第十一話 忘れ物
目覚まし時計が鳴る。それをベッドから起き上がることなく、手探りで止める。そして、もう一度惰眠を貪り、五分後、再び鳴った目覚ましで今度こそ起き上がる。
彼の起床パターンの中ではこれが一番多い。
これが高木一人の日常。そう、日常。
のそのそと動き出し、準備を始める。
黒島の事件からひと月ほど経った。太一と良介は嘘みたいに事件のことを忘れていたし、これといって事件に巻き込まれることはなかった。
そうして、ちょっとずつ日常に戻っていった。なかなか寝付けなかったり、眠りが浅く朝早くに起きてしまうこともままあったが、最近はそういったことはめっきり減っていた。そうして日常に戻っていく。
そうだったらいいのに。
確かに、目に見える変化はない。氷室との接触も今はほとんどないし。ニュース、新聞を見ていてもおかしな事件はない。あったとしても、自分には関係ない。そう、関係ない。
だが。
それでも、確実に自分の体には異常が起きている。それは間違いなかった。加減をしなければ、吃驚人間ショーに連れて行かれるほどの身体能力、いや、それどころでは済まないだろう。
異常なほどの足の速さや腕っ節の強さ。やろうと思えば軽々と民家の屋根に上ることができるし、蹴り飛ばせば大の大人を軽々と吹き飛ばすことができる。
日常には戻れない、それを思い知る。
「非常勤、ね……」
さらなる憂鬱の種が氷室のスカウトである。ここ数週間は接触はないものの、最初に聞いたときはわけがわからなかった。
非常勤。
その名の通り常勤に非ず。その職業は警察官ではない。もしかすると職業ですらない。端的に言えばアルバイトだ。
普段は何事もなく生活してよい。ただ、何かあれば呼び出され、闘う。異能の犯罪者と、闘う。
一刻を争う状況になれば、特命部だけでは対処に遅れる、そんな時に必要な人間たちだそうだ。
もちろんそれには死が纏わり付く。死んだって文句は言えない。その分報酬は多分にあるらしい。そんなものに誘われたのだ。
そんなもの誰がやるか。冗談じゃない。
だから言ってやった。ふざけるな、と。
そしたら、あいつは笑いやがった。そりゃそうか、と。
そして、こう続けやがった。ま、考えといてくれ、と。
「やってられるか」
一人はため息をつく。そして、家の扉を開けた。半袖にはまだ早い、だが確実に温かくなりつつある五月の風を全身に受けた。
「あ、やべ」
二時間目の数学が終わり、次の英語の準備をしていると、予習をしていないことに気がついた。普段なら別にいいか、となるのだが、今日は確か自分に当たってくるはずである。英語の教師は、未だにチョークを投げつけるという前時代的な教師で(はたしてチョークを投げる時代が本当にあったかについては疑問の余地が残る)、当たるとなかなかに痛い。成績に響くのも痛いので何とかしなければいけない。
一人は立ち上がり、良介の席まで行く。
「良介、ノート見せてくれ」
参考書を読んでいた良介はチラッと一人を一瞥すると、そのまま参考書に視線を落とした。
「おいこら」
「何だよ。ああ、確か今日はそっちの列だったな。ふうん」
「貸してくれよ」
良介は参考書を閉じると一人の方を向き直した。そして、俯き加減に眼鏡を直し、上目で一人を見た。眼鏡のレンズに蛍光灯の光が反射して表情は見て取れない。
「……貸してください」
良介の態度に気おされて、一人は下手に出た。
「ただじゃないぞ」
そう言って良介は英語のノートを差し出す。
「始まる前に返せよ」
「わっかりました」
急いで席に戻ると、自分のノートを開き、無心で書き写す。すると前の席の太一が振り返った。
「あーあ、いーけないんだ、いけないんだ。せーんせーに言ってやろー」
「うるさい。死ね」
邪魔をするな、と一人は太一を無視して黙々と作業をこなす。作業であって勉強ではない、確かに身にならないがチョークを飛ばされるよりはマシである。
「いいのかなあ。一人様とあろう者が、宿題を書き写すなんて真似していいのかなあ?」
「いい。うるさい、話しかけんな」
「いやあ、嫌んなっちゃうよなあ。こんな不真面目な生徒に成績で負けてしまうなんて」
そういう太一は学年はおろか、クラス内でも下から数えた方がはるかに早い。そんな彼に成績の話をされるのは癪に障る。そちらのほうが不真面目な生徒だろう、と一人は思う。
