第一話 サイコロの一
例えば、仏のように優しい先生がいたとしよう。授業中寝ていても怒らない、テストは馬鹿みたいに簡単。しかし、その先生がいつまでも仏でいるという保証はどこにあるのだろうか。堪忍袋の緒が切れて、授業中に寝ていた生徒を容赦なく落第させ、テストは鬼のように難しくなる、ということは有り得ないわけではない。むしろ、その可能性の方が高いかもしれない。生徒はいつ暴落するかわからない株よりも遥かに不確かな確率にすがっているのだ。
例えば、一年間のうちに交通事故にあう確率は〇.九パーセントであるという統計がある。これを見ると、事故にあう確率などたかがしれているかもしれない。しかし、あくまでそれは確率論である。賽の目が当たってしまえば呆気なく事故にあい、場合によっては死に至る。
余談ではあるが(極論を言うとここで論じていることすべてが余談なのだが)、一年間に事故にあわない確率は九九.一パーセント。これを人生八十年と仮定して八十乗すると、ほぼ半分。二人に一人は一生のうちに事故にあってしまう。
他にも宝くじ、癌、リストラ。自分には縁がないと思っていても、それが確率的に非常に低いものであったとしても、ゼロではない以上自分の身に降りかかり得るのである。
これは自分たちの身近な生活圏に留まらない。もしかしたら、一九九九年に世界は滅んでいたかもしれないし、二〇〇〇年にコンピュータが使い物にならなくなっていたかもしれない(これを回避したのは人間の努力によるものではあるが)。ただ単に確率的に外れただけの事で、十分に起こり得たことである。
二〇一二年に世界は滅ぶかもしれない。二一一二年に猫型ロボットが誕生するかもしれない。誰かが勝手に何の根拠もなく述べたことであっても、それが確実に起こらないと誰が証明できようか。(もちろん、確実に起こると証明するほうが格段に困難であることは考えるまでもないのだが)
明日には首相が暗殺されるかもしれない。一年後には相対性理論が覆されるかもしれない。十年後にはヒ素を食べる人間が出てくるかもしれない。
どんなに馬鹿馬鹿しくても、あるいは有り得そうでも、それは数字上の問題でしかない。仮にサイコロが六面中五面が六であったとしても、一が出ることは有り得るのである。六分の一というのは相当に高い確率である。そして、それはどんなことにも当てはまる。
つまり。
目の前で、人間が人間を何の道具も使わずに焼き殺していても、それは十分に可能性の範疇なのである。
「はあ、はっ……はあっ」
少年、高木一人は走っていた。逃げていた。人間から、脅威から、恐怖から。
それはあまりにも偶然過ぎた。たまたま友人と遊んでいて帰りが遅くなっただけだ。ただ単に気が向いて、いつもとは別の道から帰ろうと思っただけだ。何の気なしに河川敷を通っただけだった。偶然がいくつか重なっただけにすぎなかった。
そこは薄暗く人通りの少ない道で、舗装されているが狭く、道の両端には木々が生い茂り死角の多い場所だった。この河川敷は概ねそのような道が延々と続いている。
そこで信じられない光景を一人は見てしまった。
人が、人を、殺している。
こう言ってしまうのはあまりに不自然だが、それだけなら納得できたかもしれない。死角に隠れ息を潜め、犯人が立ち去るのを待ち、逃げ帰って警察に電話すればよいだけのことだ。被害者には気の毒だがもう間に合わない。
しかし、それでは収まらなかった。
人が、人を、焼き殺している。
何度も言うが、不自然ではある。だが、これも結局は同じことであったはずだ。灯油をかけて火をつければ、人間は呆気なく燃える。死ぬ。犯人がいなくなった後で警察に電話すればよいだけのことに変わりはない。
だが、しかし。
人が、人を、道具も使わずに、焼き殺している。
これも極論を言えば、同じことである。何とかやり過ごせばいいだけのこと。それが彼に与えられた選択肢のなかで安全に生還することができるもっとも確率の高い方法だった。だが、彼はその光景が彼のの常識を遥かに逸していたためにその選択肢を取ることができなかった。ただ、今現在、第三者がいたとすれば、本人の意思とは関係なくその場を動けずにいたためにその選択肢を取っているようには見えただろう。
夢だと思いたかった。だが、夢を現実と思い込んだことはあったが、現実を夢だと思い込んだことはないし、これが現実だということも自覚していた。
上下スウェットでだらしなく髪の伸びた男が相手の頭を鷲掴みにしている。そこからあろうことか、炎が噴き出し相手の体を包み込んだ。聞くに堪えない叫び声をあげてその人は呆気なく死んだ。真っ黒なケシ炭になったのだ。
真っ赤に燃えるその色が、常軌を逸したその光景が、一人の脳裏に焼きつく。火……身近なものだ。飯を食うには必要不可欠で、煙草を吸う人なら、口元すれすれまでそれを持ってくる。それほどまで近い存在。
それが、こんなにも遠くて、残虐で、残酷なものだとは思っていなかった。放火などのニュースを見ていても実感できなかった感情が一人の体に湧き上がってくる。
鼻につく肉の焼ける臭い。人間の肉が焼ける臭いは初めてだった。
「うっ……」
嗚咽感がこみ上げてくる。
あまりに信じられない状況に一人の思考は停止していた。脳の信号が渋滞を起こし、感覚が麻痺する。立っているという自覚も感じられずにただそこにいるのが精一杯だった。
ついには、一人の体が震えだす。恐怖や脅威といった様々な負の感情がふつふつと湧いてきた。
そして、膝が笑いだす。顔は引き攣り笑顔などないが、膝は、何がおかしいのかというほど笑っている。笑うなと自らに訴えかけてみても、無駄だった。
「……あ」
前触れもなく、完全に力が入らなくなって、その場に尻餅をついた。もちろん周りの草木はガサガサと音を立てるし、もちろん犯人にも聞こえただろう。ここでもっとも安全だった選択肢を彼自身が消してしまった。
犯人は声を上げなかった。そのため、気が付かれたかどうか瞬時にはわからなかった。だが、声の代わりに、男が一歩踏み出した音が聞こえた。それは、やけに大きく聞こえた。その音は確かに一人の方に向かっていた。
体が動かない。力が入らない。手足が震える。
動け、動け……!
