ずらそうに視線を逸らした。どうしたのかと聞いてみると、彼女は気まずそうに口を開いた。
「今年の九月に入ってから体調が良くなくて、大学に通えてないの。それに友達も少ないから、ずっと家で一人っきりだし」
兄さんがいるから寂しくないけどねと付け足すが、その表情はやはり寂しそうだ。
楓ちゃんは昔から病弱で、小学校の時も中学校の時も学校に来れない、来れても保健室へ行くことが多かった。とはいえ、ひと月以上も休むことなんてことはなかった。
儚げに微笑み、やや自嘲気味に「早く行きたいなぁ……」と呟いた。そんな姿があまりにも不憫に見えて、思わず楓ちゃんの身体を抱き締めてしまった。ほとんど反射で行ってしまったことだから、自分自身の行動にとてもビックリした。そんな俺以上に楓ちゃんは驚き、「え、えぇ……!?」と恥じらうような声が聞こえた。その声は、自嘲するような響きはなかった。
「これからも家に来ていいか?」
「へ?」
「友達、来なくて寂しいんだろ? だったら俺が毎日来るよ。楓ちゃんの大学の話は出来ないけど、話し相手にならなれるからさ」
そこまで言って、彼女から離れる。顔を覗いてみると、驚いた顔がびっくりするほど真っ赤に染まっている。ニッと笑顔を見せると、「ありがとう」と満面の笑みで答えてくれた。
「よし、そうと決まれば早速話すか! そうだな、最近あった学祭の話でどうだ?」
片思いだった子と再び話す機会を得た俺に、ようやく孤独から抜け出した楓ちゃん。お互いに気分は高揚し、夜になってもずっと談笑し続けた。
これがきっかけで、俺と楓ちゃんの生活は一変した。
朝はいつも通りに起きて、飯を食って大学に出かける際にメールをする。勿論相手は楓ちゃんで、内容は「おはよう」の一言。そんなメール女の子に送るのかよと非難されそうだけど、一人の友人に対するメールなんかこんなもんだろ。俺としちゃそれ以上の関係を望んじゃいるが、それはそれ、これはこれ。
楓ちゃんも律儀にメールの返信をくれる。こちらの内容もシンプルで、「おはよう。今日は昨日より調子いいかな」と挨拶と体調報告のみ。とはいえそれは最初にメールをする時だけで、この後は大学に着くまでメールの応酬が続く。大学に着いたらそのことを楓ちゃんにメールし、「今日も頑張ってね」という返信で終わりをつげ、大学の友人と講義に励む。
一日の講義が終われば楓ちゃんの家に向かう。時間によっては友人と遊ぶ時もあるけど、楓ちゃんの家に寄ることは欠かさない。楓ちゃんの家のインターホンを鳴らすと楓ちゃんの兄である彰人さんが出迎えてくれる。最初のころはいくら楓ちゃんの兄さんとはいえすごくビビってたけど、一週間、二週間と通ううちに怖くなくなっていた。見た目は不良、というかヤクザの人にしか見えないけど、根はとても真面目で且つ思いやる人で、楓ちゃんのことを一番に気にかけている人だった。
楓ちゃんの部屋に入ると、彼女は笑顔で俺のことを迎えてくれた。俺もそれに応えるように笑顔を返し、その日にあった出来事を話す。大学の講義の話や友人と話したこと、学食で食べたものなど、話題は尽きなかった。楓ちゃんはその話を本当に楽しそうに聞いてくれた。
楽しい時間というのは早く過ぎるもので、夜まで話し込んでいることもあった。彰人さんは俺のことを気に入ったらしく、そういった時は夕飯に誘ってくれる。申し訳ないとは思うけれど、楓ちゃんと彰人さんとの食事は賑やかで、一人暮らしをしている俺にとってとても楽しい時間だった。
今日は十二月二十四日。今年最後の講義を終えてマフラーを巻いたところで、一通のメールが届いた。
『From:彰人さん
Sub :頼みたいことがある
Text:急遽家を離れねばならなくなった。大丈夫だとは思うがどうも楓のことが心配でな、出来ることなら俺が帰ってくるまで楓と一緒にいてほしい。』