とりあえず、脳天に一発入れて黙らせることにした。
散々なじった挙句、自分は予習をしていなかった太一は教師のチョーク攻撃をモロに喰らっていて、ざまあみろ、と思った一人だった。
「一人、これ職員室に持っていってくれ」
三時間目の数学を無事に乗り切り、四時間目の地学も睡眠という手段で難なく乗り切った一人だったが、良介の持ってきたプリントの束に閉口する。これを持っていったら昼飯が買いに行けないではないか。
「えー」
ひとまず、一人は抵抗してみることにした。できるだけ不満そうな顔をして、良介を見上げる。しかし、良介の表情は揺るがない。動かざること山の如し、とはこういったことを言ううのだろうか。
「ノート貸してやったのは誰だ?」
「だって、飯食えないのは辛えよ」
今度は不満そうな顔から不憫そうな顔へとシフトする。
「俺だって嫌だ。いいぞ、金輪際ノート見せてやらないから」
「わかったわかった! 行きゃあいいんだろ行けば」
「わかってるじゃないか。ほら、太一行くぞ」
「おう」
頭上にタンコブを作り、額がやけに白い太一は何だか不憫に見えた。だが、あいつが悪いんだと気にしないことにする。
「何か買ってきてくれよ」
そのタンコブを作った張本人だが、そのことは忘れてくれ。
だが、太一は手を耳に当てて「聞こえない」のポーズをするだけだった。この鬼畜め。
「一人、購買行くの?」
花梨が話しかけてくる。
「あ? 職員室だよ。見りゃわかんだろ。まあ、その後で行くけどよ。パシリは勘弁だぜ」
「そんなんじゃないし」
「じゃあ、何だ。言ってみろ」
「あ、いや、その……」
花梨は両手の指を合わせたりしている。何やら言いづらそうにしている。
ほらみろ、パシリじゃねえか。
一人は二階にある職員室へとプリントを届け終えた。おそらく、これから直接購買に行っても何もないだろう。太一と良介が何か買ってきてくれるのを祈るしかない。
「あ、高木」
誰かに呼び止められて一人は声の方を向いた。
「ああ、高島か。どうした?」
隣のクラスの男子だった。野球部で、わりと話す方だが、きっかけは思い出せない。だが、友人とはたいていそのようなものなのだろう。
坊主頭の少年は職員室から出てきたところだった。おそらく一人と同じように何かの仕事があったのだろう。
「これから体育館でバスケやるんだけど、来る?」
「バスケか……。いいよ、行く。けど、途中購買寄ってもいいか? 飯買ってないんだ」
「ああ、ドンマイ。どうせねえよ」
「だろうな」
そう言いながら職員室横の階段を下りる。
図書室の前を通りかかったときに、先のゴミ捨て場のところで目についたものがあった。
収集車に運びやすいように外と繋がっているそのゴミ捨て場は、教室清掃のときにまとめてゴミを捨てに来る場所であって、そこに個別に捨ててはいけなかった。
収集しやすいように分別されてゴミ箱にまとめられている。そのゴミ箱とゴミ箱の隙間に無造作に何かを投げ捨てた男子生徒三人組がいた。彼らはこちらに気付いていないようだった。
彼らは楽しそうにそれを捨てると笑いながら去っていった。
「何だ、あいつら?」
高島が首をかしげる。
一人はそれを拾い上げた。それは数冊の教科書だった。
「……世界史、数学、理科総合。一年六組山本俊明」
「それって、あれだよな?」
「あれだろ」
「こんな進学校にもあったんだな」
「みたいだな」
「どうする?」
「さあ? とりあえず、とどけるよ。高島、バスケ行っていいよ」
「いいのか?」
「いいよ。来たいなら別だけど」
「あー、そう、だな……。じゃあ、任せた。また今度な」
居心地悪そうに高島はその場を去っていく。
一人はため息一つついて一年生の教室がある四階に向かうことにした。廊下を曲がったところで誰かとぶつかってしまった。
露骨な舌打ちが聞こえてきた。
「悪い、大丈夫か?」
舌打ちされたのを我慢して尋ねる。相手の男は一人を睨んだ。
「……痛いじゃないか」
「謝ってるじゃねえか、堀田」
堀田冬二。隣の四組の男子で、見るからにガリ勉である。だが、実は運動は得意という話である。学年で数少ないオール五を取れる生徒だろう。
一人は彼が苦手である。というより、彼が一人たちを敵視しているのである。
「……佐野くんに言っておいてよ。次は負けないから、って」
