◆ 1 ◆
「聞いたか? ジェルバドゥネの奴が、とうとう髪を切ったって」
やわらかい潮騒が陸地に吹き込んでくる。
明るい大気が砕けた水しぶきをきらきらときらめかせる。
つい数日前まで憎らしいほどに光り輝いていた太陽は、人々の頭上で穏やかにまどろんでいる。
そんな街の、一角。
「嘘だ。あいつ、学校に来てからそれは丁寧に丁寧に髪を伸ばしていてさ。全然切る様子なんてなかったじゃないか。それが何で今になって? もう涼しいぜ?」
海に面する通りの、石畳の上に据えられた木肌もあらわな小さな円卓を囲み、4人の少年たちは目を合わせた。
彼らは皆、立て襟の白い法衣をまとっている。丈の長い上着の袖口と前合わせには瑠璃色の刺繍が施されていた。この街にある、国でも有名な魔術学校の生徒のいでたちだ。
4人のうちの3人は、お互い付き合わせた目にいぶかしむ色を宿らせ、口火を切った1人に視線を集中させた。
「本当だってば。疑うなよ。実際にこの目で見たんだ。ジェルが鬘屋に入っていくところ」
「鬘屋?」
「そういやぁあいつ、ここ来てすぐに鬘屋の女将に髪を誉められて、それからずっと伸ばしていたんだっけ?」
「でも、どうして今になって?」
「さっき試験終わったばかりだっていうのに」
「確かあいつさ、今日――」
「ジェルだ」
その一言で、4人は一斉に目先を動かした。街中から海に向かって伸びる坂を、転がり落ちるように駆けてくる法衣姿の少年があった。
「ジェルバドゥネ!」
仲間の1人が声をあげる。学友たちに気がついた彼は、海から吹き上げてくる風に流されるようにして方向転換を図った。行き交う人波をすり抜けてその姿はぐんぐんと大きくなっていく。
大気中に光の残滓を振りまくかのように、銀糸の髪は踊っていた。しかし、確かに短く刈り取られていた髪の先には、以前のような光の軌跡はない。
近づいてきた彼の額は汗で艶がかっていた。けれども、たった今髪を切り落としたとは思えないほどに彼の表情はすがすがしいものだった。
「アプリコットティ?」
円卓に取り付くなり彼はそう口走った。示された白磁のティカップの所有者が素直にうなずくと、彼は手にしぐっとあおった。
「ご馳走様、じゃ!」
唇の端からあふれ出たティを手の甲でぬぐうと、その手をひらりと振って彼は再び走り出そうとした。慌てて学友が名を呼ぶと、彼はやっと全身の躍動を止めた。ただ、両肩だけは激しく上下に揺れている。
「なにをそんなに急いでいるんだ。今、お前の話をしていたんだぜ?」
ああ、と。ジェルバドゥネは人懐っこい笑みを浮かべる。
「故郷に帰るんだ。ちゃんと先生には報告してある。明後日には帰るよ」
「故郷に帰る? 今から? クィスラに?」
「そうだよ。祭りなんだ」
「祭りはきのうだったんじゃなかったか?」
「きのうは十五夜の祭り。今日は十六夜の祭り。まだ間に合う」
「今から出たらクィスラに着くの深夜になるんじゃないのか?」
「だから、十六夜の祭り。夜の祭りだって」
「これから俺たちはユースティアたちに会うんだ。会わなくていいのか?」
「時間がない。よろしく伝えておいてくれ――土産は、なにがいいかな?」
「お前ずっとチャーリカに会っていないだろ?」
「うん」
「いいのか? 彼女、お前から離れていくぜ?」
「いいんじゃない?」
「つきあっているんだろ!?」
「つきあってなんかないさ」
「デートしていたじゃないか!」
「彼女がしつこく誘うから、何回か一緒に出かけただけだよ。相談に乗ってもらったこともあったけど。それに――もう、今日が迫っていたから――」
遠くからジェルバドゥネを呼ぶ声がした。目を向けると、桟橋の波打ち際に看守の姿があった。ジェルバドゥネに向かって手招きをしている。早く船を出せという合図だ。
「じゃ、行ってくる」
あっさりときびすを返し、ジェルバドゥネは海に向かって走っていく。
「チャーリカとのことは本当にもういいのかよ!」
そう1人が叫ぶと、石畳の向こう側でジェルバドゥネは後ろを振り返った。程よく整えられた顔をくしゃっと緩ませると、彼は弾んだ口調で叫び返す。
「僕はこれから恋人に会いに行くんだぜ!」
ぽかんとした表情でその姿を見送る学友たちに、ジェルバドゥネはぶんと大きく手を振った。
その手の中には、太陽の光を反射させるものが1つあった。