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◆ 5 ◆

 手応えはあった、と。

 全身の躍動をやめた途端、その実感が頭の天辺から爪先までを駆け巡った。

 水面を走る人々の息遣いがラシュファナの肌にも触れたのだ。

 私は無事やりおおせた。誰よりも、歴代よりもすばらしく花の巫女としての役割を全うした。

 その自覚が少なからずあった。胸を張り、堂々と舞台を下りればいいのだと、そのような判断も十分に頭の中では下されていた。

「…………」

 なのに、湖上舞台から陸地につながる橋を歩く間、ラシュファナは笑みを浮かべることができなかった。

 橋の下からラシュファナの名を呼び、花の巫女を讃え、色とりどりの花束を振る少年たち。神の加護を一身に受けた少女を自らの小舟に乗せようと、そして、彼女が受けた幸運を少しでもわけ与えてもらおうと、少年たちは必死に自分の存在を訴える。

 ――ラシュファナは、そんな彼らに微笑んでやらねばならなかった。

 その笑顔が少々ひきつっていようと、余裕を感じさせようと、驕っていようと、疲れていようと、かまいはしなかった。

 笑うことによって、笑顔を少年たちに向けることによって、神から授かった幸運を誰かと共有する意志があることを伝えることができたから。

 けれども、ラシュファナは笑えなかった。

 いけない、と思いながらも、ゆっくりと歩んでいくうちに、自ずと笑顔は薄れていった。

 そんな花の巫女の様子を見て、少年たちはますます熱くなった。まだ誰も選ぶ気がないのなら、まだ心に誰も決めていないのなら、この自分にでも機会があるのではないか、と。

 一歩一歩あゆむごとに、足元からの歓声は激しさを増す。水上に据えられた橋を揺るがす。

 この中から誰か一人を選ばなければならない――素早く視線を走らせ、ラシュファナは少年たちの顔を見た。

 以前より見知った少年もいれば、全く知らない少年もいた。大人に近い者から、まだ声変わりを迎えていない者までいた。両手でしっかりと握ったただひとつの可愛らしい花束を突き出す者も、舟の上いっぱいに敷き詰めた花々を誇らしげに示す者もいた。

 皆、ラシュファナの眼差しを待っていた。

 差し出される手を待っていた。

 一言を待っていた。

 闇の中で、無数の眼球がきらめいてラシュファナをとらえていた。

 自分、ただ一人を。

 熱のこもった瞳の一つ一つがラシュファナの身体に張りついていき、ますます表情をかたまらせた。

 早く、誰か一人を決めなければ――。

 いっそう忙しなく視線を走らせる。

 誰か決めなければならない。そう思いながらも、ラシュファナにはもう、どのようにして一人を選びだせばいいか、それがわからなくなっていた。

 一番花の豪華な者にしようか、それとも、よく知った安心のできる者にしようか、それとも、声のよく届く男にしようか、それとも……。

 ラシュファナ、ラシュファナ、と。

 自分を呼ぶ声が耳の奥でこだました。

 ラシュファナ、ラシュファナ、と。

 何度も何度も声が心を締め付けた。

 ラシュファナ、ラシュファナ、と。

 背後から迫るその声が、徐々に大きくなっていっていることに気が付いた。

 ――徐々に大きくなる? こんな状態の中? 誰もが花の巫女を求め、できるだけ橋に舟を近付けようとひしめきあっている中で? どうして背後から自分に近付いてこれる?

 ラシュファナ、ラシュファナ、と。

 何やっているんだ、来るなよ! という怒号が混じって聞こえた。

 異質な雰囲気を感じ、瞬時に身体を反転させた。

 すでに自分が過ぎてきた方向。その下に。

 篝火の赤を純粋に反射する色を見た。銀髪。光輝く銀。

「ラシュファナ!」

 目があって、彼は満面の笑みを浮かべる。

 ラシュファナは驚愕に双眸を見開くと、小走りになって近付くのだ。

「何やっているのよ!?」

 寄るなり怒鳴りつけた。

 彼は先程まで全く姿を見せていなかったはずだ。自分がどれほど待ち焦がれても必死になって探しても、群衆の中でもっとも目立つはずの彼の気配は微塵も感じられなかったはずだ。

 なのに彼はこうして自分の目の前にいる。みんなが花の巫女を求める中で、こんなにも近くにいる。

 ――どうして?

