悪役令嬢とその父親
「リディア・アルヴェイン! 貴様との婚約を、今日この場をもって破棄する!」
王立学院の卒業記念舞踏会。
千を超える蝋燭に照らされた大広間で、第一王子レオナルド殿下の声が響き渡った。
楽団の演奏が途切れ、談笑していた生徒たちがこちらを振り返る。
私は手にしていた扇を静かに閉じた。
驚きはなかった。
むしろ、ようやく来たかと思った。
レオナルド殿下の隣には、桃色の髪をした少女が立っている。
エミリア・ロゼット男爵令嬢。
この一年、殿下が私よりも遥かに長い時間を共にしてきた女性だった。
「理由をお聞かせいただけますか」
「まだ白を切るつもりか。君がエミリアに何をしてきたか、すべて分かっている」
教科書を隠した。
階段から突き落とそうとした。
茶会で熱い紅茶をかけた。
ドレスを切り裂いた。
そして最後には、学院から追放しようとした。
殿下は次々と私の罪状を並べた。
「すべて否定いたします」
「証人がいる!」
「では、物的証拠もございますか?」
「大勢が証言している。それで十分だ!」
その言葉を聞いて、私はかえって冷静になった。
十分なはずがない。
ましてや一国の王太子が、公爵家の令嬢を処罰しようというのである。複数人が同じ嘘をつく可能性さえ考慮せず、証言だけで断罪するなど危うすぎる。
けれど広間に集まった学生たちは、そうは思わないらしい。
「やっぱり……」
「以前から怖い方だったもの」
「エミリア様がかわいそう」
小声があちこちから聞こえてくる。
私はこの半年で、すっかり悪役になっていた。
そこへエミリア嬢が一歩前に出た。
「レオナルド様、もういいのです。私は本当に大丈夫ですから」
「エミリア……」
「リディア様にも、きっと事情がおありだったのです。私とレオナルド様が親しくしていたから、傷ついてしまわれただけなのだと思います」
見事だ、と私は思った。
彼女は一度も「リディアに虐められた」と断言していない。
曖昧な言葉を並べ、解釈だけを周囲へ委ねている。
後から嘘が露見しても、「そんな意味では言っていない」と逃げられるように。
殿下には、その巧妙さが分からない。
「君は優しすぎる。だからこの女につけ込まれるのだ!」
そして再び私へ怒りを向けた。
「それで、殿下」
私は話を進めることにした。
「婚約破棄だけでしょうか」
「……何?」
「これほど多くの方の前で私を断罪したのです。他にも処分がございますのでしょう?」
殿下の口元に勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「父上はすでにアルヴェイン公爵へ王命を出した。君を廃嫡し、北方の聖ラウラ修道院へ送れとな」
そこで初めて、私は息を詰めた。
「……廃嫡?」
「ああ。公爵も王命には逆らえまい」
周囲がざわめく。
アルヴェイン公爵家に子供は私一人しかいない。
私が廃嫡されれば、父の直系後継者はいなくなる。
その時だった。
ふと、別の疑問が浮かんだ。
「殿下。私が廃嫡された後、父にもしものことがございましたら、アルヴェイン公爵領はどうなりますか」
「何?」
「直系の後継者がいなくなった場合です」
殿下の視線が、ほんの一瞬だけ泳いだ。
隣にいるエミリア嬢も、泣き顔の奥で目を動かした。
私はそこで理解した。
狙いは私ではない。
アルヴェイン領だ。
王国北部の広大な穀倉地帯。
鉄鉱山と銀山。
三つの交易街道。
そして国境防衛を担う北方軍。
私を消し、その後に父さえいなくなれば、王家は後継者不在を理由に公爵領へ介入できる。
「なるほど」
思わず口から漏れた。
「何がなるほどだ」
「いいえ。ただ、この計画を殿下ご自身がお考えになったわけではないのだろうと」
「貴様!」
「衛兵!」
殿下の怒声に、壁際に控えていた王宮衛兵が動く。
「この女を拘束しろ!」
「その必要はない」
低く、よく通る声が大広間の入口から響いた。
人垣が自然に割れていく。
黒い礼装を纏った男が、その中央を歩いてきた。
銀の混じった黒髪。
鋭い灰色の瞳。
北方を束ねるアルヴェイン公爵。
