第七話 信号機
「よう。また会ったな」
「また会ったな、じゃねえよこの野郎! 何なんだよあれは!?」
ここは警察の地下にある特命部のオフィス。その中の執行課の奥のデスクに座っている氷室とその氷室に対し怒鳴り散らしている一人。周りの人間は、ある者はチラチラとそちらを覗きながら作業をしているし、またある者は気にも留めずに自分の作業に浸っている。
放課後、一人は真っ直ぐに特命部へと向かった。もちろん、体育の授業のときの真相を知るためである。
あの時、確実に一人は世界記録など優に超えていた。有り得ない話である。だが、現実である。理由は一つしか思い浮かばない。能力のせいだ。
あの後、一人は逃げ惑う生徒全員に置換機を使ってその場を凌いだ。自分の体の異変に気付いた一人にとっては、逃げ惑う生徒四十人を相手にするのも容易かった。
驚いたことに、置換機を受けたクラスメイトたちは、一時気絶していたが、授業の終わり間近に目を覚ますと何事もなく動き出した。それはあまりにも滑稽な光景で、しばらくその場を動くことができなかった。
その後も太一や良介は何事もなく接してくるので、不気味すぎてその時のことを尋ねることはできなかった。
「あれ、って言われてもなあ」
氷室は面倒くさそうに一人を見つめると、ふと思い出したかのようにおもむろに胸ポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「何なんだよ!? 体が、体が……」
「ああ、体がすげえ軽く動くってか?」
氷室は煙草の煙を吐き出しながら言った。
「軽くなんてもんじゃねえよ! 何なんだよ一体!? これも能力ってやつなのかよ?」
「近からず遠からずだな。能力ってわけじゃないが、能力に目覚めたやつは体が活性化されて身体能力が異常に向上すんだよ」
「何で黙ってたんだよ! てめえのせいで災難だったぞ!」
「ああ、悪い。忘れてた」
そう言って灰皿に煙草を押し付ける。
これには一人も頭にきた。
一人は氷室のデスクを勢いよく叩くとそのまま氷室の胸ぐらを掴んだ。さすがに周りの注目を浴びてしまい、部屋中が静まり返り、誰もが二人を見た。しかし、対象が氷室であることがわかると半分ほどは作業に戻っていった。あたりから「また課長か」といった囁きが零れてくる。
「悪い。そりゃ怒るわな。納得しねえよな。わかったよ、納得する理由を教えてやるよ」
そう言うと氷室は一人の腕を引き離し、別に身なりを整えることもせずにそのまま座り灰皿にかけていた煙草を再び口にする。
「別に忘れてたわけじゃねえんだ。忘れてたって言えば渋々ながら半分くらいは納得するから、いつもまずそう言うんだ」
絶対、嘘だろう。
「いいか、俺があえて言わなかったのは認識してもらうためだよ」
「あ?」
「自分が人じゃなくなっちまったってことをだよ。どうだ、気分は?」
一人は今度は氷室のデスクを蹴り飛ばした。振動で書類が飛び散り、コーヒーの入ったマグカップが落ちて割れ鈍い音を立てた。残っていたコーヒーが床に新たな模様を描いていく。
再び左手で氷室の胸ぐらを掴むと、彼を無理矢理立たせ、右の拳を顔面目掛けて――
「おいおい、そうカッカすんなよ」
勢いよく振るわれた右腕は呆気なく氷室の左手の手のひらに収まり、バチンと小気味良い音を立てた。
「っ!!」
氷室はその左手で一人の右手首を掴んだ。そして右腕で胸ぐらを掴んでいた左手を剥がす。
「ちょうどいい。好きなだけ殴らせてやるよ。おい、有澤」
「あ、はい」
氷室は近くにいた二十代半ばの青年を呼びつける。
「ちょっと付き合え」
「わかりました」
そう返事をして彼は立ち上がる。長身細身で氷室とは大違いの精悍な顔つきである。
「それと、倉本」
「あ、僕もですか?」
呼ばれたひ弱そうな青年が立ち上がりかける。彼も有澤と呼ばれた男と同年代だろう。
「いや。ここ、片付けといて」
「え? ちょ、ちょっと、課長!」
倉本の泣きそうな声を無視して氷室は一人を引っ張り有澤とともにオフィスを後にする。
一人が連れてこられてた場所は特命部のさらに下の階だった。扉は左右に一つずつと奥に一つ。有澤は右の扉を入っていき、残る二人は奥の扉へと入った。
そこは広い空間だった。小さな体育館ほどの広さだが、真っ白で何もない。ただ、広い空間だった。地下にこれほどの施設があるのには驚きである。