目を通し終わる頃には体が動いていて、行き交う他の学生に幾度も体をぶつけながら前へ前へと走っていた。何も走る必要なんてない、いつものペースで歩いていたって大丈夫なんだ。それでも、どうしても俺は、一人でいる楓ちゃんのことを考えるといてもたってもいられなくなる。今すぐにでも彼女の元に駆けつけたくて、彼女のことを一人にしたくなくて、
そして俺は、楓ちゃんの家に着いた。
息切れし、何度も荒い呼吸をする身体。息を整えようにも身体は興奮状態が続き、何時まで経っても落ち着かなかった。俺はインターホンに手を伸ばし、ボタンを押す。あまり待たないで玄関が開かれた。
「どちらさま……って泰地くん!? どうしたのそんなに息切らして!」
疲労困憊した様子の俺を見て驚きを隠せない楓ちゃん。そんな姿を見た俺は、ひどく安堵した。「急いできただけだからあんまり気にすんな」とバレバレの嘘を吐いて、顔を見せないよう俯いたまま玄関に入る。やはり彰人さんの靴はなく、心の底から早く来てよかったと思った。
楓ちゃんの後ろをついていくように部屋へ向かい、いつものように腰を掛ける。だけど、その後の話題が見つからない。今日がクリスマス・イヴであることと走ってきたことで、頭が正常に働いていないのだと自覚した。沈黙が続き、どことなく気まずさを感じる。口を動かすが声は出ず、俺はひたすら無言でいた。
そんな中、
「今日はね、兄さんがいないんだ」
彼女が話し出した。
「なんでも急な用事が出来たらしくて、家を離れなきゃいけなかったんだって。兄さん、今までそういったことで家を離れることがなかったから少しびっくりしちゃった」
楓ちゃんは窓の外を見ている。見ているものは何だろうか、俺には分からない。
「今日ってクリスマスイヴでしょ? もしかしたら兄さん、彼女がいるのかな。それは嬉しいけれど、ちょっと寂しいかな」
楓ちゃんの声色は少し寂しげで、儚げで、今にも崩れそうにも聞こえてしまう。だけどその後に続く言葉は、そんな物を感じさせない言葉だった。
「でもね、それ以上に嬉しいの。……だって、泰地くんがいるから」
「……え?」
俺は耳を疑った。まさか楓ちゃんからそんな言葉が続くと思わなかった。毎日のように家に来て、迷惑がられてるんじゃないかと少なからず思っていたから。
楓ちゃんがこちらへ振り向く。その顔は少し赤みを帯びていて、はにかみながらも切なそうだった。
彼女は俺のことを見つめて口を開く。
「十月に会ったとき、すごく嬉しかった。何年も会ってなかった泰地くんが家に来てくれてびっくりしたけど、それ以上に嬉しかった。私が大学に行けてないって話をしたとき、毎日来てくれるって言ってくれたのが嬉しかった。それから毎日家に来て、いっぱい話してくれて、すごく楽しかった。
……それと同じくらい、泰地くんがいない時間が寂しかった。泰地くんが来るまでの間、すごく寂しくなって、泣いちゃったこともあった。泰地くんが帰るとき、家に泊まって欲しいって思った。ずっと離れたくないって、思ったの……」
ぽろぽろと想いを口にし、少し顔を俯かせる。その表情を見ることはできず、耳に入る声は震えていた。それでも彼女は顔を上げて続ける。
「……好き。私、泰地くんのことが好き」
俺のことをまっすぐ見つめる瞳は揺れていて、今にも涙が零れそうだった。微笑んでいても本当に切なげで、今にも崩れてしまいそうな顔だった。その瞳が、その顔が、何よりも愛おしく思えて、俺は楓ちゃんを抱き締めた。抱き締めた身体は華奢で柔らかくて、とても暖かった
「俺も、楓ちゃんのことが好きだ。久しぶりに会った楓ちゃんは綺麗になっていて、話してるのが楽しかった。楓ちゃんに会えると思うとそれまでの時間が待ち遠しく感じたり、俺の家に帰るときもすごく辛かった」
俺の想いを吐露すると、楓ちゃんがくすりと笑い、そっと抱き返してくれた。
「私たち、同じこと考えてたんだね。すごく嬉しい……」
つられるように俺も笑い、抱き締めている力を少し強くした。
「俺も嬉しいよ」
しばらくの間抱き合い、どちらとも言わずに身体を離して見つめ合う。そして、互いに顔を近づけて、彼女と唇を重ねた。