第6話「共犯者の契約」
再び深夜の旧礼拝堂を訪れたオフィーリアは、紋様が刻まれた壁の前に立っていた。背後ではレオンが魔術的な障壁を展開し、万が一の侵入者や女神の「観測」からこの場所を遮断している。彼の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。この世界のシステムに干渉するのは、彼にとっても相当な負担なのだろう。
「準備はいいですか、オフィーリア」
「ええ」
オフィーリアは短く応じると、懐から小さなナイフを取り出し、躊躇なく自らの指先を傷つけた。ぷくりと浮かんだ血の玉を、壁の紋様の中央にそっと押し当てる。
最初は何も起こらなかった。やはり考えすぎだったのか。そう思った瞬間、紋様が淡い光を放ち始めた。ゴゴゴ、と低い地響きが鳴り、壁がゆっくりと奥へと沈んでいく。
その先にあったのは小さな部屋だった。中央に水晶でできたかのような透明な台座が一つあるだけ。そしてその台座の上には、一冊の古びた本が置かれていた。
その本はこれまでオフィーリアが見てきたどの書物とも違っていた。表紙は銀色の金属でできており、文字一つ書かれていない。だが本そのものが得体のしれない強大な力を放っているのが、肌で感じられた。
「これが……女神の……」
「おそらくは、この世界のルールを記述した根本の法――『創世の書』の写本、あるいはそれに類するものでしょう」
レオンが息を呑んでつぶやいた。
オフィーリアは恐る恐るその本に手を伸ばし、表紙を開いた。
その瞬間、膨大な情報が濁流のように彼女の脳内へとなだれ込んできた。それは文字や映像ではない。もっと根源的な、世界の設計図そのものだった。
女神がどのような意図でこの世界を創ったのか。
人々にどのような「役割」を与えたのか。
ユリウスには『完璧な王子』。
リリアンヌには『無垢な聖女』。
アレスには『絶対の正義』。
そしてオフィーリアには『物語を活性化させるための悪』。
全てが女神の退屈しのぎの「物語」を面白くするための、ただの設定でしかなかった。ループは物語が予定調和に陥った時に新たな刺激を加えるためのリセットボタン。そして世界の「歪み」は女神が気まぐれにパラメータをいじった結果生じる、ただのバグに過ぎなかった。
「ああ……あ……」
あまりに膨大で無慈悲な真実に、オフィーリアの精神は悲鳴を上げた。立っているのがやっとだった。頭を抱えその場にうずくまる。これまでの人生、繰り返してきた死、その全てが無意味だったと、これほど明確に突きつけられたことはなかった。
「しっかりしてください、オフィーリア!」
レオンが駆け寄り彼女の肩を強く掴んだ。彼の必死な声で、オフィーリアはかろうじて意識を保つ。
「……見たのね。世界の、真実を」
「ええ……。くだらない、あまりにくだらない……私たちの世界は、ただの……遊びだったのね……」
乾いた笑いが唇から漏れた。涙はもう出なかった。
レオンは黙って彼女が落ち着くのを待っていた。やがてオフィーリアが顔を上げると、彼は静かに、しかし力強い目で彼女を見つめ言った。
「全てを知った上で、あなたに選んでほしい。我々がこれから進むべき道を」
彼はオフィーリアの前に、二つの道を示した。
「一つは、この狂った舞台の上で与えられた役割を完璧に演じきることです。今回のループであなたは『創世の書』に触れるという、女神の想定を遥かに超える行動を取った。その影響は次のループに引き継がれるはず。女神はあなたを危険なイレギュラーとみなしながらも、同時に、物語を面白くする新しいおもちゃとして興味を持つでしょう。上手く立ち回れば次のループで世界の『設定』を僅かに変更する権利を得られるかもしれない。例えばあなたの処刑を回避する、とかね。しかしそれは結局、女神の掌の上で踊り続けることに変わりない」
レオンは一度言葉を切り、オフィーリアの目を真っすぐ射抜いた。
「もう一つは……このくだらない物語ごと、世界を終わらせることです」
彼の声は静かだったが、その奥に狂気にも似た覚悟が宿っていた。
「世界の根幹を成すシステムを破壊し、女神の観測からこの世界ごと脱出する。もはや彼女の駒として弄ばれるのは終わりだ。だがそれはこの世界の完全な崩壊を意味するかもしれない。成功したとしてその先に何があるのかは誰にも分からない。新たな世界か、それとも完全な無か。全てが消え去る可能性もある、危険な賭けです」
沈黙が二人を包んだ。ランプの炎が、ぱちりと音を立てた。
オフィーリアの答えは決まっていた。
もはや誰かの筋書きの上で踊るのはうんざりだった。たとえその先に待つのが無であったとしても、それは女神に与えられた偽りの生を生きるよりずっとましだ。
「決まっているわ」
オフィーリアはふらつきながらも、自らの足で立ち上がった。その瞳には先ほどまでの絶望の色はない。全てを諦め、そして全てを受け入れた者だけが持つ、鋼のような強い意志が宿っていた。
「壊しましょう。このくだらない箱庭を。女神の観測も私たちの役割も、全て。何もかも終わらせるのよ」
彼女の選択に、レオンは満足げにうなずいた。その口元には初めて見る、心からの笑みが浮かんでいた。
「ええ、そうでなくては。あなたなら、そう言うと信じていました」
彼はオフィーリアに向かって手を差し出した。
「改めて契約を結びましょう、共犯者殿。我々はこれから世界を壊す。神を殺す、ただ二人の反逆者だ」
オフィーリアはその手を強く握り返した。冷たい彼の手は、しかし不思議なほどに温かく感じられた。
それは誰にも理解されない地獄を共に歩む、唯一の同志の体温だった。
「ええ、レオン。始めましょう。私たちの、最後の物語を」
創世の書が二人の契約に応えるかのように、不気味な光を放っていた。
世界の終わりへのカウントダウンが、今、始まった。
それは絶望的なまでに孤独で、しかし確かな絆で結ばれた二人の、静かな宣戦布告だった。