「ここは……?」
「まあ、平たく言えば格技場だよ」
「格技場?」
「ああ、そうだ。さて……」
氷室は一人から距離を取り正対する。二人は格技場の真ん中に立ち、ちょうどこれから試合でも始めるのかというような位置になった。
「これからお前に好きなだけ殴らせてやる。ただし、俺は殴られる気はない。避ける、反撃する。自ら攻撃も仕掛ける。それだけだ」
一人は彼の言っている意味も意図もわからなかった。確かに彼を殴りつけたいほど腹は立っているが、改まって殴り合いを始める気はさらさらない。
「どうした? こないのか?」
「……知らねえからな」
一人は駆け出し、右腕を振るう。だがそれは先ほどと同じように左手で阻まれた。先ほどと違ったのはその後だ。氷室は掴んだ腕をそのまま下へと振り下ろす。一人はバランスを崩し前のめりになった。
「かっ……!」
そこに氷室の右膝が腹に入った。一人の呼吸が一瞬止まり、そのまま重力にしたがって床に倒れこんだ。
「あら、意外と呆気ないのな」
「うっ、うるせえ!!」
咳き込む一人は起き上がり際に拳を下から突き上げるようにして腹を狙った。それを氷室は体をひねって避ける。そして左足を軸に回転し、右足で一人を背中から蹴り飛ばした。
数メートル吹き飛ばされて、その場に蹲る。両膝をつきながらも体を起こすが、立ち上がるには至らない。
立ち上がれない。
「……ふざけんなよ」
一人は思った。
否、本能で感じた。
強い。勝てるはずがない。
一発入れることさえ無理だろうと。
だが、諦めるわけにはいかない。彼に恨みはない。彼は悪くない。自分も悪くない。誰も悪くない。本当に、運が悪かっただけ。日常から外れてしまったのは、全くの偶然。
それでも、戻りたい。忘れたい。納得できない。人が炎を出すことなんて、人が物を凍らせることなんて、恐ろしくて考えたくもない。
そのやり場のない苛立ちをぶつける相手は今は彼しかいない、それだけだ。
「うわああああああああ!!!!!!」
一人は起き上がり、真っ直ぐ氷室に突っ込む。そして頭目掛けて右足を振り上げる。
「単純だなあ、お前」
それは簡単に氷室の左腕に阻まれる。
だが、それでは終わらない。一人はそのまま右足首を彼の左腕にフックのように掛けて、左足を蹴って飛び上がる。つまり、彼の左足に、乗った。
「なっ!?」
そこからすぐに飛び降り、彼の背後に回る。素早く身を翻すと、同じく振り返った氷室と目が合った。何も考えずに彼の脳天目指して足を振り上げた。
「うらああああ!!!」
今度こそ右側頭部に命中すると、そのまま氷室を壁際まで吹き飛ばした。
彼は倒れこむが、すぐに起き上がって壁に寄りかかるように座り込むと、薄い笑顔で一人を見つめた。
「なかなかやるねえ。格闘技とかやってたわけじゃないんだろ?」
「んなもん、やったことねえよ」
そう答える一人の息は上がっている。今まで使ったことのないような力を使ったのだから無理もないかもしれない。それでなくても喧嘩なんて何年もしたことがなかった。
「だろうな。型が無茶苦茶だ。だが、筋はいいな。そういや、前もお前に吹っ飛ばされたっけか。あの時はお前も目覚める前だったから痛みはたいしたことなかったんだけどよ。見事に入ったからな」
そう言って氷室は以前蹴られた顎をさすり、埃を落とすようにうスーツを叩きながら立ち上がる。そして、口から血混じりの唾を地面に吐き出す。
「だが、まだまだだ」
言い切らぬうちに、一人の視界から氷室が消える。消えたと思った瞬間には背中に強い衝撃を受けていた。
「がっ!!」
今度は一人が壁に吹き飛ばされる番だった。体を強く打ちつけてその場に蹲る。
「この野郎!」
立ち上がり、氷室へと向かう。寸前でステップして、方向を変えて氷室の右後ろへと回ろうとする。
「フェイントのつもりか?」
氷室の左足が伸びてきて一人の腹に命中する。蹲ったところを蹴り上げられて宙に浮き、右の拳が飛び込んでくる。一人の体はピンポン玉のように軽く飛んでいった。
壁まで飛ばされた一人は動かない。動く気力がない。動く体力がない。動く理由がない。
「何やってんだろ、俺」
一人は呟いたが、少し距離のある氷室には聞こえない。聞かせたくない。
このままでは死んでしまう。なぜ? どうして? 自分はただ、変な能力に目覚めただけなのに、それだけで殺されてしまうのだろうか。目覚めたことが罪なのか?
