第十七話 謝罪
いつもの起床。七時ちょうどだ。
いつもの朝食。トーストだ。
いつもの歯磨き。歯磨きは食後だ。
いつもの着替え。当たり前だが制服だ。
そしていつものように家を出る。習慣。慣習。ルーティーン。
いつも通りの通学路。いつも通りの校舎。
すべていつも通り。多少の誤差はあれどいつも通り。平均値。中央値。最頻値。
いつも通りはここまで。
一人は教室の前で一度歩みを止める。特に意味はなかった。
この先にいつも通りではない幼馴染がいるはずである。昨日決心した。本当は決心する必要すらない馬鹿馬鹿しいものであったのだ。それに気がつかなかったのだ。全くもって馬鹿だった。
この、くだらない”いつも通りではない”は終わりにしよう。”いつも通り”に戻そう。戻らないならそれを”いつも通りにしよう”ではないか。
一歩戦場に足を踏み入れる。
「…………来てねえのかよ」
よく考えれば、いつも通りなら彼女の方が登校時間は遅いのだ。肩透かしを食らってしまった。だが、時間ができた。執行猶予。モラトリアム。
自分の席に腰を下ろして、窓を覗く。なんてことのない朝の風景だ。生徒たちがぞろぞろと玄関へと向かっている。黒っぽい紺のブレザーを皆着ていたため、その様子が巣穴に向かう蟻の集団のようだった。
教師が玄関に立ち、生徒を急かすのはまだ先の話だ。
「よお」
顔を教室の内に戻すと一つ前の席の友人だった。
「お、おう」
太一の顔を見て思い出してしまった。謝るべき人間がもう一人いたことに。
だが、その姿はない。
「良介なら、たぶん来ねえよ」
朝だからだろうか、いつもより調子が上がっていないように見える太一が言った。
「あ? どうしたんだよ。風邪か?」
「いや、知らない」
そう言って彼は自分の席に腰を下ろす。横向きに座って一人と話ができるようにした。
太一が知らないはずはない。中学は違うが家の方向が同じため、二人はいつも揃って登校しているのだ。
「家に行かなかったのかよ」
「行ったよ。けど、よくわかんない」
「お前の言うことがよくわかんねえよ」
「おばさんが出て、今日は行けないって。理由は知らない」
「知らないって、何でだよ」
普通は風邪なら風邪と言うのではないか。風邪なら前もって良介がメールしておけば済んだ話ではないか。
「知らないものは知らないって」
それだけ言って太一は前を向いてしまった。今日の太一の態度は素っ気ない。
「…………あ」
そこで、良介だけでなく太一にも(もちろん花梨にも柑奈にも)醜態を晒してしまったことを思い出した。あんなことがあったあとで、いつも通り接してくれるはずがないではないか。
太一にも謝らなければならない。だが、今、その機会を一つ逃してしまった。
結局、花梨が登校してきたのはチャイムがなったのとほぼ同時だった。
そして、良介は結局来なかった。
チャンスはそうそう来るものではない。
授業中はもちろん無理だ。休み時間もそれほど時間はない。
となれば昼休みか放課後か。
土曜日の件が原因なのか、一人に対してつっけんどんな対応の太一にも謝らなければいけない事を考えると先延ばしにするのは得策ではなかった。
太一に先に謝るという手もあったが、今まで掛けた迷惑を考えると何としても先に花梨に謝らなければという思いがあった。
つまり、昼休みに事を起こすしかなかった。
そして、その時が来た。
「購買、行く?」
太一が言う。機嫌が悪いながらも誘ってくれるのがとてもありがたくて身に染みた。
だが、それよりもしなくてはいけないことがあった。
「ああ、悪い。先行っててくれ」
黙って教室を出て行く太一の背中を見送った後で、一人も立ち上がる。
花梨の席は教室のほぼ中央だ。だからといって注目を浴びることはない。各々のグループはそれぞれで談笑しているからだ。
