第十九話 ここは禁煙です
翌日も良介は学校に来なかった。
欠席の理由は説明されていない。だが、それを怪しむクラスメートはいなかった。なぜなら、普段から担任教師のやる気がその程度だからだ。
ただ、事情を知る一人からすると、必死に隠しているようではあったが、いつもとは違う担任のピリピリとした様子が感じられた。
それでも、二日続けての良介の欠席については心配の声がいくつか聞かれた。ただ、多くの意見がが風邪でも引いたのだろうかといったものだった。
太一は今日も良介の家に行ったそうだが、もちろん良介が出てくることはなかったらしい。「しばらくは登校できない」という母親の返答もあったようだ。
さすがの(何がさすがなのだろうか)太一も心配する様子が伺えた。だが、「入院でもしたのかな」という本気で言っているのか悩んでしまうような台詞を吐いていた。本当に入院なら隠さずにそう言うだろう。
こういった、良介を案じる声こそ聞こえたが、そもそもクラスメートひとりが二日続けての欠席したところで何かが変わるほどこの世はデリケートではない。
まるで何事もなかったかのように時間は流れ、昼休みとなった。
「さて、昼飯でも買いに行くか」
教師が教室を出ていくのとほぼ同時に、目の前の太一が立ち上がった。
「ああ。あ、ちょっと待って」
一人は鞄の中を覗き込む。
教科書に埋もれた、オレンジ色の水玉模様の布。昨日、花梨からもらった弁当の空き箱が包まれている。洗って返そうと思い持ってきたのだった。
それに一瞬触れて、すぐに思いとどまった。
冷静に考えて、太一がいる前で返したくはない。どうからかわれるかわかったものではない。
「何だよ、早くしろよ」
太一が急かしてくる。どうしたものかと思っていると花梨の方からやってきた。
と思えば、花梨は一人の手首を強く掴んだ。
「痛っ! ちょっ」
「ちょっと来て!」
一人の手首を花梨は引っ張る。あまりの唐突さと痛みで、一人は抵抗する間もなく連れて行かれてしまった。
「おい、どこ行くんだよ?」
花梨は校舎の外にまで出て行った。未だに一人の腕を掴んでいる。恥ずかしいなんてレベルではない。
そのまま校舎をぐるっと回り、グラウンドへと出る。
稲宮高校はグラウンドが校舎の裏にあり、校舎側から陸上トラック、サッカーグラウンド、野球場の順になっている。
そのグラウンドの手前には各部のプレハブの部室がある。彼女はそこまで一人を連れてくると、ある部室の扉を開けた。
「おい、そこ、どこだと思ってる」
何の迷いもなく足を踏み入れた花梨を一人は制した。
「ラグビー部の部室」
何の迷いもなく花梨は答える。
そう、ラグビー部の部室である。そして、二人はラグビー部ではない。
「ここなら話を聞かれる心配ないでしょ?」
「いや、まあ、そうだけど」
現在ラグビー部は部員不在で廃部である。なので、滅多に人は入ってこない。
だが、それ以上に人が寄り付かない理由があるのだが、あまり話したくない類のものである。ちなみにホラーの類ではない。
「てか、何の話だよ」
花梨がそのまま入っていってしまったので、仕方なく一人も部屋に上がっていく。汗臭いかと思ったが、しばらく使われていないためか、それほどでもなかった。
「私、怒ってるの」
彼女は髪を揺らしながら振り返った。確かにその表情には憤怒の感情が表れていた。
「……謝り足りなかったか?」
そのことについては弁解の余地のない一人である。
「一人にじゃないよ。氷室さんに、だよ」
「昨日のことか。けど、しゃあないことだろ」
それが一晩頭を冷やした一人の結論である。素人が何をやったってプロには勝てない。アルバイトがどうあがいたって社員には逆らえない。それと同じことだ。
花梨は近くの椅子に腰かけた。鋭い目が一人を射抜いた。
「一人はそれでいいの?」
「仕方ないって」
自分の意思ではない。できるかできないかの問題であり、答えは”できない”だ。
「良介くんがどうなってもいいの?」
「戻って来るんだろ?」
話しに聞くところでは、被害者は全員無事に保護されているらしい。まったくの無傷というわけでもないようだが、ほとんど軽傷のようだ。
良介にしても例外ではないはずだ。
「一人の気持ちを聞いてるんだよ」
花梨はゆっくりと、はっきりと言った。
気持ち。
そう問われて一人は自分の内面に目を向ける。
まず諦念の自分がいた。どうしようもないと諦めている自分。誰かが何とかしてくれると思っている自分。表に出ているのはこの自分だ。
その自分に追いやられている他の自分がいた。
彼は必死に叫んでいる。友人を見殺しにしていいのかと叫んでいる。他の人がどうなっているかなんて関係ない。打算なんて気にせずに友人を心配する自分だ。
彼は叫ぶ。できるかできないかじゃない、助けるか助けないかだ、と。
彼は自分を押さえつけている他の自分を必死に押しのける。
「いいわけねえだろ」
やっとのことで彼は言う。
「だよね」
花梨はにっこりと微笑んだ。
「それでこそ一人だよ」
彼女は言うと、鞄からファイルと地図を取り出した。
「これは?」