私の父、カシアン・アルヴェインだった。
「お父様……」
思わず声が漏れた。
父は学院行事を好まない。
私が入学してから、一度もこの場所へ来たことがなかった。
それなのに今日は、私が呼んだわけでもないのにここにいる。
「アルヴェイン公爵。ちょうどいい」
レオナルド殿下は強気を取り戻した。
「王命は受け取ったな」
「拝見しました」
「ならば娘を――」
「お断りします」
大広間が静まり返った。
殿下が目を見開く。
「……何?」
「娘を廃嫡せよとの命令は受け入れません」
「王命だぞ!」
「国王陛下には、公爵家の後継者を一存で廃嫡する権限はありません。家門法第十二条をご確認ください」
父は声を荒げなかった。
それでも広間の空気が一変した。
「公爵家以上の家門における廃嫡には、当主本人の承認、あるいは貴族院三分の二以上の同意を要する。王は勧告できますが、命令はできない」
「屁理屈を!」
「法律です」
短い返答だった。
「それから殿下。娘を拘束するとのことですが、正式な告発状は?」
「必要ない! 罪は明白だ!」
「では証拠を」
「証人がいると言った!」
父はわずかに目を細めた。
「私は娘を信じています」
胸の奥が強く鳴る。
けれど父は、それ以上のことを口にしなかった。
「ただし、親である私が娘を信じることと、娘が無実であることを証明することは別問題です」
そう言って、父は後ろに控えていた執事へ片手を差し出した。
「ですから、証拠を揃えてきました」
差し出された分厚い書類を受け取り、父は一冊目を開いた。
「まず、教科書を隠したとされる件。紛失した時刻、リディアは学院図書館にいました。司書二名、生徒七名が確認しています。閲覧記録も残っている」
二冊目。
「階段から突き落としたとされる件。学院内の防犯魔導具に記録があります。ロゼット嬢が転倒した際、リディアとの距離は六メートル以上」
三冊目。
「紅茶の件。給仕係三名が、ロゼット嬢本人がカップへ手を当てたと証言しています」
そして父は四冊目を開いた。
「ドレスの件については、少々不可解でした」
エミリア嬢の肩が揺れる。
「切り裂かれたとされるドレスは、事件の三日後に購入されています」
沈黙が落ちた。
「そ、そんな……」
「服飾店の帳簿だけではありません。商業組合への提出記録、使用された絹の関税記録、仕立職人の作業日誌。すべて一致しています」
父はエミリア嬢へ一度だけ視線を向けた。
「存在していなかったドレスを、娘はいかにして切り裂いたのでしょう」
「違います! 記録が改ざんされたのです!」
「どの記録を?」
「それは……」
「三つの組織と一つの商店が同時に?」
エミリア嬢は答えられなかった。
父は追い詰めるような言葉を重ねなかった。
淡々と書類を閉じる。
「殿下。以上の事実を確認するだけなら、私の部下で半日もかかりませんでした」
レオナルド殿下の顔が赤くなった。
「何が言いたい」
「なぜ、確認しなかったのです」
静かな問いだった。
「将来国政を担う方が、公爵家の令嬢を廃嫡へ追い込むほど重大な告発を、最低限の裏付けすら取らずに信じた。私はその理由を伺いたい」
「私はエミリアを信じた!」
「信じることと、調べないことは同義ではありません」
父の声は変わらない。
「私も娘を信じています。だからこそ調べました」
私はその言葉を聞いて、初めて少しだけ俯いた。
先ほどより、その方がずっと胸に響いた。
父は私について何も語らなかった。
ただ私の尊厳を守り、事実だけを持ってきた。
それが、何より父らしかった。
「それとも」
父は殿下を見る。
「調べては困る事情がございましたか?」
そこで大広間の入口から、別の声が飛んだ。
「その点は僕も聞きたいな」
第二王子ユリウス殿下が入ってきた。
手には数枚の帳簿を持っている。
「兄上。王太子府の会計を調べたところ、この半年で金貨一万二千枚が消えていた」
「ユリウス……?」
「帳簿上は学院慈善費、道路整備費、貧民救済費。ところがどの事業も実施されていない」
レオナルド殿下の顔から血の気が引いた。
