第8話「偽りの仮面の下で」
断罪の日までの数日間、オフィーリアは牢獄という舞台の上で完璧な「悲劇の令嬢」を演じきった。訪れる者たちに対し周到に計算された言葉と態度で接し、最後の布石を打っていく。それは世界の終わりに向けた彼女なりの儀式でもあった。
最初に訪れたのは父であるヴァインベルク公爵だった。彼は娘の無実を信じながらも王家との対立を恐れるあまり何もできずにいた。その憔悴しきった顔に、オフィーリアは静かに告げた。
「お父様、もうお気になさらないでください。これは私が選んだ道なのですから」
その言葉は諦めにも、あるいは覚悟にも聞こえた。公爵は娘のあまりに落ち着いた様子に、ただ狼狽えるばかりだった。オフィーリアは彼に最後の親孝行として、公爵家の財産を安全な場所に移すようそれとなく助言した。世界の崩壊後、彼がどうなるかは分からない。だが僅かでも生き延びる可能性があるのなら、それに賭けたかった。
次にやって来たのは婚約者のユリウスだった。彼は完璧な王子の仮面をつけたまま、しかしその瞳は揺れていた。オフィーリアという筋書きにない行動を取る存在が、彼の作り物の世界を根底から揺さぶっていたのだ。
「なぜこんなことをした、オフィーリア。君ほどの女性が聖女を妬むなどと……私には信じられない」
その問いは本心からのものだろう。彼は自分の脚本にない出来事を理解することができないのだ。
「殿下。あなたはご自分が本当に望むものが何か、考えたことはおありになりますか? 誰かに与えられた役割ではなく、あなた自身の心が求めるものを」
オフィーリアは静かに問いかけた。ユリウスはその言葉に虚を突かれたように目を見開いた。彼の空虚な瞳の奥で、何かがほんの僅かにきらめいたように見えた。
「……私の、望み……?」
「ええ。この茶番劇が終わったら一度、ゆっくりとお考えになるとよろしいでしょう。あなたの人生はあなたのものなのですから」
それは人形への最後の手向けだった。彼がいつか自分の意志で歩き出す日が来ることを、心のどこかで願っていたのかもしれない。
そして聖女リリアンヌもまた、オフィーリアの前に姿を現した。彼女は勝利者として敗者を嘲笑うために来たのだ。その可憐な顔には隠しきれない優越感が滲み出ていた。
「残念ですわ、オフィーリア様。あなたも私に逆らったりしなければ、こんなことにはならなかったものを」
恍惚とした表情でリリアンヌは囁いた。彼女の歪んだ欲望が満たされようとしている。
「そうね、リリアンヌ様。あなたはいつだって正しい。あなたのその清らかな光の前では、私のような人間の悪意など塵芥のようなもの」
オフィーリアはあえて彼女を持ち上げた。するとリリアンヌはますます得意満面になり、自分の計画がいかに完璧だったかを饒舌に語り始めた。それは彼女自身が犯した罪の完璧な自白だった。
オフィーリアはただ黙ってその言葉を聞いていた。牢獄の壁の向こうでレオンが仕掛けた小型の録音魔導具が、その全てを記録しているとも知らずに。これは聖域への侵入が失敗した場合の保険だった。リリアンヌの狂気を白日の下に晒し、この世界の欺瞞を少しでも暴くための。
最後に護衛騎士のアレスが来た。彼は誰よりも苦しそうな顔をしていた。信じるべき主と信じるべき正義の間で、彼の心は引き裂かれそうになっていた。
「本当に、あなたが……? オフィーリア様、どうか真実を教えてください」
その瞳は真剣だった。彼はただ、信じるべき道標が欲しいだけなのだ。
「アレス。あなたにとっての正義とは何? 王家の命令? 聖女様の言葉? それともあなた自身の心の中にある、揺るぎない信念?」
オフィーリアは彼に答えを与えなかった。ただ問いを返すだけ。
「もし、あなたの信じる正義が誰かに作られた偽りだったとしたら……あなたはどうする?」
「……そんなことは、あり得ない」
「そうかしら。よく見て。よく聞いて。そして自分で考えるのよ、アレス。誰かの言葉を鵜呑みにするのではなく、あなた自身の目で真実を見極めなさい」
オフィーリアの言葉はアレスの心に、小さな、しかし消えない棘となって突き刺さった。彼は何も言えずに、ただ固く拳を握りしめるだけだった。
面会時間が終わり、牢獄に再び静寂が戻る。
オフィーリアは大きく息を吐いた。
ユリウスに自己の意志の尊さを。
リリアンヌに己の罪の証拠を。
アレスに真実への疑念を。
最後の種は蒔かれた。彼らがこの後どうなるかはもはや彼女の知るところではない。だがこの狂った舞台に僅かでも亀裂が入ることを願わずにはいられなかった。
彼らとの対話を通して、オフィーリアは確信していた。
この世界の登場人物たちは皆、壊れかけている。女神の筋書きは既に綻びだらけなのだ。自分とレオンというイレギュラーの存在がその崩壊を加速させている。
ならば自分たちの手で介錯をしてやるのが筋だろう。
偽りの仮面の下で誰もが苦しんでいる。
完璧な王子を演じることに疲れた少年。
愛される聖女を演じることでしか自分を保てない少女。
絶対の正義という名の呪いに縛られた騎士。
そして悪役令嬢を演じさせられ、十三回も殺された自分。
もううんざりだった。
「レオン……聞こえている?」
オフィーリアは壁に向かってそっと囁いた。レオンが協力者を通じてこの牢獄を監視していることを知っていたからだ。
「ええ、聞こえていますよ。見事な演技でした、主演女優」
どこからか彼の声が微かに頭の中に響いた。念話の魔法だろうか。
「これで、心残りは、ないわ」
「そうですか。……こちらも準備は万端です。あとは明日の本番を待つだけ」
彼の声はいつも通り飄々としていたが、その奥に鋼のような覚悟が感じられた。
「怖くは、ないの?」
「怖いですよ。死ぬのも全てが無に帰すのも。でもね、オフィーリア。あなたと出会って初めて思ったんです。このどうしようもない世界でたった一つ、自分の意志で何かを成し遂げてみたい、と。……それは恐怖よりもずっと、強い感情ですよ」
その言葉がオフィーリアの心を温かく満たした。
そうだ、自分も同じだ。
この最後の反逆は誰かに強いられた役割ではない。
オフィーリア・フォン・ヴァインベルクという人間が初めて、自分の意志で選び取った最後の物語なのだ。
「ええ。そうね」
オフィーリアは静かに目を閉じた。
瞼の裏にレオンの顔が浮かんだ気がした。
明日、自分たちは共に世界を壊す。
その結末がどうなろうとも、後悔はなかった。




