巧-7
(最近は随分日が暮れるのが早くなったなぁ)
空を見上げて、巧はぼんやりと白い息を吐いた。
まだ夕刻なのに、あたりはとっぷりと闇に包まれている。
夏ならまだまだ明るい時間帯だというのに、こう暗くなると随分遅くまで出歩いてしまったような気がする。
色々と無駄に足を伸ばして、さすがに潮時だろうとアパートへと向かって、憂鬱に沈み込みそうになる意識を息を吐き出す事でなんとか誤魔化そうとしていた。
武志と仲良くする。
自分の中で、そうしっかりと決めた。
早く、早く男に慣れたいと思う。
そのためにはたくさんの時間をともに過ごすのが一番なのだろう。
(何かお土産でも買ってくりゃ良かったかな。甘いものとか)
考え込んで、巧はアパートの扉を開けた。
「ただいま」
(甘いもの好きかな。見た目的にはすきそうだけど。聞いとかないと駄目だよな)
思案しながら居間へと向かう。
そのせいで、一瞬気付くのが遅れた。
「ッ!!!!!」
ドッ、と、大きな圧力が突然巧の背中を襲い、気付けばその場に崩れ落ちていた。
何が起こったのかと背後を眺めると、赤ら顔をした武志がヒック、と一つ肩を揺らし、口角に厭らしい笑みを刻んで巧を見下ろしていた。
「…………!?……酔………」
瞬間、どっと沸きあがったのは、恐怖だったか……怒り、だったのか。
こいつ。
(約束を……破った……!!)
土下座をして、涙までもを見せておきながら。
こんなにもあっさりと。
男は、まさに泥酔、といった様相をしている。
「なんだその顔は」
「うぐっ………!!!……っは…」
どす、と足が乱暴に腹に叩き込まれる。
涙目になって腹を押さえ悶絶しながらも、尚も巧は武志をにらみつけた。
「この、嘘、つき……!!!!」
「……いいか。お前が悪いんだ。どうして、帰ってこない?どこをほっつき歩いていたんだ」
「お前には、関係な…ッ、あ、あ!!!!」
じりじりと武志の足が、巧の腿を踏みにじる。
「お前が心配させるから僕は酒を飲む。お前が悪い子だから僕はこうして折檻する。全部お前のせいなんだ。お前のせいで僕がこんな事になっているんだッ!!!」
ひどい責任転嫁だと思った。
だが罵声を浴びせてやる事は出来なかった。
この前のようなひどい暴力が始まったからだ。
背中。腹。腿。容赦ない蹴りが叩き込まれて、巧はただ引き攣れたような醜い悲鳴を喉の奥で噛み殺す事しか出来ない。
(…………)
身を縮めて必死に耐えているうち、ふと、気付いた。
武志の暴力が、この前と違う。
この前はめちゃくちゃだった。なんでもありだった。
頭を壁に打ち付けられたり、顔を殴られたり、手を踏みつけられたり。
それが今回は、背中、腹、腿、同じ箇所ばかりをローテーションするように衝撃が襲う。
その意味を理解して、巧の頭にカァッとひどい怒りが燃え上がった。
武志は、見えない箇所だけを攻撃している。
前の件を踏まえているのだ。
他人にばれない場所だけを、狙って攻撃しているのだ、この男は!