「財務官が勝手にやったことだ!」
「その財務官なら昨晩拘束した。全部話している」
ユリウス殿下は続けた。
「三千枚がロゼット男爵家。八千枚がヴェイロン侯爵家の商会。残りは学院関係者への贈賄に使用された」
ヴェイロン侯爵。
王妃の兄であり、第一王子最大の後援者。
そこで私は、頭の中に地図を思い浮かべた。
ヴェイロン領はアルヴェイン領の南側に隣接している。
もし私が廃嫡され、父まで死ねば。
「北方交易路……」
私は呟いた。
父が私を見る。
「ヴェイロン領とアルヴェイン領の一部を王家が管理できれば、王都から北方諸国までの主要街道をほぼ一本化できます」
さらに銀山。
穀倉地帯。
鉄鉱山。
利益は莫大だ。
「私を排除したかったのは」
私はゆっくりと顔を上げた。
「婚約の邪魔だったからではない。アルヴェイン家の継承者だから」
父は答えなかった。
けれど、その目にほんの僅かな肯定があった。
その日の舞踏会は中止された。
だが事件は、そこで終わらなかった。
◇
屋敷へ戻った夜、私は自室で旅行鞄を開いていた。
「お嬢様、本当に荷造りをなさるのですか?」
侍女のアンナが不安そうに尋ねる。
「念のためよ。今後、王家とアルヴェイン家が全面的に対立する可能性があるわ」
「ですが、旦那様はお嬢様をお守りになると」
「今はね」
私はドレスを畳みながら答えた。
「でも公爵家には領民がいる。兵士がいる。商会で働く人たちもいる。私一人を差し出せば争いを避けられる状況になった時、お父様が何を選ぶかは分からないわ」
口にしてから、自分で少し苦しくなった。
舞踏会では庇ってくれた。
けれど国家と公爵家と、何万人もの生活と私一人を比べれば。
きっと答えは決まっている。
そう思わなければいけない。
幼い頃から私は、そういう娘として育てられた。
扉が叩かれた。
「お嬢様」
老執事セバスが顔を出す。
「旦那様がお呼びです」
「分かったわ」
来た。
私は荷物を置いた。
◇
父の執務室は、昔から苦手だった。
分厚い扉。
山積みの書類。
壁を埋め尽くす本棚。
そして、その向こうにいる忙しい父。
七歳の誕生日。
父は来なかった。
十歳の発表会。
父は来なかった。
十二歳で高熱を出した夜も、目を覚ました時に父はいなかった。
十四歳の母の命日、一緒に墓へ行きたいと頼んだ時も、父は「会議がある」と言った。
だから私は、いつしか期待しなくなった。
「座りなさい」
父はいつものように短く言った。
「はい」
向かいに座る。
父は手元の書類を閉じた。
「荷造りをしているそうだな」
「……はい」
「なぜ」
「必要になる可能性があります」
「どこへ行く」
「状況によっては国外へ」
父の眉が動いた。
「なぜだ」
「私がいなければ王家と妥協できる場面が来るかもしれません」
言いながら、私は笑った。
悲しい時ほど笑う癖があることを、その時の私はまだ父が知っているとは思っていなかった。
「その時は、私を使ってください」
「リディア」
父の声が低くなる。
「二度とそのようなことを言うな」
「ですが」
「何のために今日、私が学院へ行ったと思っている」
「公爵家を守るためでしょう」
「違う」
短かった。
けれど、迷いはなかった。
「お前を守るためだ」
胸の奥が痛んだ。
嬉しいはずなのに、どうしてか苦しい。
「……嘘です」
父の目が僅かに見開かれた。
「嘘です」
一度口にすると、止められなかった。
「だって、お父様は私のことなんて何も見ていなかったでしょう」
「リディア」
「いつも仕事ばかり。誕生日にも来ない。発表会にも来ない。熱を出した時だっていなかった」
声が震える。
「そのくせ、勉強しろ、礼儀を覚えろ、経営を学べ、法律を学べ、剣も覚えろって」
私は立ち上がった。
「私は何なんですか」
父は黙っている。
「娘ですか?」
涙が滲む。
「それとも、アルヴェイン家を維持するための道具ですか」
静寂。
言ってしまった。
けれど後悔はなかった。
父はしばらく私を見ていた。
やがて、机の引き出しを開けた。
古い木箱を取り出す。
