第十六話 パシリ
「はあ……」
日曜日。
一人は出かけたことを後悔していた。
空を見上げれば真っ青な天井に主張しすぎない白いマーブル模様。太陽もまだ加減を知っているようで、夏に向けて上がりつつある気温も、今が適温とも言えるほどで、快適なことその上ない。
それでも、何を好き好んで休日の、時計が一桁のうちから起きて、人ごみに流されて街へとたどり着き、警察署の前にいなければならないのだ。だが、誰に強制されるでもなく、自分の意志でここまで来たのだから救いようがない。
昨日の一件で、自分の心は張り裂けんばかりまで膨らんだのかもしれない。自分の苦悩を相談できそうなところを考えていた。
そして、結局、異能を知る人間のいる場所、自分の悩みを共有できそうな人間のいる場所、それを考えるとここ以外に思い浮かばなかったのだ。
「……違うだろ」
思い浮かばなかったのではない。ここ以外にあるはずがないのだ。
だが、何を相談できよう。誰に相談できよう。
何も考えずに来た結果、玄関口での右往左往という行動以外に何もできずにいた。
まず、誰に、を考えることにした。
真っ先に氷室は却下した。わざわざあの強面に悩み相談などせねばならぬのか。それに、ろくな答えが返ってきそうにない。
次に思い浮かんだのは龍瀧。だが、あの冷徹とすら思える事務的な口調、さらには以前車で送ってもらったときの説教じみた会話を思い出すと気が重かった。悪い人ではないはずなのだが……。
次に――――。
誰も思い浮かばなかった。よくよく考えれば(それほど考えなくとも)この場所に話せる者など、先の二人しかいなかったのだ。
自分は間抜けか。そんなこと家を出る前からわかっていたことではないか。
「帰ろ……」
そうつぶやき、建物に背を向けようとしたところだった。
「あ、高木くん……だっけ?」
後ろから声をかけられた。振り返ってみると、そこには長身細身の男性がいた。
記憶を遡る。
確か氷室の部下の――
「有倉さん」
「有澤だよ」
このフロアは好きになれない。
必要以上に明るく、潔癖なほど真っ白だ。そして必要以下の、というより全く窓がない。人が生きるためのバランスを崩しているようで気味が悪い。
一人はいつぞやの会議室らしき部屋に通された。有澤は「ちょっと待ってて」と言うと部屋を出ていき、すぐに缶コーヒー二本を持って戻ってきた。聞かずとも飲み物を買ってきてくれるあたりが氷室と大きく違う。
「課長は今仕事でさ」
彼は缶のプルを開けて、一口つけながら言った。
「別にあいつに会いに来たわけじゃないんで」
「あいつ、ね」
有澤は苦笑する。
「課長は僕の上司なのに僕には敬語で課長はタメ口なんだね」
「あいつ、何か嫌いだ」
一人は顔を伏せ悪態を吐く。
「はは、まあ、第一印象はすこぶる悪かったろうね。で、今日は何の用だい?」
言われて答えに窮する。そもそも特に何が相談したいわけでもなかったのだ。とにかく自分の中に突っ掛かっている何かを吐き出せればそれで良かった。ただ、その術を知らないから、どうしようもなくさ迷っていたのだ。
「ま、見たところ、何か悩み事でもあるようだけど。ついでに言うと、何に悩んでいるかわからなくて悩んでいるのかな?」
一人は驚き顔を上げる。ズバリ当てられたのだ。有澤は澄ました顔でコーヒーを飲んでいる。
「経験則だよ」
「…………どうしたらいいかわからないんです」
「何もしなくていいんじゃないかな?」
「……え?」
一人は面食らった。
「まさか、君は得体の知れない能力を得たから正義の味方にならなきゃいけないとでも思ってる?」
「いや、そんなことないですけど……」
「それならそうでいいじゃないか」
「けど氷室が……」
「非常勤になれって? 気にしなくていいよ。僕個人の意見だけど、非常勤なんて馬鹿かお人よししかならないと思ってるから。街でタレントになりませんか? ってスカウトされても行く必要がないのと一緒。あなたはその才能がある”かもしれません”けどどうですか、ってだけだから」
馬鹿とお人よし。花梨の姿が思い浮かんで、まあ、当てはまるな、と思った。
「果山さんは、極度のお人よしだね」
「それに馬鹿です」
二人は笑いあった。だがそれも一瞬で、一人は萎むように声を落とし、次第にため息になった。
有澤はその様子を見て、一度コーヒーを飲むと話し出した。
「果山さんのことでも悩んでるみたいだね」
「そういうわけじゃ」
「怖いんだね。果山さんも、君自身も」
一人はハッとした。
言われてみれば、その通りだった。
最初は自分に目覚めた能力が怖かった。もちろん今も自分自身も怖い。だが、それが次第に花梨への恐怖へと変わっていったのだ。
彼女が非常勤をやっているとか、そんなことは些細なことだったのだ。ただ単純に彼女が怖い。原始的な恐怖だ。彼女の立場ではなく彼女自身が怖かったのだ。
「そうかも、しれません」
「んー。じゃあ、こういう話はどうだろう。君は銃が怖い?」
「そりゃ、怖いです」
「どうして?」
「銃は、人を殺す道具だ」
「違うよ」
「え?」
「銃は人を殺さない。人が人を殺すんだ。……ま、よく言われる屁理屈ではあるけどね。アメリカの銃社会もこの理念のもと成り立ってるんじゃないかな?」
「屁理屈じゃあ、意味がないじゃないですか」