動かなくては、逃げなければ、間違いなく殺される。
「……動、けっ!!」
自らの体を叱咤し、一人は跳ぶように立ち上がった。
やっとのことで体の制御権を取り戻した一人は相手を確認することなく、走り出した。同時に男の足音が早くなったのが聞こえた。
走った。ひたすら走った。追いつかれまいと走った。追いつかれれば殺される。考えるまでもなかった。
一度だけ後ろを振り向いた。まるで適当に鬼ごっこをしているのかと思えるような、つまり、まるでランニングでもしているかのように、軽々と余裕を持って走っているように思えた。いつでもお前くらい殺せるぞ、そう言っているかのようで、一人の恐怖心を一層煽る。
「そうだっ!」
一人は一つの策を思いつく。というよりも、なぜそう考えなかったのだろうと思ってしまうほどのものだ。この河川敷は平行する道路よりも五メートルほど低くなっているが、その道路は大きいもので、人通りこそ少ないものの車の交通量は多い。道路までの五メートルは階段以外は急な坂だが上れないことはない。
道路に出さえすれば……。出さえすればいくら殺人鬼と言えどもやすやすと犯行に及ばないだろう。
一人は進路を右に変え、芝状の坂を上り始める。
ところが。
「……あっ!?」
夜露のせいか、見事なまでにスリップして一人は芝の上にうつ伏せになる。
追っていた男の足音もゆっくりになり、近くなる。一人は恐怖のあまり、うつ伏せになったまま相手を確認することもできない。自分の鼓動だけがやたらと大きく聞こえた。走ったための汗のほかに恐怖からくる冷や汗が混じっているのがわかった。
万事休すとはこういったことを言うのだろう。
やがて足音が止まる。
ゆっくりと手が伸びている、気がする。
掴まれれば先ほどの人と同じように黒焦げの炭になってしまう。
死にたくない。
助けて。
誰か。
お願いだ……。
願ってみても状況は変わりはしないだろうことはわかりきっていた。
一人は死を覚悟した。
刹那、冷たい空気を感じた。
静かだった周りが、さらに静かになった気がした。
一人は恐るおそる首だけを回して振り返った。
男が、氷漬けにされていた。
氷の彫刻のように真っ白になっていた。氷の結晶の中に人が入っているようにも思える。
右手は一人の寸前まで伸ばされ、表情は不気味なほどに悦びに満ちている。それが、時が止まったかのように、まるで芸術品のように動かないでいる。
その後ろには、また違う男が立っていた。
ツンツンの頭に鋭い眼光、無精髭に頬には切り傷。筋骨隆々とまでは行かないが十分すぎるほどの体躯。服装こそスーツを無難に着こなしているものの、正直堅気の人間には見えなかった。
「おう、大丈夫か少年」
その顔と見事にマッチングした想像通りの低い声。幸いだったのは、思った以上に棘のない口調だろうか。それでも一人を委縮させるのには十分だった。
「よかったな、面倒くせえことにならなくて」
そう言うと男は胸ポケットから煙草を取り出しライターで火を点けようと試みる。だが、ライターはオイル切れらしく、むなしく小さな火花を散らすだけだった。
「ちっ、面倒くせえ。どうせなら最後にコイツに火、もらっておけばよかったな」
男はライターを投げ捨てる。その様子を一人は呆然と見つめる。
「あ? ああ、見たからな。コイツが殺ったやつ。面倒くせえ、あれじゃ男か女もわかりゃしねえ。ん? ちげえよ。そりゃ助けたかったよ。見殺しにしたわけじゃねえ。俺が来たときはもう遅かった。残念だがな」
男はべらべらとまくし立てるが、正直なところ、一人は彼の言っている意味がほとんどわからなかった。ただ、男から目線をはずせずにいた。
彼は自分を助けてくれた。だからといって気を許していいとは思えない。彼も、常識では考えられないことをやってのけている。人を氷漬けにしているのだ。そもそも、助けたのは結果論であって、助ける気はなかったかもしれない。
一度は落ち着いた得体の知れない恐怖が再びこみ上げてくる。
「っと。最後の仕事だ。悪く思うなよ、少年」
「え?」
「つっても、覚えてはいられねえけどな」
男は怪しげな笑みを零す。そしてポケットから別のライターのようなものを出す。
「ああ。これ、ライターじゃねえよ。って、あれ?」
男は上半身だけ起こした一人の顔にそのライター状のものを近づけるが、それは先ほどのライターと同じくカチカチと小さな音を立てるだけで、何も起こらなかった。
「マジかよ……。面倒くせ、ぶっ!!」
一人は起き上がり右足を振り上げて男の顎にクリーンヒットさせた。男は豪快に倒れこむ。その隙を突いて、坂を駆け上り、道路へと出た。
「あ、おい!」
不意をつかれ倒れこんだ男はすぐさま起き上がり、少年の後を追うように道路へと出たが、それだけだった。そしてポケットに手を突っ込んで呟いた。
「ああ、面倒くせえ……」