蓋を開くと、中には銀色の髪飾りが入っていた。
鈴蘭を模したもの。
母の形見だった。
「お母様の……」
「ああ」
父は髪飾りを指先で持ち上げた。
「お前を産んだ夜、アメリアは死んだ」
「……はい」
「最後に言った。あの子をお願い、と」
父の指が僅かに震えている。
初めて見た。
「私は約束した。必ず幸せにする、と」
父は小さく息を吐く。
「だが私は、やり方を間違えた」
「……」
「妻を失ったことが怖かった。お前まで失うのが怖くなった」
私は何も言えなかった。
「だから私は、お前が私なしでも生きられるようにしようとした」
法律。
経営。
会計。
外交。
軍学。
薬学。
「誰にも騙されないように。夫に捨てられても生きられるように。公爵家そのものがなくなっても、お前自身の力で立てるように」
胸の奥で、今まで別々だった記憶が繋がっていく。
厳しい教師。
終わらない課題。
泣いても減らなかった授業。
ずっと、自分の価値を高めるためだと思っていた。
「十年後、二十年後、私が死んだ後。そんな先のことばかり考えた」
父は自嘲するように笑った。
「今のお前を抱きしめることを忘れた」
涙が落ちた。
「……馬鹿」
「ああ」
「馬鹿です」
「ああ」
「大馬鹿です」
「そうだな」
「一言、好きだって。娘として大事だって言ってくれればよかったのに」
声が崩れた。
父は立ち上がった。
一歩こちらへ来る。
けれど途中で止まった。
手を伸ばしかけて、引っ込める。
その不器用さが、あまりにも父らしかった。
だから私は、自分から一歩進んだ。
父の胸に顔を押しつける。
「……リディア」
「今だけです」
「ああ」
「ちゃんと抱きしめてください」
次の瞬間、父の腕が私を包んだ。
思っていたよりずっと強かった。
「すまなかった」
父の声が頭の上から聞こえる。
「お前を愛している」
十七年間。
ずっと欲しかった言葉だった。
私は子供のように泣いた。
◇
翌朝。
事件はさらに悪化した。
父が倒れた。
「お父様!」
朝食の途中だった。
ティーカップが床に落ち、父の身体が椅子から崩れ落ちる。
私はすぐに駆け寄った。
顔色が悪い。
唇が紫色に変わり始めている。
呼吸が浅い。
その瞬間、これまで叩き込まれた知識が頭の中で一気に繋がった。
「誰も触らないで!」
侍女が水を飲ませようとするのを止める。
「銀の匙を持ってきて!」
銀匙を紅茶につける。
表面が黒ずんだ。
アンナの顔が青ざめる。
「毒……」
「セバス!」
「はい!」
「屋敷を封鎖して。今朝厨房に入った者を全員別室へ」
「承知しました」
「軍医を呼んでください。王都の医師は使いません」
セバスが僅かに目を見開く。
「理由を伺っても?」
「昨日、ヴェイロン侯爵家の関与が表に出た。その翌朝に父が毒を盛られたのよ。王都の医療機関にまで手が伸びていない保証がないわ」
「かしこまりました」
自分でも驚くほど声が落ち着いていた。
ただ、父の手を握ると冷たい。
怖い。
昨日、ようやく父娘になれたのに。
「死なせません」
小さく言った。
「絶対に」
◇
父は一命を取り留めた。
使用されたのは南方産の毒草から作られた毒で、幸い致死量には達していなかった。
けれど意識は戻らない。
「少なくとも数日は予断を許しません」
軍医はそう告げた。
私は頷いた。
「分かりました」
「お嬢様もお休みになった方が」
「いいえ」
父の執務室を見る。
「やることがあります」
今ここで泣いているだけでは、父は守れない。
「セバス」
「はい」
「父の代理として、私がアルヴェイン家を指揮します」
老執事は驚かなかった。
深く頭を下げる。
「異論はございません」
「北方軍に連絡を。国境警備は通常通り。王都へは一兵たりとも動かしてはいけません」
「よろしいのですか」
「軍を動かした瞬間、反乱の口実を与えます」
「承知しました」
「銀山、鉄鉱山、穀物庫の警備を倍に。交易所では搬入品を再検査。王都にあるアルヴェイン商会の資金は一部凍結してください」
「一部、ですか」
