第十二話 知りたくなかったこと
「……一人?」
紺のバギーパンツに紺のブルゾン。髪は左右で結ばれている彼女は紛れもなく果山花梨その人である。彼女の服装に対して一人は黒のジャージ上下とお粗末な格好だったから、少し気恥ずかしかったが、今はそれどころではない。
「……何してんだ、花梨」
「一人こそ」
彼女の表情はとても奇妙なものだった。読み取れない。感情がないのではなく、読み取れない。驚いているのか、悲しんでいるのか、はたまた喜んでいるのか。また、そのどれもなのかもしれないし、どれでもないのかもしれない。能面のように、表情はあるのにわからない、そんな表情だった。
「俺は数学のノートを取りに来た」
違う。そんなことはどうでもよい。今話すべきはそんなことじゃないだろう。そうは思いつつも言葉が出てこない。喉の奥では信号の無い交差点のように言葉が右往左往している。
「そう……」
彼女はそう言うが納得しているようには思えない。他人が見たらあまりにも不自然な光景だろう。バラバラになった机に囲まれて男女二人が数学がどうのと話している。有り得ない。
彼女は視線をずらす。彼の後ろの開かれた窓を見ている。気づかれただろうか。否。その前からわかっていることだ。
「ねえ、一人」
花梨は神妙な面持ちで口を開く。今なら表情が読み取れる。だが、一番近いと思った感情は、悲痛、だった。
「一人”も”非常勤なの?」
聞きたくない言葉だった。脳がその言葉を咀嚼しない。拒食症になった脳がその言葉を拒否する。受け入れられない。
「お前”は”非常勤なのか?」
否定の意味を込めてそう答える。
「……うん」
ほんの少しの躊躇いの後に、彼女は頷いた。
「そうか」
だからどうした。自分には関係のないことだ。どうすればいいというのだ。
……本当にそうか? 関係ないのか? 十六年間の人生で、一番近くにいた幼馴染が。
「何で……」
言葉が続かない。「何で黙ってた?」当たり前だ。話せるはずがない。「何でそんなことを?」知ったことか。どれもが適切であり、不適切であった。
「みんなを、護るためだよ」
知らない。そんなこと知らない。
「だって……」
誰にだってできるだろ。氷室だっているんだ。
「私にしかできないから」
違う。能力者なんて一杯いる。警察の地下に行けば能力者なんて大勢いるんだ。
花梨は首を横に振る。
「私は能力に目覚めた。だったら、私にしかできないことがあるはず」
「死ぬんだぞ……。下手したら死んじまうんだぞ!」
「わかってる」
「わかってない」
「わかってる! 私はわかってる。だから、一人もわかって……」
何をだ。冗談じゃない。
彼女はそれ以上言葉を繋がなかった。一人も何も言えなかった。過剰なまでに重い空気が教室に充満していく。
「今は」
長い沈黙の後、一人は言葉を搾り出す。
「話してる場合じゃないんだろ? これをやったヤバイやつがいるんだろ?」
そう言って、足元の机の残骸を蹴り飛ばす。虚しくそれが音を立てる。
「…………うん」
「じゃあ、そっちを何とかしよう」
帰れなくなっちまったじゃねえか。
確認した結果、少なくとも三階の普通教室、つまり鍵の付いていない教室はほとんど被害にあっていた。無残なまでに瓦礫と化した机が虚しく佇んでいる。明日はおそらく休校だろう。授業ができない。
「四階も、駄目だったよ」
花梨が言う。彼女は一人より前に来ていたらしい。既に確認済みのようだ。
「じゃあ、次は下か」
その時、下の階で大きな音がした。一階か二階か、とにかく二人は階段を駆け下りる。
中央階段を下りると、右手から音が聞こえる。花梨は廊下の照明をつけた。
一番奥の教室から一人の男が出てきた。
「あいつ……」
「知り合い?」
「いや、知ってる。けど、知り合ってはいない、たぶん」
彼は一人が届けた教科書の持ち主だった。
「たしか、山本なんとか……」
彼は制服のままだが、ブレザーを脱ぎ、Yシャツの袖とズボンの裾を捲り上げている。昼休みに体育館でバスケットボールの興じている高校生と同じ格好だが、この場でそうしている意味がわからない。そもそもここにいる意味もわからない。
「誰ですか?」
少年は微かな声で尋ねた。
「僕の邪魔をするんですか?」
少年は続ける。
「そうだよ」
花梨が静かに告げる。一人は何も言えなかった。
「……力を手に入れたんだ。これであいつらなんか。あいつらなんか目じゃない。あいつらに勝てる力を、あいつらを殺せる力を手に入れたんだ。邪魔しないでください!!」
少年はそう言って駆け出す。
やはりいじめか。そう思いながら一人は前に出る。花梨が非常勤だろうと、ここは男の自分が前に出るべきだと思った。
正直言って、遅い。氷室、黒島と比べれば雲泥の差だ。
軽くいなして、フルボッコ。そんな単純なストーリーを思い浮かべた。
机が、切り刻まれていた。
ふと頭をよぎって、足が止まる。あれを、こいつがやったのか? なら――
一人の前に花梨が出て行った。彼女は懐から三節棍のような三つ折りの棒を取り出し、一本に組み立てる。少年の繰り出した手刀をそれで受け止めた。
「嘘だろ……」
普通、手刀なんかで金属の棒を叩けば、下手したら骨が折れる。身体強化された今でも絶対に痛い。なのに彼は涼しい顔で鍔迫り合いを演じている。
花梨は少年を押し返す。彼はよろめき廊下に置いてあるロッカーに手がぶつかった。