『課長! やりすぎじゃないですか?』
有澤の声が聞こえる。どこかにカメラとスピーカーがあるらしい。
「わかってるよ。もう終いだ」
どこかにあるマイクに向かって氷室が言う。そして、一人のほうに着々と歩み寄る。
「もう終わりだ。俺も暇じゃねえしな」
周囲の空気が冷える。これは……。
「ちょっと、待てよ……」
かろうじて出したその声は、彼に聞こえているとは思えない。
昨日は殺す気はないと言ったじゃないか。彼は自分を氷漬けにする気だ。
彼の歩みは止まらない。
止めてくれ。
歩みは止まらない。
助けてくれ。
止まらない。
どうして俺が。
氷室の手が顔寸前まで近づいた。座っているので見上げる形になる。
「うわあああああああああああ!!!!!!!!!!」
次の瞬間、一人の目の前から氷室が消えた。
いや、氷室が消えたのではない。自分が消えたのだ。
一人がそう気づくまでにそうとう時間がかかった。
氷室が消え、視界は天井だけになった。何が起きたのかわからずしばらく呆けていたが、目線を降ろすと、向こう側の壁に氷室がいた。彼は驚きの表情を隠さずにこちらを見ている。
「有澤! 撮れたか?」
「はい、バッチリです」
氷室は満足そうに頷くと一人の下へと歩み寄る。
「悪かったな。痛かったろ?」
「うるせえよ。さんざん痛めつけといて……」
「すまんな。だが、確かめたかったんだよ」
「何を」
「お前の能力と、おまえ自身の力だよ」
「は?」
どう考えても重複するその意味に対して、一人は何も言えなかった。状況がまったく理解できなかった。
「立てるか?」
一人の頭に浮かぶクエスチョンを氷室は気にもせずに手を差し伸べる。それを一人は弾くと自力で立ち上がった。
氷室は呆れたようにため息をついたが、その表情は笑っているように見えた。
「ついて来い」
氷室は扉へと向かう。
「嫌だね」
一人がそう言うと氷室は立ち止まり振り返った。驚きの表情が見て取れる。
「こんなに痛めつけられて、何でそこまでして従わなきゃいけないんだよ! 警察はそんなに偉いのかよ!?」
「……お前の為だよ」
しばらく間をおいて、一度ため息をつくと氷室は言った。
「お前はこれから今まで見えなかったものが見えてくるはずだ。お前は知らなくちゃいけねえ。お前だけじゃない。警察だろうとなかろうと、異能を持てば知らなくちゃいけねえ」
「意味わかんねえよ! 何を知らなきゃいけねえってんだよっ!!」
「それはじきにわかる。というよりも人に言われてわかるものじゃねえ」
「そんなの納得できるわけねえよ!!」
「痛めつけたのは悪かった。お前の順応力があまりにも悪かったんでな。それと、個人的に実力を見たかった。とにかくもうちょっと付き合ってくれや」
「…………ちっ」
一人は黙って氷室の後について行った。
二人は最初に有澤が入った部屋へと向かった。中は機械室のようで、モニターがいくつもついており、よくわからない機械で埋め尽くされていた。
「どうだ、有澤」
「……何と言うか、珍しい、と思います。見てください」
有澤は淀みなくキーボードを叩く。すると、一つの画面に先ほどの一人と氷室の戦闘シーンが再生された。ちょうど、最後の場面で氷室が異能を使うところだった。ふと一人が画面から消えた。
「消えてますよね」
「ああ、消えてるな。少なくとも、見えない」
「スローで再生します」
