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◆ 2 ◆

 耳元で、波が打ち寄せては引き返す音がした。

 何度も何度も、忙しなくこの湖は歌っている、と、まどろんだ意識の中で感じた途端、水が盛大に顔面に降りかかってきた。

 湖といっても、この世界規模の楕円のくぼ地は一部が大海につながっている。そのため、湖水はどことなくしょっぱい。

 水を浴びて呼吸ができなくなると同時に、つんと鼻腔を突き上げていく潮の香りにむせ返った。

 船の上で横になっていたところたちまち起き上がり、激しく咳き込んだ。鼻から勢いよく息を抜いて、少しでも痛みを和らげようとした。

「うわぁ。びっくりした」

 ジェルバドゥネは軽く頭を振って、船首を目の前に改めて船底に座りなおした。船首・船底といっても、彼が乗っているのは小人数・近距離用の最もちいさな船だった。故郷を離れ、縦長の湖の反対側にある魔術学校に通うときに持参した、唯一の所持品といってもいいものだ。

 水をかぶった頬をさすりながら、ジェルバドゥネは1人、あたりを見回した。

 傾き、橙色に染め変わった太陽が南南西の方向。一番星が東北の方向。寝ている間にちょっと東にそれてしまったな、と、ジェルバドゥネは船に横たえてあった櫂を手にこぎ始めた。

 しばらく船を促すように、勢いをつけるように黙々と漕ぐ。と、ふと、彼は動きを止める。もう一度、沈み行く太陽とこれからよりいっそう明るさを増すであろう一番星を見てやって、櫂を船に上げた。

 ぼうっ、と紅色に染まる波打つ水面を見てから、徐に首に手をやった。

 かけてあった紐を手繰り寄せ、小袋を胸元から取り出した。指で器用にこじ開け、中から小さな小さなビンを取り出す。

 見る人は、ジェルバドゥネが手にするそれを香水だと思うだろう。柄でもなくおしゃれをするのか、それとも女の子にでもあげるのかと、学友たちならそう冷やかすに違いない。

 けれども、それは決して香水ではなかった。ましてや、薬などでもなかった。

 香水のように形が目に見えないものではなく、薬のように無粋なものではなく、もっともっと、とてもとても儚くて美しいもの――。

 ビンの中身に思いをはせ、ジェルバドゥネは口元を緩め、目を細めた。

 これはやっと手に入れた、念願の小ビンだった。

 ジェルバドゥネはこの存在を知ってから、必死になって勉強をした。そして、綺麗に綺麗に髪を伸ばした。

 こんなちっぽけな代物だというのに、このビンを買うのにはたくさんのお金がいったのだ。

 単なる一学生のジェルバドゥネには絶対に払えない額だった。学業の合間にどれだけ働いてみても、節約してみても、到底手の届くはずのないものだった。

 それが手にできるかもしれない、と思えたのは、鬘屋の女将が自分の髪を誉めたからだ。

 ――銀の髪は珍しい。しかも君のは艶も張りもあるから、よかったら高値で買うよ――。

 髪の相場など知らなかったのでどれほどの金が手に入るかなど分からなかった。だから、いけるところまでとことん伸ばすことにした。それでも願った額が手に入らなかったときはあきらめようと、そう決めた。

(にしても、あのときの女将の顔といったらなかったよなぁ)

 今日の昼、3年ぶりに銀髪の少年が――しかも、これでもか、というほどの長髪になって突然現れたので、鬘屋の女将は驚愕を隠し切れないようだった。

 そのときの表情を思い出すたびに、ジェルバドゥネは笑えて仕方がない。買ってくれるっていったよね、と微笑みながら畳みかけて、やっと彼女は我にかえり曖昧に頷いた。

 その間、ジェルバドゥネは噴き出すのを必死になってこらえていた。彼女が本気で買い取りたいといっていたことは分かっていたし、でも、そのとき自分はそっけない態度しかとらず、しかも3年も経っていたのだから彼女も忘れていて当然のことだったし、それに、彼女が面食らう様子が、なんとなく想像できていたのだ。

 あまりにも自分の思った通りで、ジェルバドゥネはおかしくてたまらなかった。けれども、今こうして思い出し笑いができるのも――願いどおりの金が手に入ったからなのだろう。そして、この小ビンを手にすることができたからなのだろう。

 全ては、この小ビンのためだった、これからの、ためだった。

 たった一晩のために、彼は3年をかけたのだ。嫌いな勉強も、うっとうしかった髪も、今日、この日のために。これからのために。

 おそらく、至福のときは一瞬で終わる。幻のように、美しいそれは波の音にかき消されていく。

 分かっている、分かっていた。

 それでも、ジェルバドゥネは満足だった。その一瞬が迎えられるなら、それだけでよかった。

(――早く、早くいかなきゃな)

 沈み行く太陽を見つめて思った。

 本当は、きのうのうちに帰るつもりだった。しかし運悪く、きのうは学校の試験だった。今朝まで試験だった。

 だから出発が遅れた。ろくな準備などできなかった。

 それでも、行かなければならない、会わなければならない。

 十六夜の月が、中天をすぎるまでには。

(間に合う、のだろうか……?)

 小ビンを手に入れたという喜びを払拭し、船首の向こう側、水平線の先に意識を飛ばすと、急に鼓動が高鳴った。呼吸が浅くなって胸が狂おしくなってた。

 どうしようもないほどにその一瞬が待ち遠しくなり、切ないほどに恋しい気持ちがのど元にまでこみ上げてきて、ジェルバドゥネはたまらず身をよじった。

 ――ああ。今まで見事に忘れていられたのに、と。

 せっかく平常心でいられたのに、これじゃ――。

 ぎゅっとかたく両眼を閉じた。

 瞼の裏に映る3年前の涙を思い出し、視線を、遥か遠くへと向ける。奥歯をかみ締める。

(間に合いますように――お願いだ、間に合ってくれ――僕の思いが、届けばいいのに――僕の心が、水面をかけていけばいいのに――)

 ジェルバドゥネは手早く小ビンを胸から下げる袋にしまう。

 船は、波に乗っていた。

 それでも彼は櫂を手にし、再び舟を漕ぎ始めた。

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