ロッカーが、裂けた。
「え!?」
「冗談じゃねえ……」
「邪魔をするならあなたたちも殺します!」
起き上がり、こちらに迫り来る。今度は左足で花梨の右側を狙う。それを花梨は棒で防ぐ。
花梨が防御に徹した隙を突いて、彼女をかわすと一人へと向かった。
「ちょ……!」
手ぶら。無防備。そんな状態で手刀を受けたら……。
一瞬、恐怖で足が止まった。止まらなければ避けることも可能だったかもしれない。だが、もう遅い。
一人の視界に影が現れる。それは、花梨だった。速い。
間に入った花梨は棒で手刀を防ぐとそれを押し上げる。手が上がって無防備になったところに、鳩尾に突きを繰り出した。
「うっ!」
少年は吹き飛び、床やロッカーを傷つけながら数メートル吹き飛ぶ。
「一端、距離を置こう」
花梨は一人の手を取ると走り出した。
「どうすんだよ?」
そう尋ねる一人の手にはブラシ部分を無理矢理剥ぎ取った自在箒の柄が握られていた。ないよりはマシだろうと思いどこかの教室の用具入れから失敬したのだが、おそらく一撃で真っ二つになってしまうだろう。
二人がいるのは体育館の男子更衣室である。普通教室は無意味。他の教室は鍵が掛かっている。身を潜めそうなのはトイレか更衣室くらいだった。だが、それは向こうもわかっているだろう。見つかるのは時間の問題だ。
「第一、逃げてきたけどよ、あっちに逃げられる可能性もあるんじゃね?」
「大丈夫」
花梨の表情は真剣そのものだった。言っては悪いが、こんな真剣な花梨は初めて見たかもしれない。
「ま、いわゆる口封じってやつ? 絶対私たちを始末しに来るよ」
「冷静にそんなこと言われてもな」
「それにね、あの子は能力に目覚めたばかりのはず。だったら、目の前の標的を前に逃げたりしないよ」
いつだか氷室が言っていた「目覚めたばかりの破壊衝動」のことだろうか。
一人は自分と花梨を交互に指を差す。花梨は意味を掴みかねて目を丸くしていたが、やがて理解したようで、微笑んだ。
「だって、私や一人は誰かを殺したいとか思ってないでしょ? そういうものだよ」
「……まあ、わかった。けど、どうすんだよ。まるっきり漫画の世界だな、こりゃ」
「とにかく、あの子の能力を把握しないと……」
「触れたモン全部ぶった切る。それだけじゃねえか」
「もっと細かい条件だよ。こっちが攻撃したときはどうとか、体のどの部位が変化するかとか……」
「そういや、足でも攻撃してたな」
袖や裾をまくっていたのはこのためのようだ。
「私の突きが生身だったら相当のダメージだと思うけど。急所に入ったから」
あれは、痛そうだった。それでも無事なら、防御にも使えるということか。
「問題は、意識的なのか、無意識なのか、だな」
「どう思った?」
「あ? 何が」
「あの子の闘い方」
「あの子、ねえ……。一個下なんだけどな。とりあえず、素人、てか元々運動音痴だったんじゃねえ? 能力さえなけりゃ、どうとでもなる。フルボッコだ」
そこまで言って、それでは彼をいじめていた連中となんら変わりないことに気がついた。複雑な気分になったが、彼を止めるにはおそらく痛めつけるしかないだろう。こうして負の連鎖が生まれていくのだろうか。
「うん。動きは遅いし、形もめちゃくちゃ。そんな人が私の攻撃に反応できると思う?」
「無意識、ってことか」
「今も無事ならね」
「確かめてくるか?」
「一人が?」
「冗談よせ」
「冗談だよ」
彼女は片目を瞑って下をちょろっとだした。緊張感の欠片もない。だが、それで少しは落ち着くことができた。
「てかよお。氷室待った方がいいんじゃねえ?」
体育館の入り口で大きな音がした。つまり、彼は無事だったということである。ちなみに入り口は鍵が掛かっている。教官室から拝借したものだ。だが、あの能力の前にはもう数分も持たないだろう。
「そんな時間はないみたいだよ」
花梨は傍らに立てかけていた武器を手に取る。一人も舌打ちして箒の柄を手に持った。何とも頼りない武器である。更衣室から出る。
体育館の広い空間に出た。
「ま、ここの方がロッカーとか机の破片とかが飛んでこなくて有利かもね」
「攻撃が効かなきゃ意味ねえけどな」
大きな音と共に入り口の扉が両断された。隙間から少年が入ってくる。
「小癪ですね。あなたたちにはもう死んでもらわなきゃいけないんですよ」
「どうして?」
わかりきったことを花梨は尋ねる。
「邪魔なんですよ。あなたたちは僕の邪魔をする気でしょう? それに顔も見られた。だったらもう、戻れないんですよ。僕はもう僕をいじめたやつらを殺さなきゃいけないんです」
「どうして?」
花梨は再び同じことを尋ねる。神経を逆なでしているとしか思えない。何を思っているのだろうか。
「どうして? どうしてもです。あなたにはわからないっ!! 僕の! いじめられる人の気持ちなんてわからないんだっ!!」
「うん。わからない。わかりたくもない」
言いすぎだ。一人は思った。
彼の怒りに満ちた、それでいて悲しそうな表情が一人の心に突き刺さる。一人自身、いじめたことも、いじめられたこともない。いじめに遭遇したこともない。だが、だからこそ彼の心境は計り知れなくて、膨大で、怖かった。どうしたらこうまでなるのだろう。
「わからないから、私は君を止めるよ」
滅茶苦茶な論理で、彼女は少年に立ち塞がった。