「か、母さん、に……ッ!!!!!」
怒鳴るように、声を振り絞った。
ぴたりと武志の攻撃が止まる。
ぶるぶると怒りに身を震わせて、うずくまったまま巧は武志を睨み上げた。
「母さんに、言う!全部、言う!あんたに暴力受けた事!」
「………なん、だって…」
「あんたは嘘つきだって!約束の一つも守らないって!酒乱のどうしようもない暴力男だって!!お前みたいな奴と、結婚なんかさせるもんか!!!」
全てを言い切り、巧はぜえぜえと肩で息をしながら、ただただ武志を睨みつけ続けた。
先ほどまでが嘘のように動きを止めた武志の表情はない。
その隙に逃げようと這うように腕を伸ばし、テーブルを支えに巧は身を起こした。
ドンドンと全身をノックされているかのような重たい痛みが断続的に体の内側から響く。
恐らく、後でひどい青あざになるだろう。
ふらりと武志がキッチンの方へと移動した。
相当堪えたのだろう。ざまぁみろと心の中で吐き捨てて立ち上がろうとした時、巧はそのまま大きく体を跳ねさせて、マネキンのように強張らせてしまった。
何かゴソゴソ動いていた武志が振り向いたかと思うと、その手に…………包丁が握られていたからだ。
「もう一度、言ってみろ」
「……」
ゆっくり、ゆっくりと武志が近づいてくるのを見開いた目で呆然と見ていた。
後ずさりしたいのに、体は動かなかった。
「言ってみろッッ!!!!!!」
「ひ……ッ!!!!!」
包丁が振り下ろされた。
瞬間、死ぬのだと思った。
しかし包丁は巧ではなく、横に落ちていた巧のマフラーへと突き刺さった。
「言えッ!!!!言ってみろ!!!!殺す!!!コロスッ!!!!舐めやがって!!!くそが!!!!」
ザクッ、ザクッ、と、切り裂くような音が耳の中で聞こえた。
実際そんな大袈裟な音はしないのだが、巧の頭の中でだけ聞こえる音と呼応して、巧の目の前でマフラーはボロボロに、ズタズタに引き裂かれていく。
(殺される)
(おかしい)
(おかしい、こいつは、おかしい!)
先ほどまでは怒りで震えていた巧の全身は、先とは全く違う種類の震えに支配されていた。
まともじゃない。男が何をしでかすかわからないと思ったら、本当に純粋な恐怖に完全に飲み込まれてしまった。
意味もなく悲鳴をあげそうで、必死で口を引き結ぼうとしてうまく閉じられないのに気がついた。
ガチガチと歯が鳴って、唇が痙攣するように震える。
「………………、許してやってもいいよ、巧君」
突然、男の手がぴたりと止まった。
薄笑いを浮かべた男が巧の髪を鷲掴みにする。
「ひっ」
恐怖に抵抗すら出来ずにいると、そのままぐっ、と引き寄せられた。
ぐりぐりと力を加えられ、何事かとパニックを起こす頭で必死に考えて、ズボン越しに男の股間に顔を押し付けさせられているのだとわかった。
「しゃぶれ」
薄笑いのまま、武志が告げる。
「――――…………」
まるで無垢な赤子にでもなってしまったかのように、巧は呆然と武志を見上げた。
本当に意味がわからなかった。
武志の顔から笑みが掻き消える。
「口で奉仕しろって言ってんだよォッ!!!わからねえほどガキじゃねえだろ!フェラしろって言ってんだよ!!」
「……ッ!!!」
激昂とともに刃物がキラリと光り、恐怖に喉の奥から引き攣った声が漏れた。
何をさせられようとしているのかはわかったが、混乱や戸惑いを感じる余裕はない。
ただ、命じられた事を受け止めて、そして巧は顔を歪めて涙を零した。
「で、でき、ない、許し」
「殺されたいんだなッ!!!!!」
「違う!違っ、か、噛んじゃ、う、から、できない…!!!違う、ご、ご、ごめ…!」
したくないとか、嫌悪とか、そんな感情さえ生まれなかった。
ただ、男の命に背くことが死に直結するのだろうと差し迫る恐怖で頭が一杯だった。
武志は黙って巧を覗き込み、そこでようやくガチガチと歯の根があっていない事に気がついたようだった。
「うぅっ!!」
背中を蹴られ、再びその場に崩れ落ちる。
四つん這いのような体勢になった巧の背に、ずしりと重みがかかった。
「巧君は、AVとか見る?まだ早いかな」
「……」
後ろから刺されるのかもしれないと思った。
どう答えるのが正しいのかわからなくて、がたがた震えたまま首を横に振る事しか出来ない。
「アナルセックスって知ってる?」
「……」
「僕はそれが大好きで。AV借りてくる時は、必ずアナルプレイものを借りるんだよ」
何を話しているのか、わからない。
いつ、グサリと衝撃がきて、悲鳴をあげる事になるのか、来るか来ないかもわからない恐怖の予測しか頭にない。
武志の湿った息が耳にかかる。
ゆっくり伸びてくる手を振り払う事など当然出来ずに、ただ巧はじっと全身を強張らせ、その恐怖に耐えていた。