第八話 ケータイ着水
「くそっ……マジ最悪」
一人は腫れた頬を押さえながらそう悪態づいた。
全くもって理不尽な一日だった、そう思う。自身の体の異常に始まり、無意味な氷室との戦闘に終わる。これほど損しかない一日というのも珍しいだろう。
一人は空を見上げる。そろそろ日が落ちようかという時刻だが、空はまだ明るい。ただ、太陽はビルに遮られて見えなかった。このビル街の向こうには鮮やかなオレンジ色の眩い夕日があるのだろう。
夕日はやがて沈んでいく。一人の気持ちは既に沈んでいた。
一人の気持ちにはなんら響かない無機質なビル街を駅に向かって歩く。灯り始めた街灯、店の看板。駅前の電光掲示板には先日の銀行強盗について触れていた。何も響かない。
人々の大多数は駅に向かって歩いている。残業のなかった幸運な人々が温かい家庭を目指し、仕事場から逃げていく。安息を求め、休息を求め、安らぎを求め、安住を求める。そんな人々に追い抜かされるように一人はゆっくりと歩いていた。
電車に乗れば、彼らと一緒に箱詰めにされる。電車は日の沈む方角へと向かっていた。
日は沈み、また上り。循環しているのだ。世の中の理すべてに共通している。景気が上がれば下がり、人の調子も上がればいつか下がる。
自分の気持ちもいずれは上がるのだろうか。一人はそんなことを考える。時間さえ経てば、上がるのだろうか。時間が解決してくれるのだろうか。そうなればいいのに。
稲川駅。実は市内二番目の規模を持つ駅で、その為か近隣もそれなりに充実している。そのため稲川近辺で事を済ます事ができてしまうのだが、やはり街中ほどではない。そのため逆に田舎だと言われることも多い。自分の住んでいる地区を棚に上げて、である。
そんな稲川駅に到着し、駅を出る。三百メートルほど歩いてから、今日は前日学校に置きっぱなしだった自転車で駅まで来ていたことを思い出して立ち止まる。厳密には、正確には氷室たちが戻したのだったが。
どうしようかと考えて、残りの三キロメートルのことを考えて踵を返した。だが、すぐに立ち止まる。立ち尽くしたというほうが正確かもしれない。
ともかく、一人は視界に入った人物に愕然としたのだ。
黒いジャケットにダメージ加工のジーパン。その格好に見覚えはなかったが、だらしなく伸びた髪といやらしい顔には見覚えがあった。
「な、んで……」
思わず口から言葉が漏れる。
それは先日河川敷にいた男だった。人間を黒焦げにした、あの男である。氷室が捕まえたのではなかったか。
やつが氷を溶かしたところを捕まえたのではなかったか。
そう考えて、彼が「捕まえた」と一言も言わなかったのを思い出した。
……逃げられたのか。
氷室を散々貶してやりたいが、今はそれどころではない。一刻も早くこの場を何とかしなければ。
どうする? どうすれば生き延びれる? ……いや、ちょっと待て。
もしかすると、相手は気づいていないのではないか。確かに殺人犯を野放しにするのは危険だが、相手も公衆の面前では何もしないだろう。気づかれる前に逃げ出せば――
「え?」
全身の血液が凝固したかのような寒気がした。男が笑ったのだ。口元をニヤリと吊り上げ、獲物を見つけたケダモノのような目つきである。その目は、明らかに一人を貫いていた。
「くっ……」
落ち着け。このまま人通りの多い道を通っていけば、時間は稼げる。人がいない場所を避けさえすれば襲われずに済むだろう。だが、それからは? どうやって逃げ出せばいい?