「けど、僕はそうは思わない。アメリカの銃による被害者の数を考えるとなんとも言えないけどね。僕が言いたいのは、銃が規制されるのは銃が人を殺すからじゃなくて、人が銃を使って人を殺すから。危険なのは百も承知さ。人を殺すことができるのには変わりないからね。だから規制されるのは当然。けどね、例えば、猟師を想像すればわかるけど、彼らは銃を使って人から熊を護ったりするよね。要は使いようってことかな。端的な例を挙げれば、ダイナマイト。有名すぎる話だから詳しくは言わないけどね」
「結局、どうすればいいんですか?」
「最初に言ったじゃない。どうもしなくていいよって。非常勤になる必要だってないし、果山さんが非常勤だったからってよそよそしく接する必要だってない。君が人外の力を持っていたって使う必要なんかないし、必要があれば使えばいい。だいたい、君の能力じゃ人なんて殺せないじゃないか」
そう言って有澤は笑った。
彼の話を聞いていると、今まで悩んでいた自分が馬鹿みたいに思えた。最初から障害など何もなかったのだ。
肩の荷が降りた気がした。
高木一人が出て行った後、しばらくして会議室のドアが開けられた。有澤はチラリとそちらに目を向けると視線を目の前に戻して、缶コーヒーを手に取った。
「こんな仕事やめて占い師にでもなったらどうです?」
彼は皮肉っぽく言うと缶を口元まで持っていくが、既に空であることに気がついてそのまま机の上に戻した。
「別に、今日来るとは思わなかったわ。ただ、確率的な問題で、そろそろ限界かなって思っただけよ」
起伏のない口調で龍瀧千晴は答えた。今日のスーツはピンクといつも通り派手である。
「さすが情報課」
「あの人みたいな言い方しないでよ。上司も上司なら部下も部下ね」
「すみません」
「謝るところが彼より優れている点ね」
「ありがとうございます」
「最近、果山さんが元気なかったから、これは何かあったなと思っただけよ。最近で彼女の周りで何かあったかって言ったら彼のことくらいでしょ。彼の性格からしてまだウジウジ悩んでそうだったから」
「あなたでもそういう気遣いできるんですね。何でも数字で解決する人だと思ってました」
「そろそろ、怒るわよ」
有澤は両手を挙げて降参のポーズを取る。彼女を怒らすことのできる人など氷室課長ただ一人だと思っていた。なんだか最近上司に似てきたな、と自分でも思った。あまり良い傾向ではない、気をつけよう。
「で、どうだったの?」
「さあ、どうでしょう? 来たときよりは表情は和らいでましたけど」
「そ。ならいいけど。何て言ってあげたの?」
「別に。何もしなくていいと。非常勤になる必要もないって」
「そこまで言ったのね。ま、あなた、この仕事嫌いだしね」
「ええ、大嫌いです」
あれはいつ頃だっただろうか。
佐野良介は自分の部屋の机に頬杖をついて考えていた。
机の上には英語の教科書、ノート、辞書、文法書が開かれているが、手をつけてはいない。
確か、五月頃……、いや、もっと前、四月の終わりだったはずだ。
二ヶ月も前のことを思い出そうとするのは容易ではない。二ヶ月もの間、調子を崩しっぱなしの一人も尋常ではない。彼がそうなったのはいつがきっかけだっただろうか。
思い出そうとしても記憶に靄がかかってなかなか答えが出てこない。
「……車。そうだ、青い車だ」
おぼろげながら脳裏に浮かぶ映像を捉える。
学校に青い外車が来てから彼の様子がおかしくなった。それでもしばらくたつと元に戻っていったように思う。何かきっかけがあったのだろうかと考えるが、思い当たる節はない。思い出そうとしても何も出てこない。自分の知らないところで解決したのだろう。
だが、再びその兆候が見えたのはいつだっただろうか。これはつい最近のはずだ。五月の終わり頃だった気がする。
この頃にはさらに、果山に対する態度がよそよそしくなった。別に二人が付き合っていて、喧嘩別れしたというのなら納得がいくし、どうでも良い。勝手にやってくれとさえ思う。
だが、見る限り、彼女に対するそれは、彼の最近の異変と一連のもののように思えた。根拠はないが、そう感じるのだ。
こう考えると、二人が何か得体の知れない事件に巻き込まれているのではないかと思ってしまう。
他のクラスメート、特に太一などは何とも思っていないのだろうか。
なぜ一人は自分たちに何も言ってくれないのだろうか。
そこまで考えて、階下からの声に思考を中断された。
「良介、ちょっとコンビニ行ってきてー」
これ以上考えてもフラストレーションが溜まるだけだ。ちょうど良かったかもしれない。
「わかった、行くよ」
佐野良介、十六歳。成績は優秀で教師からの評価も高い。おとなしい生徒で大人びているともいえる。
とすれば、反対に子供っぽいところはあまりない。例えば、歩道の縁を平均台のようにして渡ったり、タイルをきっちり一つ飛ばしで歩いたり、マンホールをたどっていったりということはない。(ほとんどの高校生はそんなことはしないだろうが)
しかし、そういうことがないがゆえに、何も意識をしない。つまり、マンホールを踏む事だって有り得ることである。
そして、コンビニの道への途中、そこにあったマンホールを、何の意識もなく彼は踏んだのである。
そして彼はその場から消えたのである。