「すべて止めれば、こちらが混乱していると相手に伝えることになります。通常取引は維持して、ヴェイロン侯爵系企業だけを切ります」
「損失が出ます」
「短期的には」
私は父の椅子を見た。
「でも家を守るために必要です」
セバスが僅かに笑う。
「立派になられましたな」
「褒めるのは終わってからにしてください」
「旦那様に似てこられた」
「それは褒め言葉ですか?」
「今のお嬢様にとっては」
私は返事をしなかった。
けれど少しだけ嬉しかった。
◇
三日間、私はほとんど眠らずに調べ続けた。
王太子府の帳簿。
ヴェイロン侯爵家の商会記録。
学院関係者への支払い。
輸入品の一覧。
父が飲んだ毒と同系統の薬草。
すると、一つ不自然な数字が見つかった。
ヴェイロン商会が南方から輸入した香辛料の量が、この一年だけ異常に増えている。
しかも、父に使われた毒草は同じ地方で採れる。
輸入日は、父が倒れた五日前。
私は倉庫の搬入記録を追った。
「……これだわ」
香辛料として申告された荷の一部が、検品を受けずに王都へ運ばれている。
運搬責任者はヴェイロン侯爵家の使用人。
さらにその人物が、公爵邸の料理人と接触した記録もあった。
「セバス!」
扉が開く。
「お嬢様」
「この運搬責任者を――」
「その前に」
セバスが、珍しく穏やかな顔をしていた。
「お会いになった方がよろしいかと」
「誰に?」
「旦那様です」
世界が止まった。
◇
「お父様!」
寝室へ駆け込む。
父が起きていた。
「走るな」
第一声がそれだった。
「転ぶ」
私はその場で泣いた。
「お父様の馬鹿!」
「なぜだ」
「普通、先に心配をかけたって謝りません!?」
父は少し考えた。
「すまない」
「今ですか!」
泣きながら怒鳴る私を見て、父は困った顔をした。
やがて、静かに言う。
「リディア」
「何ですか」
「よくやった」
私は動きを止めた。
「全部聞いた。屋敷の封鎖、軍への指示、資産の管理、取引停止。どれも正しい」
父は続ける。
「私より判断が速かった部分もある」
「……」
「立派だった」
喉が詰まる。
「自慢の娘だ」
私はベッドの横に膝をつき、父の手を握った。
「怖かったです」
「ああ」
「死ぬかと思いました」
「ああ」
「昨日やっと、お父様が私を愛しているって分かったのに」
父が、私の頭に手を置く。
「大丈夫だ」
「根拠は?」
「ない」
「ないんですか」
「だが、まだ死ぬ予定はない」
「予定の問題ではありません」
父は少しだけ笑った。
「娘と街へ出たこともない」
私は目を瞬いた。
「……それを理由に生きてください」
「ああ」
「約束ですよ」
「ああ」
◇
五日後。
王宮で臨時貴族会議が開かれた。
国王。
王妃。
第一王子。
第二王子。
ヴェイロン侯爵。
高位貴族たち。
そして私。
父はまだ療養中だった。
だから私は一人で来た。
大広間へ入った瞬間、低いざわめきが起こる。
「公爵令嬢が?」
「公爵本人ではないのか」
「娘に何ができる」
聞こえていた。
けれど、もう気にならなかった。
私は父の席に座った。
「リディア嬢」
国王が眉をひそめる。
「そこはアルヴェイン公爵の席だ」
「存じております」
私は一枚の書類を置いた。
「本日、父より全権委任を受けております。署名、公爵印、法務局登録済みです」
国王はそれ以上言わなかった。
「では始めましょう」
私はまずレオナルド殿下を見る。
「私への虚偽告発について」
教科書。
階段。
紅茶。
ドレス。
そして最後に、学院長へ圧力をかけたとされる件。
私は老学院長へ視線を向けた。
「学院長。私からエミリア嬢の退学を求められたことはございますか」
「ございません」
「では誰から?」
学院長は一度目を閉じた。
それから、震える声で答えた。
「ロゼット男爵令嬢からです」
エミリア嬢が立ち上がる。
「嘘です!」
「あなたは、リディア様が自分を虐めているように見せたいから協力してほしいと」
「そんなこと言っていません!」
「私は断りました」
学院長は続ける。
「翌日、王太子府から学院へ多額の寄付が届きました」
レオナルド殿下の顔が強張る。