「知らん。あいつはそんなこと興味ねえぞ」
彼は定期考査で毎回学年二位である。一位は実は良介である。だから彼は良介を、さらに良介と普段一緒にいる一人や太一を敵視しているのである。
「ふん。負けたときのいいわけかい?」
気味の悪い笑みを浮かべると堀田は歩いていってしまった。
「だから、興味ねえって」
聞こえないように呟いて、一人はそのまま階段を上がっていく。
つい数か月前まで通っていた四階まで行き、六組の教室を覗きこんだ。
(ああ……)
思わずため息が出そうになった。
雰囲気が悪い。何がそうさせるのかわからないが、たしかにそう感じる。山本という少年には悪いが、妙に納得してしまう。
「なあ、山本ってやついるか?」
一人は入口の近くの男に話しかけた。
彼は黙って指を差した。
「……どれ?」
「あの、一番奥のやつ」
「ああ、ありがとう」
一人は礼を言って一番窓側の一番後ろで一人でいる少年のところまで歩いていった。
「山本君?」
一人がそう呼びかけると、少年は少しだけ顔を上げた。前髪は目が隠れるほどまで伸びていて、表情はうかがいにくい。ただ、全身からおとなしいというか、あまり良くない雰囲気がでていた。
「あの、これ。落ちてたから」
一人は教科書を差し出した。少年は黙ってそれを受け取った。少しだけ頭を下げたように見えた。
「じゃ」
少年が何も話さないので、そのまま一人は教室を出た。
昼休みに居心地の悪い時間を過ごしたが、その後は特に何もなく、日常、常の日と呼べる一日だった。教科書を届けた後、急いで購買に行ってみたものの、何もなかった。無論、二人は何も買ってきてくれていなかった。午後を空腹で過ごし、放課後は三人で帰り、途中でコンビニに寄って腹を満たし、駅前のゲームセンターで遊んで、程よく金をばら撒いて帰宅した。そんな一日。何もない一日。
こんな日がずっと続けばいいのに。
夕食を済まし、二階の自分の部屋に篭る。数学の宿題をするためだ。本当は面倒だったが、さすがに二日連続で良介が見せてくれるとは思えない。なんだかんだで頑固なやつなのだ。
英語の持田、数学の米田は学校でも有名な鬼教師で、宿題を忘れた生徒、授業態度の悪い生徒には容赦がない。なぜそんな教師二人そろって教科担任なのだと、一人のクラスでは不満が募っている。
要するに宿題をしないとマズイということである。
「しまった……」
だが、鞄を漁って、肝心のノート、教科書がないことに気がつく。冷や汗が背中を伝う。たかだか、宿題くらいで冷や汗が出る自分を情けないと思った。
時計を見ると八時を回っていた。正直なところ面倒くさい。しかし、明日のことを考えると、何とかしなければいけない。これが数学でなければ完全に放置するのだが。
選択肢は、学校に取りに行くか、明日の朝に早く登校するかだ。面倒をとるか、睡眠をとるか、両者を天秤にかけると、それはグラグラと揺れた。やがて、沈んだのは睡眠の方だった。
仕方ないか。学校までそんなに遠い距離ではない。わざわざ宿題をするために学校に戻るなんて、なんて自分は真面目な生徒なのだろう、などと冗談めいたことを思った。
一人は家を出た。
今日こそは、と思ったのだが。
というより、今日を逃していつ、という話である。
「はあ……」
花梨は自室の机に頬杖を突いてため息をついた。ああ、幸せが逃げた。そう思うともう一度ため息が出そうになるが、悪循環に陥るので我慢。
数学の宿題をやっているが、ちっとも進まない。毎日チャンスを逃しているから、普通はへこたれないのだが。失敗することがルーティーンになりつつもある。
だが今日は、本当に絶好の機会だった。本当に柑奈に詰られた。ひどい言われようだった。
「だってねえ……。幼馴染ってのは大変なんだよ」
十年を掛けて構築された距離。それは近いようで遠いようで。問題は遠近よりも、その距離を変えることの難しさである。
「縮まらないなあ……」
言うなれば二人の距離は姉弟みたいなもの。
姉弟みたいなもの、という関係は事実だし居心地はいいけれど、縮まる気配を見せないその距離は……。
もどかしい。
いらいらする。
悲しい。
腹立たしい。
様々な感情が渦巻いている。手当たりしだいミキサーに詰め込んでかき交ぜた得体の知れないジュースみたいだ。よくわからなくて、飲まずに排水溝に捨ててしまいたいけれど、どうやら排水溝は詰まっているようだ。