混乱し、停滞しそうな思考回路を鞭打って働かせる。それでも、解決策は浮かばなかった。
とにかく、やつに捕まらないようにと、一定の距離を保って一人は歩くことにした。
平静を装って、ブレザーのポケットに手を突っ込むと、紙屑の感触があった。いつそんなものを入れたのか考えて、それを思い出すとほっと息を吐いた。特注品の一〇〇番だ。
「あれ? 一人じゃん」
――だが、最悪だ。思わず頭を抱えたくなった。
「あ、ああ。太一か。良介も」
そこにいたのは太一と良介だった。駅前で遊んでいたのだろうか。それとも街まで行った帰りだろうか。どちらにしても状況は悪くなった。
「……お前、やっぱり変だぞ?」
少しずれた眼鏡を直しながら良介が尋ねる。一人はなんでもないと、上の空に返事をして首だけ後ろに回した。
男は不気味な冷たい笑みを張り付けている。獲物が増えた、と。そう言っているかのようだった。間違いなく自分が逃げたとしても、二人を追うだろう。そして二人には成す術がない。かといっていつまでも三人でいるわけにもいかない。二人に悟られずに事を進める自信もない。
男がふと近くの電柱に手を添えた。まさか、と一人は身構える。
だが、男はそのまま電柱から手を離し、そのまま歩き続ける。
「おい! 聞いてんのか?」
太一が苛々した様子で一人の肩を叩いたので一人は前を向きなおした。
「悪い。何だって?」
「だから、何してたんだって聞いてんの! 放課後すぐいな」
その先は聞き取れなかった。地震でも起きたのかと思うほどの地響きが太一の声を掻き消したのである。
「な、何だ!?」
周囲が喧騒で満たされる。周囲の人は皆ある一点に視線を注ぎ、車も急ブレーキで止まっていく。幸い、玉突きにはならなかったが、怒号と悲鳴が渦巻いている。
辺りの電灯や店の看板がすべて消え、信号も意味をなさなくなった。夕暮れ時の町は沈みゆく太陽だけが頼りになって、急に薄暗くなった。
車はどうしていいかわからずにただクラクションを鳴らす。混乱が広がっていくのが通行人のざわめきでわかった。
先ほど男が触れていた電柱が、突然倒れた。もちろん、男が触れていた部分からである。
やはり、彼は電柱を炎で溶かしたのだ。自分だとばれないように、ある程度加減したのだろう。それが時間差で耐え切れなくなって、倒れた。そう、誰も彼の仕業だとは気づいていない。誰も彼が電柱に触れるところすら見ていなかったのだ。
牽制だ。
どうやら、考えている時間はないらしい。
「ちょっと」
「お、おい」
「何すんだよ!?」
一人は二人を人通りの少ない路地まで引っ張った。そして、二人を抱えて、
跳んだ。
「…………え?」
どちらかが声を漏らした。
一人は近くの民家の屋根に着地した。おそらく誰にも見られなかっただろう。あの男以外には。
思ったとおりだった。大人一人を十数メートルも蹴り飛ばせ、百メートルを悠々と世界記録更新できる体になっているのだから、民家の屋根の上までジャンプするのも不可能ではなかった。ただし、二人を抱えているため、相当な体力を使うようだが。
「ちょ、どうなってんの!?」
「……一人。説明しろよ」
「今、それどころじゃない」
混乱する二人を無視して、一人は屋根から屋根へと飛び移っていく。火事場の馬鹿力とはよく言ったものだ。つらくとも、できなくはない。
「おい、誰か追ってきてるぞ!?」
太一がそういうと一人は舌打ちした。当然ではあるが、あの男が追ってこないはずがない。 確認する間も惜しんで一人は駆ける。だが、さすがに後ろが気になった。
「どんな感じで追ってきてる?」
「軽々と。って言ったら伝わるかな? 遊んでるように見えるよ」
今度は良介が答える。再び舌打ち。人気のない場所まで追い詰める気だろうか。
「誰だよ、アレ?」
「殺人犯だよ。河川敷の」
「え!? こないだの? 何で、追われてんの?」
「顔を見たからだろ」
「なるほど、それでか」
良介は一人で納得している。太一は納得がいかないのか、混乱しているのか、腕の中で暴れだす。落としそうになるのを懸命に堪えて、一層力強く抱えなおした。
「ちょ、一一〇番!」
「何て言うんだ? 殺人犯が屋根を飛びながら追ってきています、ってか?」
「じゃあ、どうすんだよ!?」
「専門の知り合いがいる。警察だけどそっちに言えば通じる」
「じゃあ、早くしろよ!」
「両手が塞がってる」
「ふざけんなっ!」
「真面目だ馬鹿野郎」
「俺がかける」
熱くなる二人をよそ目に、良介が冷静に言った。
「お前の側のブレザーのポケットに番号が書いた紙が入ってる」
「取れないぞ」
一人は二人を片方の脇に抱えている。ブレザーのポケットはちょうど良介の体で塞がれていた。
「何とかしろっ」
「無茶言うな!」
そう言いながらも、良介はなんとかしようと体をねじらせたりしている。
「ちょっ、落ちる!」
一人からしてみれば、動く良介を抱えたままでいるのは至難の業だ。暴れているのとほぼ同じなのだから。滑って落としてしまっては一巻の終わりだ。
「死んでも落とすな」
「くそっ、無理! 一回動くな。あれ渡ってからだ」
一人たちの先には大きな川、稲川があった。橋は左右にあるが、五百メートル以上は離れている。一人は民家の屋根を飛び降り、道路を横断すると、一直線に川へと走った。橋まで走る気はなかった。
「おい!? 一人!?」