一人が近づいてくることに気づいた花梨と柑奈がこちらを向く。柑奈にいたっては睨んでいる。ただでさえきつい顔なのだから睨まれたらたまったものではないが、怯んではいけない。
「花梨」
そう呼んだところで全ての言葉が吹っ飛んだ。初めから、たいした言葉は用意していなかったが、真っ白になった。
そうして出てきたのは自分の感情を端的に、的確に表すものだった。
「悪かった」
深々と頭を下げる。教室のボリュームが下がる。一人の視界には床のタイルしか映っていなかったが、クラスの注目を自分が浴びているのだとわかり、恥ずかしさで体温が上昇した。
しかし、それも致し方ないことだと、頭を下げたままでいた。もはや角度は直角に等しい。
ふと自分の頭上でガタンと音がした。少し、顔を上げる。
机の上に置かれたそれは、どこからどう見ても弁当箱だった。オレンジ色に白の水玉の布で覆われている。
「お弁当」
花梨が言った。
「作りすぎちゃったの」
彼女はこちらを見ていない。傍から見ると一人に言っているようには見えないだろう。
「貰ってくれたら、許す」
一人の方を向く気配がなかったため彼にはその表情がわからなかった。それ以上彼女は何も言わない。
「あ、ありがと、いや、悪かった……?」
弁当を貰った感謝と、謝罪の意思が絡まって何をどう言えば良いかわからなくなってしまった。
これで良いのかと立ち尽くしていたが、そこに救いの手を伸べたのは柑奈だった。
「何ボケっと突っ立ってんのさ。花梨が許すって言ってんだから」
「お、おう」
あっち行けと手を払われたので自分の席に戻ろうと回れ右をする。と、もう一つ用事があったことを思い出し、三百六十度回転することになった。
「遠山、土曜日は悪かったな」
「別に? 私は何もされてないからさ」
そう言ってもう一度手を払われる。今度こそ自分の席へ戻った。
自分の席に戻ったところである問題に直面した。
「……太一になんて言おう」
彼が机の上の物体を発見すれば、何を言うかわかったものではない。ピンクの花柄などではなかった分良かっただろうが、見る限り女の子らしいクロスで包んであるのだ。いや、今日の太一の様子を見ればそれはないだろうか。
「うおっ!? 何それ?」
噂をすればなんとやら。一人は様子を伺う。太一は興味津々で机の上の布で包まれた物体を覗き込むようにして見ている。
見る限りでは、朝のようなよそよそしい態度は薄れている。
「何だよそれ?」
再び太一が尋ねる。
「見りゃわかんだろ」
「いやあ、見ただけじゃわからないね。見ただけじゃ誰が作った愛情のこもったお弁当なのかわからないね」
「……ちょっと黙るか?」
一人が右手に握り拳を作ると太一はおとなしくなった。こうかはばつぐんだ。
「よせよお。悪かったって」
「ったく。……こっちも悪かったな。あ、その。土曜日」
「あ? 何が? 俺、何もされてないけど?」
「朝、それで怒ってたんじゃねえのか……」
「朝? 別に怒ってなかったよ。ただ、やっぱ良介の家、変だったなあと思って上の空だったけど」
「そんな変だったのかよ」
「いや、まず、おばさんが顔面蒼白でさ」
「…………おい」
「で、知らない変な車が置いてあってさ」
「変な車?」
「小さくて丸っこい、ギザギザマークの車」
「丸いのかギザギザなのかどっちだよ」
別に車の形状を答えられたからといってどうなるわけでもなく、会話が途切れてしまう。
そして、太一が弁当箱に視線を送っている。
「……何だよ?」
「いや、だから誰が作った愛情のこもったお弁当なのかなあって」
「殴るぞ」
放課後、何をするでもなくそのまま帰宅するというのは味気ない。何か部活動にでも入っておけば良かっただろうか、と思ったところでもう遅い。
どちらにせよあと一週間以上は定期試験の心配をしなければいけないので、結局のところ早く帰るしかない。
