巧-1
「お前のお母さん、再婚するんだって?」
びゅう、と厳しい秋風が吹いて、巧は飛んでいきそうに踊ったマフラーの端をグッ、と握り締めた。
ともすれば風の音で聞き逃してしまいそうになったそれをしっかりと拾い上げたのは、自分自身その話題に嫌というほど過敏になっていたからに違いない。
「するんだって」
「なんか他人事じゃねえ?……あ、昨日のテレビ見た?」
話題を振った友人は、呆れたように呟いてから、ころりと話題を変えてしまった。
興味が薄いのか、気を遣ったのか、どちらとも知れないが、恐らく前者であろう。
少年達はまだ中学生も半ばと言った年代で、子供ではないが、大人と呼ぶにはまだ早い。
「じゃあな」
分かれ道で手を振る間も、巧の表情は冴えなかった。
ずっと、母の眞由美は女手一つで巧と、その妹の佳織を育ててきた。
父の顔はほとんど覚えていない。
佳織が生まれてすぐ、両親は離婚をしたらしい。
その時巧は、僅か3歳だった。
自分の顔は母似だとよく評されるし、佳織は母似というほどでもないが女の子らしい柔らかな顔をしているのでそこに父の面影を見る事もない。
生活保護を受けながら、けして裕福ではない暮らしをしてきた。
母は夜の仕事に出掛け、ほとんど家にいない生活。
それでも巧は自分を不幸だと思った事はなかった。
眞由美は男勝りの性格で、時には父のように厳しかったが、その分いつでもストレートな愛情を感じる事が出来た。
守るべき妹がずっと傍に居たから寂しくもなかったし、我ながら早いうちから母が不在がちなのは自分達の為だと子供らしからぬ理解を示していたと思う。
家族みんなで想いあって力を合わせて生きてきた。むしろ、良い家族だと思っている。
事態が急変したのは、佳織の突然の発病だった。
難病指定されている病が瞬く間に佳織を蝕み、長い闘病生活を余儀なくされた。
それでなくとも貧しかった暮らしは一気に困窮し、眞由美は朝から晩まで一日中働きに出掛け、顔を合わせる事すら難しくなった。
巧は、一人考えていた。
――俺がこの家で唯一の男の子なんだから、皆を守らなきゃ。学校をやめて、働こう
再婚話が突然振ってわいたのは、そんな折の出来事だった。
眞由美は外見も言動も派手なので、男性にはよくモテるようだった。
惜しみなく贈られるブランド品の数々を質に入れて生活の足しにしていたほどだ。
水商売のせいでいつでも厚化粧だが、化粧を取ったって十二分に美人なのだ。
それは、巧だけが知っている秘密で、密かな自慢だったりも、した。
いつ再婚話が出てもおかしくはなかった。
頭では理解していても、感情がついてこない。
自分がしっかりしなければと早いうちに成熟したようでいて、母が大事だからこその年相応な幼さが母の再婚を認めたくなかった。
「巧君?」
寄り道するかどうか、迷って立ち止まったそんなとき、聞きなれない声が巧の背中を呼び止めた。
「……?」
振り返った先には、年の頃四十代前半といった所だろうか、縦にも横にもでかい男がその背を小さく丸めて眉を垂らし、口元にだけ気弱な笑みを湛えて佇んでいた。
巧は春の身体測定でようやく160センチまでもう少し、という所だった。
その巧が仰ぐように見上げねばならないのだから、男は相当上背があるのだろう。
しかし、だらしなくズボンのベルトの上にでっぷりと乗っかる肉が見てとれるほどに肥えた男からは、上背に似合わぬ弱々しいオーラばかりを感じる。
「あ、ごめんね、急に呼び止めて…。僕は、茂木 武志です。眞由美さんから話を聞いていないかな」
名乗った男に、巧の目がゆっくりと見開かれる。
武志、武志、武志。
最近、いやというほど母の口に上る名前だ。
忘れたくとも忘れられるものか。
『私、武志さんと再婚しようと思っているの』
あの台詞の衝撃と言ったら、そりゃあ、頭痛がするほどひどかったのだから。
「……あんた……貴方が、武志さん、ですか……」
「良かった!やっぱり聞いてたんだね。ごめんね、きちんと挨拶しようと思ってたんだけど、姿を見かけてしまって。眞由美さんに面影が似ているから、もしかしてと思った
ら、我慢が出来なくて」
人の良さそうな笑みでハンカチを取り出し、武志が額の汗を拭く。
この北風の中で滲む汗は体躯のせいだけではなく、緊張しているのかもしれない。
どんな男なのだろう。
ずっと思ってた。
このいかにも野暮ったい男が、母と結婚する。
幻滅と、少しの安堵と。
複雑な感情が胸をざわつかせる。
「……………あの、すみません。俺、友達と約束してて。待ち合わせ場所向かうとこだから」
俯いて告げると、慌てたように武志がハンカチを取り落としたのが下げた視界の先に映った。
「あ、あぁー…ごめんね。あのね、今日、一緒に夕飯を食べに行きましょう。眞由美さんは帰ったら話す予定だったんじゃないかな。佳織ちゃんの顔を見てからだから、夜八
時くらいになると言われてるんだ」
武志の口から妹の名が零れる。
また、胸がざわついた。
(母さん、佳織の名前まで教えたのか)
【当たり前、結婚するんだから】
(佳織の名前をお前が呼ぶな)
【この人なら、佳織の事も大事にしてくれるかも】
胸の中で自分が会話する感覚など、初めてだった。
巧はグッと拳を握り締めて、逃げるようにそれじゃ、とだけ言葉を残しその場を立ち去った。
いつもの公園に行こう。
気付くと足がそこに向かった。
妹の病気のこと、就職のこと、再婚のこと、増えるばかりの悩みを消化しきれなくなって、近所の公園でぼんやりする事が多くなった。
友達には相談できない。
友達は息が抜ける存在というか、自分が子供で居られる相手であって。
自分の悩みを話すには、巧にとっては誰もかれも子供すぎるように思えた。
一人でいたいはずの公園で、少女とであった。
不思議と彼女の存在は不快ではない。
少女、かどうかは、わからないのだが。
いつも彼女は大きなマスクで顔を隠しているので、勝手に巧が少女なのだろうと決めつけているだけだ。
彼女に会いたい。
なぜか、そう思った。