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第11話「時の止まった聖域」

 空間の亀裂に飛び込んだ瞬間、オフィーリアの全身を経験したことのない感覚が襲った。まるで熱い鉄と冷たい氷で、同時に体を内側から引き裂かれるような強烈な痛みと浮遊感。隣で手を握るレオンの存在だけが、かろうじて彼女の意識を繋ぎ止めていた。


 どれほどの時間だったのか。数秒か、あるいは永遠か。

 不意に全ての感覚が消え、二人の体は硬い床の上に放り出された。


「……っ、大丈夫ですか、オフィーリア」


 レオンが苦しげに息を吐きながら身を起こした。オフィーリアもゆっくりと目を開ける。

 そこは言葉では表現しがたい異様な空間だった。

 果てしなく広がる純白の床。天井や壁という概念はなく、ただ無限の空間が広がっている。そしてその空間には無数の光の線が、まるで巨大な回路基板のように縦横無尽に走り、明滅を繰り返していた。所々には半透明のスクリーンが浮かび、そこにはオフィーリアたちがいた世界の様々な光景が映し出されている。あるスクリーンには断罪の場で混乱するユリウスたちの姿が。また別のスクリーンには過去のループの光景が早送りのように再生されていた。


「ここが……聖域……」


「ええ。女神の、観測室です」


 レオンは警戒を解かずに周囲を見渡した。神聖でありながらどこまでも人工的で、無機質。生命の気配が一切感じられない。ここが自分たちの世界を創り、弄んできた全ての元凶。


 二人が立ち上がった、その時。

 空間に鈴を転がすような、無邪気な声が響き渡った。


「あらあら。迷子のネズミが二匹。どうやってここまで来たのかしら?」


 声のした方を見ると、空間の何もない場所から一人の少女がゆっくりと姿を現した。

 純白のドレスに金色の巻き毛。宝石のように輝く紫色の瞳。見た目は十歳にも満たない愛らしい少女だった。

 だがその瞳の奥には、何億年も生きてきたかのような底なしの叡智と、そして全てを玩具としか見ていない純粋で無垢な狂気が宿っていた。

 間違いない。

 この少女こそがこの世界の創造主。女神、その人だった。


「やっとお会いできたわね。脚本家さん」


 オフィーリアは憎しみを込めて女神を睨みつけた。だが女神は、そんな彼女の視線さえも楽しんでいるようだった。


「おかしな子。脚本家は舞台に上がる役者に話しかけたりしないものよ? でも、まあいいわ。あなたたちは私の予想を少しだけ超えてくれた特別なおもちゃだもの。少しだけお話ししてあげる」


 女神はくすくすと笑いながら二人の周りを、まるで珍しい生き物でも観察するようにくるくると回り始めた。


「あなた、面白いわね。何度も殺してあげたのにその度に少しずつ賢くなっていく。普通のおもちゃはすぐに壊れて飽きちゃうのに。あなたは特別。だから次の物語ではあなたを主役にしてあげようと思っていたのに。残念だわ」


 その言葉にオフィーリアは吐き気を覚えた。自分の苦しみも絶望も死も、この少女にとってはただの「遊び」でしかないのだ。


「そして、あなた」


 女神はレオンの前でぴたりと足を止めた。


「あなたはただの背景のつもりだったのに、いつの間にか自我なんてものを持っちゃって。本当にイレギュラーは、物語を面白くしてくれるわ」


「光栄だな。だが我々はおもちゃじゃない。あんたの筋書きに付き合う気も、もうない」


 レオンが低い声で言い放つ。彼は懐から取り出した数枚の護符をオフィーリアに手渡した。聖域のシステムに対抗するための、彼が用意した切り札だった。


「あら、反抗期かしら? でもね、無駄よ。ここは私の世界。私のルールの中。あなたたちにできることなんて、何一つ……」


 女神がそう言いかけた、瞬間だった。

 聖域全体が、けたたましい警報音と共に赤い光に包まれた。

『警告。未認証のアクセスを確認。防衛システム、レベル1、起動』


 無機質な音声アナウンスと共に、二人の周囲の白い床が幾何学模様に隆起し、鋭い槍となって襲いかかってきた。


「させるか!」


 レオンが叫び護符を投げつける。護符は光の壁となり、槍の穂先をかろうじて防いだ。


「さすがに手ぶらで来るほど、お人好しじゃないんでね!」


「オフィーリア、行くぞ! 中枢は、この空間の中心にあるはずだ!」


「ええ!」


 二人は次々と襲い来るシステムの防衛機構を、協力して切り抜けながら空間の奥へと走った。

 女神はその様子を少しも慌てず、ただ楽しそうに眺めていた。


「すごい、すごいわ! そうこなくっちゃ! ただ壊されるだけのおもちゃなんて、つまらないもの!」


 彼女がぱちんと指を鳴らす。

 すると今度は、過去のループで死んだはずの人間たちの幻影が二人を取り囲んだ。

 オフィーリアの前に現れたのは彼女を裏切った侍女。レオンの前には彼が救えなかった家族の姿が。


「オフィーリア様、なぜ私を見捨てたのですか……」

「兄さん、どうして助けてくれなかったの……」


 幻影は怨嗟の声を上げながら二人に手を伸ばしてくる。精神を直接攻撃する悪辣なトラップだった。


「惑わされるな、オフィーリア!奴らは偽物だ!」


 レオンが叫ぶ。オフィーリアも歯を食いしばり、幻影を振り払った。

 偽物だと分かっていても心がかき乱される。だがここで立ち止まるわけにはいかない。

 二人は互いを励まし支え合いながら、先へと進んだ。

 やがてその先に、一際大きく輝く巨大な水晶の柱が見えてきた。無数の光の線が全て、その柱へと収束している。

 あれがこの世界の中枢システム。


「やっと、たどり着いた……!」


 二人が水晶の柱に手をかけようとした、その時。

 目の前に女神が音もなく現れた。


「残念。ゲームは、ここでおしまいよ」


 その瞳はもはや笑ってはいなかった。

 ただ全てを無に帰す、絶対的な神の目がそこにあった。

 絶望的なまでの力の差。

 だがオフィーリアとレオンは、諦めてはいなかった。

 全てはこの瞬間のために。


「いいえ。ここからが、始まりよ」


 オフィーリアは不敵に笑い、最後の切り札をその手に握りしめた。

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