何度こんな気持ちになっただろう。何度自分が嫌になっただろう。
花梨は腕の中に顔を埋める。
傍らに置いていた携帯電話が振動する。学校から帰ってからマナーモードを切るのを忘れていた。マナーモードにし忘れて学校に持っていくよりは全く問題はないのだが。
誰だろう、と思うがどうせメールだろうと、後で読もうと、放置する。だが、携帯電話は振動を止めない。どうやら電話のようだ。
ゆっくりと起き上がり、ディスプレイを確認する。そして、名前を見てため息をついた。
「ああ、幸せが逃げた……」
当たり前といえば、当たり前である。
「まいったな……」
夜八時を過ぎているのである。高校生にとってはまだ早い時間である。だが、学校にとってはそうではない。校則で部活は七時まで、八時には完全に施錠される。帰宅部の一人はそんなことは忘れていて、学校に到着してから気がついた。
「どうすっかな……」
一人はその場に立ち尽くしながらも頭を働かせる。たしか、警備員はいい加減だと聞いたことがある。そして、一人のクラスの清掃もいい加減である。
「よし」
一人はまず、正面玄関の庇屋根の上に飛び上がった。そして次に三階の窓に向かって飛び上がる。窓の縁に器用に乗りかかるとそのまま左に教室一つ分、二つ分と飛び乗る。そこが一人の教室である。不安定な体勢ながらも窓の施錠を確かめると、三つ目の窓が開いていた。
たかが宿題のためにここまでしていることに情けなくなり、嫌がりながらも異能をいかんなく利用している自分に嫌気が差したが、済んだことは気にしないと言い聞かせて教室に入り込んだ。
「…………は?」
一人は目の前の状況に目を疑った。
クラス中の机が切り刻まれていたのだ。
室内は暗くてよく見えないが、間違いなく切断されている。まるでジャガイモを切ったかのように机が切断されていた。切り口は鋭利で、一太刀で切ったようだった。かなり切れ味はいい。
自分の机があった場所まで向かい、机の残骸を漁る。そして数学の教科書とノートを発見する。切り刻まれてはいなかった。名前なんて書いていなかったが、間違いなく自分の物である。
「さーて、目的の物も見つかったし、帰るか。……とはいかねえよなあ」
一人は携帯電話を取り出し、電話帳から目的の宛名を探す。できれば掛けたくない番号だったが仕方がない。この状況を見れば原因は一つしかない。
数度のコールの後、相手に繋がった。
「どうした、非常勤になる覚悟でもできたか?」
開口一番にそれである。口には出さなかったが、黙れ、と内心で思った。
「違えよ」
氷室には以前の事件のときに連絡先を聞いておいた。特に連絡はしたくないのだが、何かあったときに困るためだった。
そしてふと思う。いつか彼が言っていた、『見えないものが見える』とはこういうことなのかもしれない。
今回は明らかに異能のせいである、とわかるものだったが、もしかしたら今まで気がつかなかった、見えていなかったものが異能によるものである、という場面が出てくるのかも知れない。
「まさか、また追われてるとか言うんじゃねえよな。面倒くせえ」
口癖でつい出てしまった、というよりは、本心から面倒くさいのだろうと思わせるような気だるさを感じ取れる声だった。
「面倒くさがるな。仕事しろ仕事。まだ襲われちゃいねえよ」
「まだ? 何処だ?」
「稲宮高校」
「……ああ」
「気のねえ返事すんな!」
「大丈夫だ。非常勤が向かってる」
「へ? もう?」
「特命部舐めんなよ。こちとら立派な情報網持ってんだ。俺も今からそっちに行くところだ。まったく、定時に帰れる仕事についてみてえなあ。まあいいや、おめえはさっさと帰りな」
「ああ、そうかい。じゃ、遠慮なく」
一人は電話を切った。何故だかわからないが、既に非常勤が向かっているらしい。ならば自分にできることはない。後は勝手にやってくれ。
その時、廊下から足音が聞こえた。
犯人か?
非常勤か?
どちらにせよ見つかる前にこの場を離れた方がよさそうだ。
だが、そう判断して動こうとした瞬間、机の切れ端(何とも滑稽な表現だろう)を蹴飛ばしてしまい、鈍い金属音が響き渡る。足音が早くなった。
教室の電気がつく。
「え」
「…………一人?」
そこにいたのは果山花梨だった。