「私は、そこで沈黙しました。責任は私にもあります」
私は学院長から視線を外し、レオナルド殿下を見る。
「殿下」
「……」
「エミリア嬢が嘘をついている可能性を、一度でも考えましたか」
「彼女はそんな人間ではない!」
「私の話を聞こうとはしましたか」
殿下は黙った。
「六年間」
私は続ける。
「婚約者だった私に、一度でも『本当なのか』と聞きましたか」
答えはなかった。
胸の奥に、静かに区切りがついた。
「分かりました」
もう、この人に何かを分かってもらいたいとは思わない。
「次へ進みます」
「待て、リディア」
「後ほど」
私は視線を逸らした。
「殿下のお話は最後に伺います」
そしてヴェイロン侯爵を見る。
「王太子府から消えた金貨一万二千枚について」
帳簿を開く。
「三千枚がロゼット男爵家。八千枚がヴェイロン商会。残りは学院関係者への支払い」
「捏造だ!」
侯爵が叫ぶ。
「では、こちらの署名は?」
私は書類を差し出した。
侯爵の顔色が変わる。
「あなたの執事の署名です」
「偽造だ!」
「本人は認めています」
「買収したのだろう!」
「それでは次に」
私は小さな木箱を机の上へ置いた。
蓋を開く。
中には茶色い瓶が一本。
侯爵の表情が固まった。
「父に使われた毒と同一成分です」
広間がざわめく。
「ヴェイロン商会の倉庫から発見されました」
「知らん!」
「南方から香辛料と偽って輸入された記録があります」
さらに別の書類を置く。
「荷を運んだ責任者が、我が家の料理人と接触しています」
「偶然だ!」
「料理人は自白しました」
侯爵の額に汗が浮かぶ。
「父を殺し、私を廃嫡させ、アルヴェイン家の直系を絶つ。その後、領地を王家とヴェイロン家で再編する」
「違う!」
「北方街道を押さえれば、交易税だけでも莫大な収入になる」
「黙れ!」
「銀山も手に入る」
「黙れと言っている!」
「穀倉地帯も」
「貴様のような小娘に何が分かる!」
怒声が響いた。
私は黙った。
侯爵も、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
私はゆっくり口を開く。
「ありがとうございます」
「……何?」
「今のお言葉で十分です」
侯爵の顔が引きつる。
「『小娘に何が分かる』と仰った」
私は静かに続ける。
「つまり、私が推測した内容の中に、あなたが知っている事実がある」
「言葉尻を!」
「もちろん、それだけで有罪とは申しません」
私は笑った。
「ですので、証拠を全部提出しました」
ユリウス殿下が横で小さく笑った。
侯爵は何も言えなくなった。
その時。
「私は利用されただけです!」
エミリア嬢が叫んだ。
全員が彼女を見る。
「侯爵様に言われたんです! レオナルド様と結婚できるようにしてやるって!」
「お前!」
ヴェイロン侯爵が怒鳴る。
「レオナルド様も、リディア様を追い出せば私を王太子妃にするって!」
殿下の顔が凍る。
「エミリア、何を」
「私だけ悪いみたいにしないで!」
美しい涙が頬を伝う。
「私は幸せになりたかっただけです!」
私は彼女を見る。
「そうですか」
エミリア嬢がこちらを見る。
「リディア様……」
「ですが、あなたが幸せになるために、私の人生を壊してよかったのですか」
「私はそんなつもりでは」
「父が死ねば、あなたにも利益があると知っていましたね」
「……」
「知らなかったとは言わせません。侯爵家の執事とのやり取りが残っています」
エミリア嬢の涙が止まる。
「私は、殺せなんて言っていません」
「でも止めなかった」
「……」
「知っていて黙っていた」
彼女は何も言えない。
「あなたは被害者ではありません」
私は言った。
「加害者です」
エミリア嬢は崩れるように椅子へ座った。
しばらくして、国王が口を開いた。
「近衛」
騎士たちが動く。
「ヴェイロン侯爵を拘束せよ」
「陛下!」
「ロゼット男爵令嬢も」
「嫌!」
「そしてレオナルド」
第一王子が顔を上げる。
「父上……」
「王太子位を剥奪する」
「そんな!」
「横領、職権濫用、虚偽告発への関与。いずれも看過できぬ」