再びキーボードを叩く有澤。すると今度はスローで映像が再生されていく。
「……遅すぎねえ?」
一人は苛々したように言った。それほど、映像のスピードが遅いのだ。
「百六十キロのボールも止まって見えますよ」
ようやく、氷室の手が一人にかざされたところだった。次の瞬間、一人は画面から姿を消した。
「……消えてるな」
「消えてます。残像すらありません」
「なあ、さっきから何やってんだよ?」
「お前の能力の確認だよ。お前が、超高速で動いてんのか、それとも本当に消えているのか、それを確かめたかったんだよ」
「……ってことは」
「このカメラでも映らないってことは、消えてるんだよ。所謂テレポート、瞬間移動。おそらくかなり貴重な能力だろうな」
「……それがわかってどうなるんだよ?」
「ん? 別にどうにもならん」
「はあ!?」
「単純に確かめたかった。そんだけだからな」
「ふざけんな! そんなことのために俺は殴られたってのかよ!?」
「そんなことって言うな。おまえ自身自分の力を知っておくのは大事だろ」
「殴る必要ないだろ!!」
「じゃあ、今ここで使ってみろよ」
「なっ!?」
「できないだろ? 使い方を知らねえんだ。だから追い込んで無意識に使わせたんだよ」
「マジ納得できねえ……。帰る!」
一人は出口まで歩き、扉を乱暴に閉めて出て行った。
「あ、おい! ……行っちまった」
「言いそびれましたね」
有澤は椅子を回転させて氷室と向き合った。
「何のことだ?」
氷室の口元がわずかに上がった。
「とぼけないでくださいよ。彼を非常勤に誘うつもりだったんでしょ?」
「いずれは、な」
「彼、たぶん入りませんよ」
「だろうな」
「非常勤なんて、馬鹿か、それこそお人よししかやらないじゃないですか。彼、どっちでもないでしょう?」
「だろうな」
「ええ。特に彼はまだこの異能の存在する世界を受け入れてません。受け入れたとしても、自分から危ない橋を渡る必要はないでしょう。そんなに彼が気に入ったんですか?」
「まあな。あいつに入れられた顎は結構効いた」
「ところで、どこで出会ったんですか?」
「ああ、そりゃな――」
「いい加減にしたら?」
静かな、事務的な口調が室内に響き渡る。入り口にはいつの間にいたのか龍瀧が立っていた。有澤は事態が飲み込めていないようで、氷室と龍瀧を交互に見渡していた。
彼女は持っていた書類をそこにあったデスクに無造作に投げると、睨みを利かせて氷室を見た。感情を表に出している彼女は黄色信号だ。
「私を誤魔化せると思って? 黙っておいてあげたけど、そろそろ限界よ」
「佐倉には追わせてある」
「佐倉さん、ね。勝手に非常勤を使ったりして。いいの? 彼女、オーバーワーク気味よ」
「本人が働きたがってるんだ。仕方ないだろ」
「あなた、本気で言ってるの?」
彼女は強い口調で言った。限りなく赤信号に近い。
「んなわけねえだろ、阿呆」
「ならいいけど。とにかく、部長にバレても知らないわよ。全く、一度は動きを封じたんでしょ?」
「ちょっと、な。顎が利いた」
「は?」
「いや、なんでもない」
「とにかくマズイわよ」
彼女は一度デスクに置いた書類を手に取る。そこにはある男の経歴が記されていた。かなり際どい、犯罪間際のものが多数と、実際に犯した犯罪もいくつか。さすがに殺人は一度もなかったが、今回晴れてそれが加わる。
「犯人に逃げられた、なんてね」