「今回の事件に関する切抜きと、ネットの記事。そこそこ大きな事件だからね。事件を整理してみようと思って」
記事を総括すると現在の被害者は五人(良介は含まれていない)最初の被害者は北区在住の三十八歳会社員でおおよそ二ヶ月前のこと。会社を退勤した後、行方が知れず。だが、翌々日の朝に中央区の三角山という標高二百メートルほどの小さな山の登山道から自力で下山し、保護。本人は何故山にいたかわからないという。
二人目はそれから二週間後で東区の六十二歳の男性。本人によると昼頃からの記憶が曖昧で、翌朝に稲川区の稲川の遊歩道を散歩していた女性に発見・保護される。その際、被害者の意識はなかった。
三人目は中央区の中学生。朝、家を出たまま行方が知れなかったが、これもまた翌日の夕方に北区の公園で発見。
「……ちょっと待て」
整理されていく情報を聞いていくうちに一人は疑問に思わずにいられなかった。
「全部、次の日に見つかってんじゃねえか」
一人目だけは翌々日だが、夜にいなくなったことを考えると、ほぼ翌日に見つかっている。
「そう、だけどいなくなったときのことを誰も覚えてないから怪奇現象として騒がれてるみたい。情報課も隠蔽工作に苦戦してるみたい。報道を規制しても口コミで広がっていって……」
「それは別にいい。良介はいついなくなった?」
「それは、昨日でしょ? ……って、あれ?」
花梨は首をひねる。今までの通りならば良介は今日のうちにどこかで誰かに発見されるはずなのだ。
「…………えへっ」
「えへ、じゃねえコノヤロウ」
だが、淡い期待は得てして裏切られるものなのである。
窓のない部屋。そのため、外の様子はわからないが、疑問の余地なく日は落ちている。時計は午後九時を差している。
特命部の一室。救護室と名づけられているそこは、普段ならばただの仮眠室に成り下がっていた。だが、今宵は久々に本来の役割を果たしている。
部屋には四人。白衣を着た女性はこの場にいる龍瀧と同等の美人といえたが、他の三人には我関せずの様子で、大きく口を開けて欠伸をしているのが実に残念である。彼女は他の三人とは離れて机に向かっている。
龍瀧はそこにあるパイプ椅子に足を組んで腰掛け凛とした表情を崩さない。
氷室は壁にもたれて腕を組み険しい表情である。
二人はベッドを挟んで対の位置にいる。そのベッドに寝そべる男の言葉を待っていた。
「すみません。ヘマやらかしました」
上半身をベッドから起こし有澤は言う。
「それはいい。何があったか話してくれ」
「すみません。ほとんど覚えてないんです。歩いていたら気が遠くなって……。気がついたら救急車の中ですよ」
「病院からあんたをここに移してくるのは面倒だったよ」
白衣の女性が言う。
「根回しやら何やら。とっておきの貸しを一つ返されたよ」
それだけ言うと彼女は先ほどから見ている机の上の書類に再び目を通し始めた。
「病院の方が良かったですよ」
「文句言うな。どうせ何ともないだろう」
氷室が口を開いた。
「頭がガンガンします」
「話が終わったら寝ていい」
「じゃあ、早く終わらせてください」
「ったく。どうだ?」
氷室は龍瀧に聞いた。
「歩いているうちに、というのは他の被害者全員と共通しているわ。それと、歩いていたのは……西区あたりかしら?」
「よくわかりますね」
「消去法よ。今のところ一被害者につき一行政区。行政区は十しかなくて有澤くんが七人目だからそれだけで確率は四分の一。六人目を調べてたなら稲川区の隣の西区かなって」
「このまま行くとあと三人で終いか?」
「どうでしょうね? それよりも六人目の佐野くんが気になるわ。まだ見つかってないもの」
「家出っていう可能性は?」
有澤が尋ねる。
「親にコンビニ行って来いって言われてからの家出か?」
「誘拐……はないわね。身代金要求がないもの」
「もう解放されてるが発見されてない、ってのが妥当か」
「まだ解放されてないって可能性もあるわよ」
「なんでそいつだけ」
「もとから彼が狙いだったのかも」
「他のやつらはどう説明する?」
「能力の制約とか精度の問題じゃないかしら」
「てぇことは何か? そいつが釣れるまで百九十万人一人ずつキャッチ&リリースするつもりだったってのか?」
「現実的じゃないわね。それに一人一行政区ってのも偶然になっちゃうし。確率、計算しましょうか?」
「冗談止せ」
「あら、いたって真面目よ」
「わかったから、他の案を出してくれ」
「佐野くんが目的だとして、他の五人……、有澤くんを入れて六人ね、彼らは練習台だったか」
「人間を練習台にするようなやつが、目的以外のやつを殺しもしねえで解放するか? 俺なら殺す。解放するのはリスクが高すぎるぞ」
龍瀧は腕を組んでしばらく思考したあと、黙って首を振った。
氷室も答えが出ずに、壁により深く寄りかかった。彼が、懐から煙草を取り出して火を付けようとしたところで盛大な咳ばらいが聞こえてくる。
白衣の女性が氷室を睨んでいた。聞こえない程度の舌打ちをして氷室はそれをしまった。
沈黙。
「あの、僕もう寝ていいですか?」
この場の空気に居たたまれなくなった有澤が遠慮がちに言った。