「私は騙されただけです!」
「王太子とは、騙されたから責任を負わなくてよい立場ではない」
国王の声は重かった。
近衛騎士がレオナルド殿下の腕を取る。
その時。
「リディア!」
呼ばれた。
私は振り返る。
「助けてくれ」
六年間、婚約者だった人。
「僕はエミリアに騙されていたんだ」
昔は、この人と家庭を築くのだと思っていた。
「だから」
「殿下」
私は静かに遮った。
「私はあなたの母親ではございません」
殿下が目を見開く。
「誰かに騙されたからといって、あなたの失敗を私が片づけて差し上げる義理はございません」
そのまま背を向けた。
◇
それで終わりではなかった。
ヴェイロン侯爵が拘束された翌日から、彼の派閥に属していた貴族たちが次々とアルヴェイン家へ手紙を寄越した。
『以前から侯爵を怪しいと思っていた』
『我が家は決して協力していない』
『ぜひアルヴェイン家との友好を深めたい』
私は山積みの手紙を見る。
「燃やしましょうか」
ベッドで療養中の父が首を振った。
「証拠になる」
「では保管します」
「ああ」
「それから婚約申込書が三十七通」
「燃やせ」
私は父を見る。
「証拠になりません?」
「ならん」
「侯爵家十五」
「却下」
「公爵家四」
「却下」
「隣国の王弟殿下からも」
「却下」
「お父様」
「何だ」
「読んですらいませんよね」
「読む必要がない」
「なぜです?」
「お前を幸せにできるか分からない」
「誰ならいいんです?」
父は考え込んだ。
長い。
本当に長い。
「いない」
「……」
「お父様」
「何だ」
「このままだと私、一生独身です」
「問題ない」
「家が絶えますよ」
「分家から養子を取る」
「アルヴェイン公爵家ですよ?」
父は新聞をめくった。
「お前の人生より大事な家名などない」
私は黙った。
最近の父は困る。
昔は何も言わなかったくせに。
今になって急に、そういう言葉を平然と投げてくる。
「そういうことばかり言うと」
「何だ」
「私が、お父様を好きになってしまいます」
新聞が止まった。
「……」
「お父様?」
「昔は?」
「何です?」
父は新聞で顔を隠した。
「昔は、好きではなかったのか」
私は思わず笑った。
「そこを気にするんですか」
「重要だ」
「大嫌いでした」
新聞の向こうで、父が完全に固まった。
「でも」
私は続ける。
「今は大好きです」
新聞が少し下がる。
父の耳が赤い。
「……そうか」
「はい」
「そうか」
「二回言いましたね」
「言っていない」
「言いました」
「気のせいだ」
「そういうことにしておきます」
私は笑った。
◇
一月後。
裁判の判決が下った。
ヴェイロン侯爵は爵位剥奪。
領地没収。
国庫横領。
公爵暗殺未遂。
贈賄。
その他複数の罪が認定され、終身幽閉となった。
ロゼット男爵も爵位を失い、不正に受け取った資金の返還を命じられた。
エミリアは平民籍へ戻され、王都追放。
学院関係者のうち、金を受け取って虚偽証言に協力した者も処罰された。
そしてレオナルド元王太子。
王位継承権剥奪。
王族籍こそ残されたが、北西部の小さな王領へ送られた。
その土地には鉱山がある。
王太子時代、アルヴェイン家の銀山を欲しがった男は、今では毎日鉱山の収支報告書を書いているらしい。
しかも。
「お父様」
「ああ」
「会計監査官を送ったのは本当ですか」
「送った」
「厳しい方を?」
「一番厳しい者を」
「……」
「問題か?」
「いいえ」
私は紅茶を飲んだ。
「何でもありません」
少しだけ、可哀想だと思った。
本当に少しだけ。
◇
半年後。
王国は大きく変わった。
一連の事件を受け、国王は退位。
王妃もヴェイロン家との癒着の責任を問われ、離宮へ移った。
そして第二王子ユリウスが新たな国王となった。
戴冠式の日。
「リディア」
新国王となったユリウス陛下が言う。
「宰相にならない?」
「嫌です」
「即答?」
「父が泣きます」
「僕が守るけど」
「さらに泣きます」
ユリウス陛下は声を出して笑った。
「アルヴェイン公爵は君のことになると面倒くさいね」
