巧-6
(カエデ、って言うんだな。名前)
もぐもぐと甘いシュークリームを頬張りながら、巧はぼんやりとそんな事を考えていた。
渾名が案外本名に近かった事に、小さな笑いが込み上げる。
「イテ」
笑うとずきりと口の端が痛んだ。
楓の父親は、優しそうだった。
同じ優しそうなタイプの人間でも、理知的な、暖かさとかっこよさを合わせもつ雰囲気。
そうして巧はこれから、むしろ愚鈍さの前面に押し出された“優しい”男の待つアパートへ帰るのだ。
『許してください』
朝、目を覚ました巧が見たのは、そんな台詞とともに涙ながらに土下座する武志の姿だった。
見ていて呆れるほどに地面についた両手はぶるぶると情けなく震え、ぼたぼたと絨毯にしみこむ涙を汚い、と、咄嗟に思ってしまったのを覚えている。
武志の言い分だとこうだ。
帰ってこない巧が心配で心配で、恐ろしくなって、気がついたら不安を紛らわす為に酒を飲んでいた。
酒乱の気があるので、普段は一滴も酒を飲まない。
もう二度と、けして酒は飲まない。
約束する。
(……約束、ねえ)
そこは約束、ではなく、自分に誓えよ、と思う。
勝手に人を巻き込むなと。
普段以上に冷たい思考が頭を過ぎるのは、男をどこかで見下しているからかもしれない。
昨夜は確かに恐怖を感じた。
しかし、醜く泣きながら何度も何度も謝る武志に、呆れと苛立ちがゆるやかに戻ってきた。
あんな事は二度とごめんだから、酒を飲まないというのならそれでいい。
普段の武志は、“野暮ったく愚鈍そうな”優しい人なのだから。
「ただいま」
アパートに辿り着いて扉を開け、居間へと抜ける。
「あっ、お、お帰り」
おどおどとした武志に出迎えられて、また苛立ちのような男を見下す気持ちが胸に広がった。
「母さんは?今日は休みだったよな」
「あぁ、眞由美さんなら、ずーっと寝てる。よっぽど疲れてるんだね」
武志が指差すコタツの中で、母は丸まるような体勢ですーすーと寝息を立てていた。
結構な物音を立てて入ってきたというのに、寝息一つ乱れる様子はない。
「………あ、あの、学校、どうだった?何か、言われた?」
おどおどと問いかけられて、巧は目線を向けないまま上着を脱いだ。
「言われたよ。教師にも友達にもどうしたんだって。でも他校の奴らに絡まれたって言っておいた。金とかは取られてないって」
「そ、そ…う」
ほう、と大きく武志が息を吐く。
「あったかいココアでも入れるね」
途端に少し元気になってキッチンに行く男を、現金だ、と思った。
答えも返さないままに、コタツに座り込んでじっと母を見下ろす。
巧は眞由美が二十歳の時の子供だ。
眞由美は現在ようやく三十代半ばに差しかかろうかという年齢という事になる。
友達に自慢できるほどの若さと美しさだと、巧は自負していた。
彼女のお決まりの台詞は「二十代にしか見えないって言われた」という若さ自慢で、本人も若いと思っているのが窺える。
いつまでたっても女ざかり、という印象だった、母。
……いつからこんなに、やつれたのだろう。
気付かなかった事実に、愕然とした。
化粧を落としているからだとは思うが、つやつやと張りのあった肌はくすんでボロボロで。目の下には色濃いクマが出来ている。昔はなかった小じわが目の周りに幾つか見える。
その顔は、青いを通り越して真っ白で。寝ているだけとわかっているのに、ついその口元に手をかざして寝息を確認してしまったほどだ。
佳織が入院してからというもの、一体どれだけ苦労してきたのか。
この姿が、全てを物語っている気がした。
弱い姿を見せない人なので、本当にギリギリの所まで来ないと気付けなかったかも、…気付かせなかったかもしれない。
そのことに、今更ながらぞっとする。
大袈裟ではなく、過労が人を死に追いやるのだと知っている。
「はい、ココア」
ことん、とマグカップが置かれて、巧はじっ、と武志を見た。
「……有難う、武志さん」
ゆっくりと、穏やかな口調で告げる。
許しを得たと思ったのか、パッ、と男の表情が輝いた。
この出会いは、恐らくまさに天の助けだったのだ。
武志は、眞由美の命を繋いでくれたと言っても過言ではない。
仲良くしなければ。
改めてそんな事を思う。
自分の感情でこの繋がりを駄目にしてはいけない。
もう一度母を見下ろして、密かに拳を握り締める。
傷の痛みさえ、どこかに吹っ飛んだような気がした。