太一が形相を変えて叫ぶ。
「ちょ、ふざけんな!」
一人は太一の抗議など無視する。良介はといえば、もはや半ば諦めているようだ。
河川敷へと飛び降り、助走をつける。川幅は三十メートルほどだろうか。それを、
「うわああああああああ!!!!!」
跳んだ。
「いやいやいやいや!! 無理無理無理無理!!! 届かねえって!!!!」
太一の叫びの通り、放物線を描いている三人の着地点はどう考えても水中である。どう見積もっても五メートルほど足りない。
「っくそ!」
一人は諦めて二人を、
投げた。
「うわあああああ!?」
「うおおおおおお!?」
叫び声を上げた二人は河川敷の芝生に軟着陸し、一人は水しぶきを上げて、川に飛び込んだ。しばらくの静寂。
「ぶはっ!!」
「一人!!」
一人が川から頭を出し、岸に上がろうとする。
「大丈夫か?」
良介が尋ね、二人は手を出す。一人はその手を片方ずつ掴んで陸へと上がった。
「うう……。冷てえ」
「当たり前だ。なんつう無茶しやがる」
「あいつは?」
「ほら、あっちに」
良介が向こう岸を指差す。男は反対側からこちらを眺めている。今にも跳んでくるのだろうか。だが、様子を見ているようで、向かってくる気配はない。
「今のうちだ」
一人はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。これほど防水機能付きのものを買っておいて良かったと思う日はもう来ないだろう。そして、ブレザーから紙を取り出した。
一人の手が止まった。
もともと皺くちゃにしてしまっていた上に、濡れてしまったので、文字がかすれている。
「くそっ!」
見える文字だけを無理やり解読して、通話ボタンを押す。
流れてきたのは、「この番号は……」という機会音声。外れだった。
ちらりと向こう岸を見た。男はもういなかった。慌てて左右を見渡す。だが、見つけられない。諦めたということはないだろう。
「早くしろよ!」
太一が狂ったようにまくし立てる。
「わかってる! 良介、あいつがどこ行ったか見てないか?」
八に見えた番号を六にしてかけ直す。繋がった。だが、コール音が続く。気付いていないのか、知らない番号だから敬遠しているのか。
「え? 見てないぞ。……いないな。諦めたんじゃないか?」
「そんなはずない。たぶん、橋まで行ったんだ」
コール音が続く。これでもし、繋がっても、別の誰かが出れば、また違う番号をかけ直さなくてはいけない。
『はい、氷室です』
出た。彼の声を聞いた瞬間に、怒りにも似た感情が湧き上がってきた。
「この野郎!! 何やってんだよ! 死にそうだ!!」
『……誰だ?』
「高木! お前が取り逃がした犯人に殺されそうだ」
『今、どこだ?』
「稲川森林公園!」
『三十分、いや、二十分で行く』
「十分で来い!」
電話が切れた。一人は携帯電話をポケットにしまいこんだ。
「森林公園?」
「人目につかないほうがいいだろ」
河川敷を上がれば、すぐそこには森林公園がある。下手にあちこちに逃げるよりは、氷室が来るのを待った方が良い。
「なあ、あれじゃないか?」
良介が道の向こうを指差すと、かすかに人が見えた。走っているように見えるし、そのスピードもとてつもないように見える。間違いなく、先ほどの男だ。
「行くぞ」
一人は頭を振って髪から水を飛ばしながら歩き出した。
「なあ、ちょっと待てよ」
太一が一人を制する。一人は頭だけ振り返るが歩みは止めない。
「お前も、あの男も普通じゃないのはわかったよ。けど、俺らって関係なくね?」
「ああ、関係ない」
「いや、ちょ、じゃあ、何でこんな目にあわなきゃいけないんだよ!?」
「お前らを逃がすためだよ」
「はあ!?」
「やつは俺を狙ってる。けど、俺じゃなくてもいいんだ」
「……意味わかんねえ」
「やつにお前らと話をしてるところを見られた。そこで逃げたらお前らが標的になるかもしれなかったからな」
「なるほど」
良介が落ち着いた様子で首を縦に振る。太一はと言うと、混乱しているようで頭を掻き毟っていた。
河川敷を上がって、道路に出た。交通量はまあまあだ。ここにいれば、相手も迂闊に手を出せないかもしれない。だが、猛スピードで掻っ攫って、人目のつかない場所で殺すこともできるだろう。特に良介と太一はその可能性が高い。ならば――
「もう! わかんねえ!」太一の声はもはや叫びに近かった。「わけわかんねえけど! とにかく、どうすんだよ?」
「俺が闘う。その間に逃げろ」
二人が危ない。ならば、自分が囮になるしかないだろう。
「はあ!? そんなことできるわけ……」
「わかった」
「おい! 良介!!」
「俺たちがいたって、足手まといだろ」
「それは……」
「大丈夫だ。助けも呼んだし」
そうこう言っている間に森林公園に到着した。
怖い。当たり前だ。相手は殺人犯。大丈夫なわけがない。氷室だっていつ来るかわからない。 逃げたい。逃げるのは簡単だ。たぶん逃げ切れる。
だが、二人はどうなる? もちろん、自分が逃げたからといって、やつが二人を襲うとは限らない。杞憂かもしれない。だが、ゼロではない。
ならば。二人を護れるのは、今は自分しかいない。元・一般人、現・異能持ちの自分しかいない。
ならば。自分が盾になる、それ以外に方法はないのだろう。
もう、関係ない、と逃げることはできない。