 疑問が頭をもたげるとともに、ラシュファナの目にはもう一人の少年が映った。銀髪の彼――ジェルバドゥネと同じ小舟に乗っている。表情からして、先程の怒号はこの少年のものだ。

 そう、ジェルバドゥネは他人の舟に乗っているのだ。

 さっと周囲を見やってみても彼が乗ってきたと思われる無人の小舟はない。どのようにしてここまで来たのかとラシュファナは訝しんだ。しかし。

「ごめん、遅くなった」

「――――」

 訪れた状況に少なからず戸惑うラシュファナにむかって、ジェルバドゥネは悠然と右手を差し出していた。

 目一杯上に向かって、自分に向かってできるだけ近くに置けるようにと、手を差し出していた。

 迷いなど、一切なく。ためらいも、疑心も、何一つなく。

「……本っ当に、遅いんだから……」

 ラシュファナは、屈みこんでその手をとった。全くの他人である少年の舟に飛び乗った。

 周囲が騒めきたった。落胆も驚愕も憤りもあった。

 打ち寄せる感情の波などには見ぬ振りをして、あなたの舟はどこにあるの、と、ラシュファナは銀髪の少年に問いただそうとした。

 だがそれより早く、彼女は担がれてしまっていた。気が付くと、ラシュファナの足は宙に浮かんでいた。視界は、橋の上にいたときと同じぐらいに高くなっていた。

 一瞬何が起こっているのか理解できず、ラシュファナはとりあえず下方を見た。

 笑っているジェルバドゥネの顔が、腰の位置にあった。

「さっさと僕の舟に移動するから。それと、肩の上に体重かけていてくれたほうが運びやすいからよろしくね」

「なっ……」

 抗議の声を上げることさえ許されなかった。ジェルバドゥネは走るように、不安定に湖面に浮かぶ小舟を次々と越えていった。

 ラシュファナは顔に熱を帯びていた。巫女に近付くために他人の舟に乗り移るのも、巫女に選ばれた少年が巫女を担いで移動するのも前代未聞の出来事だ。

 とにかく恥ずかしかった。周囲の少年たちが、陸地にいる街の者たちがこの状況をどのような顔で見守っているのか、それをうかがう余裕さえなかった。

 その上、群衆の一番すみで浮かんでいた自分の小舟に移り、ラシュファナを降ろすなり舟を漕ぎだした彼は、陸地とは反対の方向に舟を進ませていくのだ。

「ちょっと、どこにいくの!?」

「どこって……人のいない所にいこうかな、と」

「信じらんない! 巫女をさらう気なの!?」

「さらう! ああ、なるほど! そうなるわけだ!」

「そうなるわけだって、あんたねえ!?」

「でも、見たいだろ、花」

「なっ、……なに?」

「花だよ。花の巫女に捧げる、男からの心尽くし」

「花……?」

 たしかにジェルバドゥネは、花の巫女を求めて集まった他の男たちのように、花束も、花一輪すらも持ってはいなかった。

 別にラシュファナは花が欲しいわけではない。歴代の花の巫女も、美しい花やたくさんの花を持つ者を選んできたわけではない。

「みんなあれだけ用意してきたわけでしょ。いくら約束があるから優位とはいえさ、手持ちがなにもなければ他のみんなに失礼だろ? ちゃんと僕は、勝負する気で来たんだよ」

「…………」

 約束は、3年前。

 ジェルバドゥネがクィスラから離れた魔術学校に進学することが決まった時。

 悲しむラシュファナにジェルバドゥネがいったのだ。

 ――3年後、ラーシュは花の巫女になる。僕は、一番の花を持って十六夜の祭に駆け付ける。その時、ラーシュは僕を選んでくれるよね?

 うん、と頷いた。その年に姉が果たした花の巫女になることはラシュファナの夢だった。そして、花の巫女として一人少年を選ぶならジェルバドゥネ以外にはいないと、ラシュファナも強く心に思っていた。

 ――ジェルの用意した一番の花って、どんなものだろう?