通学路で唯一の公園の前に差し掛かった。自転車を停め、公園の周りを囲っている石に腰掛けている人物を見つけて、足が止まる。
つい最近もこんな状況があったなと一人は思った。彼女がこちらに気づき、跳ねるようにして立ち上がった。
「やっ」
花梨は手を挙げて微笑んだ。その笑みがいつも以上に明るかったのは気のせいではないだろう。
「やっ、て。さっきまで一緒の教室にいただろ」
少しだけ視線を合わせづらい。つい少し前に深々と謝った後なのだ。許してもらった(のだろうか?)とはいえ、まだ罪悪感はある。
けれどそうやって目を逸らしていては何も変わらないのだろう。
「はは、それもそうだね」
彼女は苦笑する。
「どうしたんだよ。まさか一緒に帰ろうってか」
「ビンゴ!」
彼女は指をパチンと鳴らす。
「何だよ。ガキじゃないんだから」
一人は花梨の横を通り過ぎようとする。だが、それは前のような拒絶ではない。こうして歩いていけば勝手について来ると思ったのだ。
「あっ、待ってよ!」
案の定。
徒歩の一人に対して花梨は自転車だったため、彼女はそれを押しながら歩く。
「一人も自転車にすればいいのに」
「何でだよ。別にいいじゃねえか」
「いいけどさ。不便じゃない?」
「これが俺の最後の不便だよ」
「何それ?」
彼女はクスクスと笑う。
「いいじゃねえか、別に」
「うん。そうだね」
「免許取っても絶対にカーナビはつけない。これも持っておきたい不便の一つだな」
「ああ、それわかる。地図楽しいもんね」
「……それとはちょっと違う」
「そう?」
「そう」
彼女は納得がいかないのか首をひねる。最後には「ま、いいか」と納得しないながらも了承したようだ。
会話が途切れる。彼女にしては珍しいことだ。一人から話題を振ることは滅多にないが、それでも彼女といれば会話が途切れることはないのが常だった。
「ところで、テスト勉強は進んでる?」
「さあな。お前よりいい点取る自信はねえよ」
「ははは」
再び会話が途切れる。別に彼女が会話を途切らしてはいけないということはないが、何だか気になってしまう。彼女の常のそれはマシンガントークと言うにはさすがに及ばないだろうから、少しくらい会話が少なくなったところで、なんら可笑しくはない。
だが、理由のない勘ではあるが、この途切れ方はどうにも不自然に思えた。本当の話題を隠しているような、そんな感じだった。
「何か言いたいことでもあんのか?」
「え、あっ、いや、な、ないよ」
彼女は跳ねるように体を震えさせた。
「そこまでうろたえるな。バレバレだ」
「でも……」
「何だよ。気になるじゃねえか」
「たぶん、また一人、私のこと嫌いになる」
そう言ったことで何の話なのか想像がついた。少し眉間にしわが寄っただろうか。だが、それもすぐに戻す。
「いいって、言えよ。もう、気にしないことにしたんだ」
「気にしない?」
「ああ。能力が何だ。非常勤が何だ。花梨が非常勤をやってたって気にしない。無視しない、けど気にしない。これが俺の答えだ」
「そう……。じゃあ、言っても、いいのかな」
「いいから早く言えよ」
「ギザギザのマーク」
「あ?」
そう言われても一人の頭にはピンと来るものはなかった。少し考えて、昼休みの太一との会話で出たようだったと思い出した。
「聞いてたのかよ」
そう言うと彼女は少し顔を赤くして頷いた。そこで恥ずかしがることだろうか。
彼女は表情を真面目なものにして、仕切りなおす。
「それってたぶん、WVでフォルクス・ワーゲンのことだと思う」
「何のバーゲン?」
「フォルクス・ワーゲン。私も全然知らないんだけど、外国の車のメーカーだよ。で、小さくて丸いって言うのは、ニュービートルのこと」
「何でそんなに詳しいんだよ」
「いや、全然。これはたまたま嬉しそうに話してたから」
「話してた?」
「ニュービートルは氷室さんの愛車なんだよ」
一人の心臓が高く跳ね上がった。