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◆ 3 ◆

 十六夜月が、中天にかかる頃――。

「準備は整ったの? ラシュファナ?」

 大きな鏡の前でたたずむたくさんの花を身につけた醜い人形を見つめて、どのぐらいの時がたったのだろう。

 部屋の外から姉の呼びかける声がして、彼女はやっと身を捩った。鏡の中の人形も、動く。

 背後の扉がそっと開き、質素なブルーグレーのドレスに身を包んだ長身の姉が現れる。

 目を合わせた途端、姉はため息をついた。首を微かに振ったので、長い茶色の髪がさらさらと揺れた。姉は扉を静かに閉め、寄ってくる。その動作一つ一つに気品が備わっていた。目を留めざるをえない姉のあまりの優美さに、彼女は下唇をかんだ。

「ほら、ラシュファナ。唇を噛んじゃだめ。紅が落ちるわ」

 涼しげな声にたしなめられて、ラシュファナは唇を結びなおした。ただ、視線はふかふかの絨毯の上に逃がす。

 しかし、そうしながらも、ラシュファナには姉がこんな態度をとる自分のことをどう思っているのか、それが気がかりだった。

 姉は美しく聡明で気立ても良く、街でも評判の娘だ。ラシュファナは幼い時からこの姉の事を慕い誇りに思ってきた。自分は誰もが一目置く少女の唯一の妹なのだと――そして、いずれ自分も姉のようになるのだと。

 それが自分の自信であり、目標であった。

 3つ年の離れた姉の後を自分は追い、彼女のようになるのだと。

「…………」

 けれども、今ここにいる自分はなんだろう?

 姉とは似ても似つかないこの自分は、何なのだろう……?

「ラシュファナ、そんな顔しないの。緊張するのは分かるけれど、それほどまでに沈んだ顔色はあんまりだわ。もっと自信を持ちなさいな。ね? ……あら、頭の花飾りが少しゆがんでいるわ」

 細くしなやかな指がラシュファナの髪に触れた。

 不意に鼻腔に触れる姉のすがすがしい香りに目の奥が痛んだ。じんわりと視界が滲んでいく。顔が上気していくのが感じられ、心がきしむ音をきいたような気がして、ラシュファナは震え上がった。姉に呼びかけようとしたが唇が開くことはなく、歯がカチリと虚しく鳴るだけだった。

「直ったわよ。鏡で見て御覧なさいな」

 両肩をつかまれて強引に背後を向けさせられる。

 そこには、先ほどまで目の前にしていた姿見。

 映しだされるのは、両脇に深いスリットの入った純白のロングドレスに、色とりどりの花を全身につけ着飾った醜い人形――自分。

 粉が落ちるからいけないとはわかっていても、流れ落ちるしずくを受け止めることは何ものにもできはしない。

「――どうしたの? そんなに緊張する必要はないわ。大丈夫よ。あなたは今日この日のために今まで頑張ってきたんでしょう? 私はラシュファナの頑張りを知っているわ。だから、そんなに心配することなんてないのよ。堂々としていればいいわ。あなたが選ばれた十六夜の巫女なのよ」

 「十六夜の巫女」――別名「花の巫女」。

 この街、クィスラで3年に一度行われる月の祭り。十四夜の日から3日間行われるこの祭りの最高潮は、十五夜にある十五夜の巫女、別名「光の巫女」の舞である。光の巫女は光り輝く宝石を身に着け月明かりを反射しながら舞う。そして、祭りを優美に締めくくるのが、十六夜に行われる十六夜の巫女、別名「花の巫女」の舞。花の巫女は花を身につけ、月光をその身に宿しながら舞う。

 十五夜の巫女も十六夜の巫女も、祭りが行われる日より半年前に街娘の中からひとりずつ選ばれる。十五夜の巫女は20歳から22歳の女性、十六夜の巫女は14歳から16歳の女性。

 人生で一度きりしかない機会を、ラシュファナは見事物にしていたのだ。たくさんの娘たちが狙っていた巫女の座を得たのは、同年代の中でもたったひとりだけ、それがラシュファナ。

 誇っていいことはわかっている。自信を持っていいことはわかっている。自分が選ばれたただひとりなのだから。他の誰でもなく、この座を任されたのはこの自分なのだから、私しかいないのだから――けれど。

 鏡の中の巫女は、あまりにも醜かった。

 自信も、わずかに奢った気分も、現実の前には見るも無残だった。

 一度流れ出した涙は、枯れることなど忘れたかのように次から次へと流れ落ちていった。慌てて姉がハンカチで目元を抑えてくれるが、それでも、ひび割れた心を癒すことはできない。