 ラシュファナは、一昨日からずっとジェルバドゥネのことを待っていた。花の巫女の晴舞台は十六夜の祭の今宵ただ一度だけであるが、月の祭自体は一昨日から始まっている。

 故郷であるこの地を離れている者はジェルバドゥネ以外にもたくさんいたが、3年に一度の月の祭の時は、少なくとも初日には帰ってきているのが普通だった。

 だからラシュファナも、一昨日にはジェルバドゥネは帰ってくるものと思っていた。はっきりとした便りはなくとも、一昨日からずっと待っていた。

 約束が、あったから。

 3年前の約束を、信じていたから。

 つい先程までは裏切られたと思っていたけれど。ジェルなんか最低の嘘つきだと思っていたけれど。

 こうして彼は帰ってきた。自分を迎えにきた。

 だったら、一番の花も嘘ではないのだと――信じられる、と、ラシュファナは思ったのだ。

 小舟は、ゆっくりと湖面を滑っていた。

 ラシュファナは櫂を手にするジェルバドゥネを背に、進行方向に身体を向け座っていた。

 祭の喧騒はすでに背後に遠ざかっている。篝火の明かりも、全くラシュファナの視界には入らない。

 耳にするのは湖水のさわめきと軋む櫂の音。目にするのは月明かりに揺らめく湖の波紋。

 宵闇の世界。静寂の世界。

 水面から立ち上がってくる冷えた空気がまた、神気を帯びているような感じがして、ラシュファナは深呼吸をすることも身動ぐこともできなかった。

「――この辺で、いいかな」

 不意に櫂の音がやむと、そんなジェルバドゥネの声が月夜の空間に響いた。

 ゆっくりと振り返れば、ジェルバドゥネは櫂を船底に横たえているところだった。

「この辺……?」

 眉をわずかに顰めてラシュファナは周囲を見やった。

 どれだけ視線をめぐらせても、とらえられるのは闇色ただ一色。空できらめく星々はあっても、月光による濃淡はあっても、その中に花と呼べるようなものはありそうにもなかった。

 一体どこに花があるのかと、ラシュファナはしきりに首をめぐらせ眼球を動かした。けれどもやはり何も見付けることはできず、口を結んで首を傾げることしかできなかった。

「もしかして、花、探してる?」

 笑ったような声が背後からしたので、ラシュファナはもう一度後ろを向いた。

 ジェルバドゥネが笑顔でいた。首元から何かを取り出そうとしている。

「だって、花、見せてくれるんでしょ?」

 拗ねたような声が出た。ジェルバドゥネは一人だけにこにこと笑って、なにかを企んでいるようで、一昨日からずっと待っているラシュファナは楽しくないのだ。

「見せてあげるよ、今からね」

 ジェルバドゥネはこたえながらゆっくりと立ち上げる。

「今からここで? 花を?」

「そうだよ」

「嘘! どこにも花なんかないじゃない! どれだけ探してみても花はないわ!」

「嘘じゃないよ。本当に見せてあげる。――確かにまだ今はどこにも花はないけど――ねえ、ラーシュ。君は僕が学校で何を学んでいるか、知っているだろう?」

「……魔術でしょ? 落第寸前でも、一応」

「きついなあ、その言い方! 頑張るために遅れちゃったんだから。今日だって、及第点とれていなかったら補習だったし」

 医者にも占い師にも科学者にもなれる魔術師。それをめざしてジェルバドゥネは故郷を離れていっていた。ただ、いつも補習と追試に明け暮れている学生がそう頻繁に故郷に帰って来れるはずもなく、今だにラシュファナは彼の魔術を見たことはなかったけれど。

 ――それをこれから見せてくれるのだろうか?

「とにかく、ラーシュ。立ってよ」

 上から腕をとられた。引き上げられるようにしてラシュファナは揺れる舟の上に立ち上がった。支えを求めてジェルバドゥネの二の腕をつかむ。すると、目の前に差し出されたのは小さな小さな瓶だった。先ほどジェルバドゥネが首元から取り出した小袋の中にあったものだ。

「これを手に入れるために僕は3年間苦労したといっても過言じゃないんだからね」

「……これ、何?」

 香水だろうか、薬だろうか?

