第12話「脚本家のいない物語」
「始まり? 何を言っているのかしら。あなたたちはもうすぐ消えるというのに」
女神は心底不思議そうに首を傾げた。その無邪気さが何よりも恐ろしい。彼女にとって二人の存在を消すことは、気に入らない玩具をゴミ箱に捨てる程度の些細な行為でしかないのだ。
絶望的な神の威圧がオフィーリアとレオンの体を押し潰そうとする。だが二人はひるまなかった。視線を交わし最後の覚悟を決める。
「レオン。準備はいいわね」
「ええ。いつでも」
レオンは最後の護符を構え、魔力を最大限に高めた。彼の役目はオフィーリアが「術」を発動させる、ほんの僅かな時間を稼ぐこと。それは彼の全生命力を賭けた一瞬の煌めきになるだろう。
「さようなら、つまらないおもちゃたち」
女神がそっと手を振り上げた。その小さな手から、世界の理さえも捻じ曲げる絶対的な破壊の力が放たれようとした、その瞬間。
「今よ!」
オフィーリアの叫びと共に、レオンが最後の力を振り絞った。
「世界の理よ、我が声を聞け! 一瞬の停滞を、ここに!」
レオンの体から放たれた光が、女神の動きを、コンマ一秒にも満たない、しかし永遠にも思える時間、停止させた。
その刹那の隙。
オフィーリアは温存していた全ての魔力を解放し、禁忌の術を発動させた。
「あなたの物語は、ここでおしまいよ、女神様!」
彼女が発動させた術。それはループの中で偶然見つけた、たった一つの神に対抗しうる手段。
それは――『観測者を、観測する』こと。
女神はこの世界の絶対的な観測者。その視点から物語を弄り楽しんでいる。彼女の存在は観測者であるという一点においてのみ、絶対的に安定している。
ならばその前提を覆せばいい。
観測されるだけの存在だった「登場人物」が、逆に観測者を「観測」したとしたら?
物語の駒が脚本家を認識し、その存在を定義しようとしたら?
オフィーリアの意識が極限まで研ぎ澄まされる。
目の前の少女を「金色の髪を持ち」「紫の瞳をした」「無邪気で残酷な」「『女神』という役割を与えられた」「“何か”」として、強く、強く観測する。
それはこの世界の登場人物が決して持ってはいけない視点。
神の視点だった。
「な……に……? これは……?」
女神の体が初めてぐらりと揺らいだ。
彼女の表情から無邪気さが消え、焦りと信じられないものを見るような驚愕の色が浮かぶ。
「やめて……。やめなさい……! 私を、見るな……!」
絶対的な観測者であったはずの自分が、誰かに「観測」されている。その事実は女神の存在そのものを根底から揺るがした。彼女の足元がノイズが走った映像のようにブレ始める。
聖域全体が悲鳴のようなきしみ音を上げた。天井も壁もないはずの空間に巨大な亀裂が走り、世界の設計図であったはずの光の線が次々と焼き切れていく。
「やった……! やったわ、レオン!」
オフィーリアが歓喜の声を上げる。だがその隣で、レオンが糸が切れた操り人形のようにゆっくりと崩れ落ちた。
「レオン!」
駆け寄るオフィーリアに、彼は弱々しく微笑んだ。
「……やりましたね……。さすが、です……」
彼の体は魔力を使い果たし、半ば透けかかっていた。
「しっかりして! 死なないで!」
「……もう、ここまでです……。でも後悔は……ない……」
レオンの手がだらりと落ちる。オフィーリアの目からこの世界に来て初めて、自分の意志で涙が溢れた。
だが感傷に浸っている時間はない。世界は今、まさに崩壊しようとしているのだ。
「まだよ! まだ終わらせない!」
オフィーリアはレオンの体を背負うと、ふらつきながらも立ち上がった。
女神の存在が不安定になったことで中枢システムの力も弱まっている。オフィーリアは残された最後の力を振り絞り、巨大な水晶の柱に手を叩きつけた。
「壊れなさいッ!」
その一撃で水晶はガラスのように粉々に砕け散った。
その瞬間、世界の崩壊は決定的となった。
足元の床が次々と奈落へと落ちていく。無数のスクリーンが火花を散らして消滅する。
「おのれ……おのれ、おのれ……! 私の、物語を……!」
女神の怨嗟に満ちた声が崩壊する聖域に響き渡る。だがその姿はもはや、ほとんど形を保っていなかった。
「オフィーリア……あちらに……」
背負われたレオンが途切れ途切れの声で空間の奥を指さした。
そこには中枢システムが破壊されたことで現れた、小さな光の扉があった。
あれが出口。
この狂った箱庭からの唯一の脱出口。
オフィーリアは最後の力を振り絞り、光の扉へと向かって走った。
背後で女神の断末魔と、世界が崩壊する轟音が追いかけてくる。
もう何もかもが終わる。
長い、長い悪夢が。
光の扉に手が届く。
オフィーリアはレオンを抱え直すと、振り返ることなくその光の中へと身を投じた。
その先に何があるのかは分からない。
女神のいない新しい世界の夜明けか。
それとも全てが消え去った完全な無か。
あるいはまた別の、誰かが創った新たな物語の始まりか。
答えは誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
それは、脚本家のいなくなった真っ白な頁から始まる、自分たちだけの物語。
その最初のページを、これから二人で紡いでいくのだ。