「どうしたというの? 大丈夫よ。いつものようにやればいいだけ。あなたの舞は、誰よりも優雅で、誰よりも綺麗だわ。みんながあなたの舞を息をひそめて見守るわ」

 優しい励ましの言葉にますます心は痛んだ。姉が優しいことを知っているから、本当に自分のことを心配してくれているのを知っているから余計に、だ。

 これ以上涙を流したくはない、そう思った。

 それでも、目をしばたたかせるたびに視界にに飛び込んでくる滲む花の巫女の姿に、ラシュファナは憤りを忘れることなどできなかった。

 ただ涙を流すラシュファナに姉は戸惑っていた。ラシュファナは、そんな姉に震える声を一言だけ搾り出し向けるのが精一杯だった。

「――私、姉さまのように綺麗じゃない――」

 3年前、ここでこのようにして花に囲まれていたのは当時の十六夜の巫女――姉だった。

 姉は美しかった。

 それまでに見た花の巫女より、誰よりも美しかった。

 ドレスに身を包みただ静かに佇んだだけで、見るものを幻想の世界へといざなってくれた。

 自分もそうなれると信じていた。いつも姉の背中を見てきた自分なのだから、姉のように美しくなれると信じてうたがわなかった。

 そう、きのうまでは疑いもしなかった。きのうまでラシュファナは、確かに十六夜の巫女としての自信と誇りと奢りを兼ね備えていたのだ――なのに。

 なのに――。

 ……背後での扉の向こうから声がした。「もうそろそろこちらでご支度をなさってください」と、舞を取り仕切る誰かが呼びに来た。

 わかりました、と返事をしたのは姉だった。今のラシュファナには、姉ほど凛として声を出すことはできなかった。

 部屋の外に人の気配がなくなると、姉は手早くラシュファナの頬に落ちた涙を拭き去って、彼女の肩をつかんだ。有無を言う間を与えず窓のそばに連れて行った。なされるがままにしていると、姉は閉じられていたカーテンを少しだけ開けて見せた。

 ここは湖の際に立つ家だった。窓の外はすぐ湖。右手がわには湖上舞台に続く橋が見える。湖の上に浮かぶ舞台――そこで、十六夜の巫女は舞う。そこに到達するまでの道、橋の下には、いくつのも小船が浮いていた。小船の上にはたくさんの花々、そして、少年たち。

 闇の中、少年たちはランプを片手に携えて、皆、橋を見ていた。

 十六夜の巫女が出てくるのを待っているのだ。

 十六夜の光を吸収した巫女には幸福が訪れる。その巫女と親しくなった者にも、幸福は訪れる。それが、街娘の中から唯一選ばれた娘であればなおのこと、少年たちは巫女に群がる。巫女は、その少年たちの中からひとりを選ぶのが通例だ。

「ほら、あんなにも殿方がラシュファナのことを待っている。あなたは十分に美しいわよ。そうじゃなかったら、あれほどの方たちがあなたのことを待っていると思う? よく見て御覧なさい。あそこにも、あそこにも人がいるわ。私のときよりも多くはなくて?」

 明るく振舞った姉の声が身にしみた。言われて眺めてみれば、その数は確かに3年前に見劣りしないものではあった。

 これだけの人が自分のことを待っていてくれる――それは確かに自信につながった。

 ふと表情を明るく仕掛けた途端、それでも、と、ラシュファナは思う。

 真っ先に見つかるはずの肝心の人間が、いない。

「さあ、時間だわ、ラシュファナ。向こうに行ったらもう一度粉を塗ってもらいなさい。あなたは大丈夫よ。誰がなんといおうと綺麗だわ。それに外見の美しさだけじゃなく、あなたは誰よりも美しく舞うことができる。今日この夜の舞を月神にささげるのはあなたよ。堂々と、舞えばいい」

 促されて、閉じこもっていた部屋を出た。

 すぐに、世話役の人間がそばまで来、行く道を案内していった。途中、立ち止まって最後の衣装の確認をし、姉に言われたとおり、粉を塗りなおしてもらった。

 もう一度廊下を進み、家屋から出る。

 潮の香りが鼻につく。祭りの喧騒が耳朶に触れる。

 見据えるのは、まっすぐに伸びる橋。湖上舞台に続く一本の道。

 ところどころで橋を照らすランプと湖の上で揺れるあまたのランプが、十六夜の世界でおぼろげに浮かび上がる。

 あの道を今から自分は行く。

 十六夜の巫女として、その役目を全うするために進む。

 ここからは誰も自分に付き添うものはいない。

 あの道を行くのは自分だけ。

 羨望の眼差しを一身に受けるのはこの私だけ。

 だったひとり、紛れもなく、私だけ――。

「――――」

 背筋をしゃんと伸ばして、揺るぎのない眼光で前だけを見据えて。

 誰をもたやすく寄り付かせない、気品と威厳を身に纏って。

 ラシュファナは足を踏み出す。

 ただひとりの舞台に向かって、ゆるりと、厳かに、足を進ませる。

 途中、橋の下から少年たちが野太い声を投げかけてくる。

 服の裾に触れるか触れないかというところで振り回すのは、大きな花束だ。

 男たちは皆、色鮮やかな大きな花束で巫女の気をひこうとする。

 そうして、幸福をその手にしようとする。

 ラシュファナは、視線の先を動かさなかった。

 誰かの指がドレスに触れても、赤い花びらが胸元をよぎっていっても、口元には微笑を浮かべ舞台だけに焦点を合わせたまま。

 ラシュファナは、全身に選ばれた人間特有の自信をみなぎらせ、優雅に歩んだ。

 ――ただ、舞台に到達する、直前だけ。

 騒々しさが遠のき、誰もが今にも始まる巫女の舞に目を向けようとし始めた、その一瞬だけ。



  嘘つき。



 ラシュファナは口の中で小さく、恨みの言葉を吐いていた。

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