 じっくり見ようと顔を近付けようとしたら、両肩を捕まれ、強引に身体の向きをかえられた。

 また目に入ってくるのは闇色ばかりだ。

「いい? そっちを向いていてくれよ。今から僕は、花の巫女に花を捧げるよ――」

 ジェルバドゥネの声音が変化した。

 太く、重く、彼の口からは魔法の句が紡ぎだされていた。

 ラシュファナは魔術のことなどあまりよく知らない。

 彼がこれから何をしようとしているのか、口にするその句が一体何を意味しているのか、これから何が起こるのか。

 ただ、動いてはならないような気がした。音をたててはならないような気がした。

 自分もこの夜の静寂の一部となり、溶け込まなければならないような気がした。

 ジェルバドゥネの声が消える。沈黙が訪れる。

 研ぎ澄まされた空気の中に、ぽん、という小さな水音が響きわたった。

 魚が跳ねたのだろうかと思った。今までそのような音は聞かなかったけれど、――と。

「――――」

 明かりがある、と。

 月明かりで何かがきらめいている、と。

 ラシュファナは導かれるように双眸を向けた。

 舟の右。水面。

 赤い、篝火の光が反射したかのようなきらめきが見えた。

 拳大ほどの光。

 水の中で何が光っているのかと、ラシュファナは覗き込むようにして赤を見つめた。

 正体を不思議に思ってじっと見たが、それは決して水の中から発されるような光には思えなかった。

 錯覚かと、ラシュファナはより一層、瞬きすらも邪魔に感じながら目を凝らす――。

 赤い光は、広がった。

 ゆっくりゆっくり、湖の小波でほどけていくかのように、波紋を描くように。

 赤い光は広がっていた。

 すぐ様にはそれがうつつのこととは思えず、何度も目をしばたたいた。

 が、間違いなくそれは水面にあった。

 花だ。

 その模様は花だった。

 赤い光は花だった。

 ラシュファナの顔に赤いきらめきが反射していた。朧気に、しかし紛れもない輝きをもって、赤い花は水面に浮いていた。

 と、目の端に青が映った。

 ラシュファナは顔をあげた。

 前方には青。青の光。

 左には緑。

 青との間に黄色。

 青と赤の間に白。

 その奥には紫。

 また赤。

 青、黄色、橙、黄緑――。

 無数の色とりどりの花が水面に咲いていた。

 どれもが皆、朧な輝きを放ち、闇の世界に浮かび上がっていた。

 天上には月、足元には光の花。

 花は波に揺らめき、形を変え、色を変え、その様はまるで月と呼応しているかのようだった。

 月の花だ、と。

 ラシュファナは感じた。

 美しく揺らめき、闇の中で輝く。

 形や色は定まらず、優雅に孤高にそこにある。

 綺麗だ――その言葉ですら、足りない。

「……ラーシュ……? ラシュファナ?」

 優しい声が耳元でした。

 応えられないでいると、後ろから肩を抱かれた。ラシュファナはなされるままに身体をジェルバドゥネに預け、力を抜いた。

「……ラーシュ、どう?」

 声が喉に張りついていた。

 何かを言わなければならないとは、自分が感じたものを伝えなければならないとはわかっていた。

 けれども、幻想の世界をさまよう思考が紡ぎだす言葉はどれも陳腐なものでしかなく、ラシュファナは何も言えなかった。

「ねえ、どう? 気に入ってくれた?」

 重ねて問われ、少しだけ、口は開かれる。

「うん。気に入った……ありがとう」

「3年待ったかいがあったっだろ?」

 勝ち誇ったような耳元の声に、やっとラシュファナの表情はほころぶ。

「うん……よかった、待っていて」

 3年前のあの時は、自分がどうかなってしまうのではないかというほどに悲しくて、1年だって待っていられるはずはないと思ったけれど。自分を置いていってしまうジェルバドゥネなんか、絶対に忘れてやると思ったけれど。

 けれど。

 今なら思える。

 もう、大丈夫。まだ、大丈夫。

「そして、あと、6年、ね」

 ジェルバドゥネが学校を卒業するまで、あと6年。それだけの月日がいる。これまでの倍の日々。

「待っていて、くれるよね?」

 当然といった響きがそこに感じられた。

 どうしてそんなにも自信があるのか、この自分を信頼できるのかわからないと思い――でも、根拠のないところに自信を持つあたりがジェルバドゥネらしいと思い、ラシュファナは少し笑った。

 確かに、これほどまでの花を送られたのでは待たないとはいえないけれど。待っていられないとも思えないけれど。

「わかったわ。私、6年後の十五夜の祭を、楽しみにしているから」

 ぴくり、と。

 ジェルバドゥネの動揺が、肩から、背中から伝わってきて、ラシュファナは思わず微笑んだ。

 十五夜の祭の巫女は「光の巫女」。宝石を身につけて踊る。

 「光の巫女」には「花の巫女」のように異性を選ぶような習慣はないが、それでも男たちは街で一番の女を手に入れようと躍起になるものだ。

 その時、男たちが巫女に捧げようとするのが、「花の巫女」には花であるように、「光の巫女」には宝石。

 おそらくジェルバドゥネは、「光の巫女」に捧げる宝石を、また必死なって用意するのだろう。

「……わかった。6年後を期待していてよ」

 ラシュファナは優しく頷いた。

 水に揺れながら浮かぶ、神秘の月の花に照らしだされた舟の中で。

 幻想の宵闇の世界で。

 約束を果たすためには、6年後、自分もまた巫女になっていなくちゃ、と。

 ラシュファナは思いを秘めたのだ。




 ― 了 ―

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