「否定できません」
実際、最近の父はかなり面倒くさい。
帰宅が遅いと迎えが来る。
夜会で男性と長く話すと、翌日その男性の経歴書が机に置かれている。
少し風邪を引いただけで、王都中の医師を呼ぼうとする。
十七年間愛情表現を怠った反動らしい。
「でも」
ユリウス陛下が笑みを薄くする。
「君がいてくれて助かった」
「私ではなく父です」
「いや」
陛下は首を振った。
「公爵が倒れた後、アルヴェイン家を崩さなかったのは君だ」
私は返事をしなかった。
「今度は誰かの娘としてではなく、君自身の功績として受け取っていい」
胸の奥が少し温かくなった。
「ありがとうございます」
「だから宰相」
「嫌です」
「そこは変わらないか」
「変わりません」
◇
屋敷へ戻ると、玄関に父がいた。
「……」
「……」
「お父様」
「ああ」
「なぜ玄関に?」
「偶然だ」
「三十分前から待っていたと聞きました」
父が後ろを見る。
「セバス」
老執事は澄ました顔をしている。
「私は何も申し上げておりません」
「顔に書いてあります」
私は父の隣へ並ぶ。
「今日は空いているか」
父が尋ねた。
「はい」
「街へ行く」
「何をしに?」
父は一度咳払いした。
「新しい菓子店ができた」
私は笑った。
「ようやくですね」
「何が」
「約束」
「覚えていたのか」
「もちろん」
父は少し目を逸らした。
「苺のタルトが有名らしい」
私は足を止める。
「どうして、私が苺のタルトを好きだと?」
父は不思議そうな顔をした。
「昔からだろう」
「……」
「十歳の誕生日。用意したケーキの苺だけ先に食べていた」
私は父を見る。
「見ていたのですか?」
「ああ」
「来なかったのに」
父が黙る。
「お父様?」
「扉の外までは来た」
「では、なぜ入らなかったのです」
「仕事の途中だった」
「五分くらい入れたでしょう」
「……」
「お父様」
父は観念したように小さく息を吐いた。
「当時の私は大馬鹿だった」
私は笑った。
「知っています」
「ああ」
「でも」
私は父の腕に、自分の腕を絡めた。
「今から取り戻せばいいんです」
父がこちらを見る。
「十歳の誕生日も」
「ああ」
「十二歳の発表会も」
「ああ」
「十四歳の母の命日も」
「ああ」
「全部」
父は少し黙った。
「取り戻せるか」
私は首を振る。
「時間は戻りません」
「……そうだな」
「でも、これからの時間ならいくらでもあります」
父はしばらく私を見ていた。
それから今度は迷わず、私の頭を撫でた。
「そうだな」
春の風が庭を抜ける。
鈴蘭が小さく揺れていた。
私は悪役令嬢と呼ばれた。
冷酷。
傲慢。
嫉妬深い。
身分の低い者を虐げる女。
随分いろいろなことを言われた。
けれど、もうどうでもいい。
世界中の人間が私を悪人だと言ったとしても。
一人だけ、何があっても私を信じる人がいる。
そして今度は、私も知っている。
その人が世界一不器用で。
世界一言葉が足りなくて。
愛し方を大きく間違えて。
それでも誰よりも私を大切にしてくれていることを。
「お父様」
「何だ」
「タルト、二つ食べても?」
「好きなだけ食べろ」
「太ったら?」
「ドレスを作り直せばいい」
「そのお金は?」
「私が出す」
「甘やかしすぎです」
「そうか」
「はい」
「では一つにしろ」
「それは嫌です」
「……」
「二つ食べます」
「好きにしなさい」
私は笑った。
父も、ほんの少しだけ笑った。
失った十七年は消えない。
寂しかった少女も。
愛し方を間違えた父親も。
なかったことにはできない。
だからこそ忘れない。
間違えたことを。
傷つけたことを。
そして、やり直せることを。
悪役令嬢と呼ばれた私の物語は、王子に捨てられた日から始まった。
けれど、あの日に本当に始まったのは、もっと別の物語だったのだと思う。
十七年間。
互いを愛しながら、その伝え方を知らなかった一組の父娘が。
ようやく家族になっていく。
少し遅かった。
けれど。
決して遅すぎなかった。
そんな物語である。
― 完 ―




