第1話「十三回目の冷たい紅茶」
【登場人物紹介】
◆オフィーリア・フォン・ヴァインベルク
本作の主人公。公爵令嬢。婚約者である王子から無実の罪で断罪され、処刑される運命を十二回繰り返している。繰り返す死の中で心をすり減らし、十三回目の人生では破滅回避を諦め、ループする世界の謎を解き明かすことを決意する。冷徹な観察眼で、登場人物たちの仮面を剥がしていく。
◆ユリウス・アーク・レオンハイム
オフィーリアの婚約者であり、王国の第一王子。文武両道、才色兼備の完璧な王子として国民から敬愛されている。しかし、その完璧な微笑みの下には、他者にも自分にも期待しない深い虚無を隠している。
◆リリアンヌ
平民出身でありながら、強い聖なる力に目覚めた聖女。可憐で心優しく、誰からも愛される少女。その無垢な瞳は、他人の不幸や絶望を蜜のように啜る、オフィーリアを断罪へと導く物語の「ヒロイン」。
◆アレス・アイゼンベルク
オフィーリアの護衛騎士。寡黙だが実直で、主への忠誠心は揺るぎない。しかし、その胸に秘めた正義感は常軌を逸しており、大義のためならば無辜の民の犠牲すらもいとわない狂信性を帯びている。
◆司書
王立図書館に勤める謎の男。常に飄々とした態度を崩さず、その真意は読めない。オフィーリアと同じく世界のループに気づいており、女神の創り出した狂った箱庭からの脱出を画策している。彼女に世界の真実を伝え、共に運命に抗う「共犯者」となる。
ひやりと首筋を撫でる冷気に、オフィーリアは意識を浮上させた。
硬質なベッドの感触、消毒液のかすかな匂い、そして窓から差し込む目に痛いほどの白い光。
見慣れたというにはあまりに絶望的な、牢獄の天井がそこにあった。
十三回目。
指を折って数えるまでもない。この陰鬱な目覚めを、彼女はもう十二回も経験しているのだから。
「オフィーリア様、朝食のお時間です」
扉の外から聞こえる声は侍女のものだ。前回、前々回、そのまた前も、彼女は同じ言葉を口にした。しかしその声色には、ほんの僅かだが確実な棘が混じっている。先週までのループでは、心配と憐憫に満ちた震えるような声だったはずなのに。
『またか』
胸の内で乾いた笑いがこみ上げる。これも「歪み」の一つ。この世界がループの度に少しずつ、しかし確実に狂っていく兆候。
「ありがとう。すぐにいただくわ」
感情を押し殺した声で応じると、重い音を立てて牢の扉が開かれた。盆を持った侍女が無表情に部屋へ入ってくる。彼女の目に、かつてオフィーリアに向けられていた敬愛の色はない。ただ冷たい侮蔑だけがそこにあった。
盆の上に置かれているのは、硬くなったパンとぬるいスープ、そして一杯の紅茶。いつもと同じ、断罪を待つ「悪役令嬢」に与えられる最後の食事。
オフィーリアはゆっくりと身を起こし、椅子に腰かけた。侍女は無言でテーブルに食事を並べると、壁際に直立不動で佇む。監視の目だ。前回までは、彼女はオフィーリアのそばに寄り添い『何かお困りのことはございませんか』と涙ながらに問いかけてきたというのに。
この変化は何だ? 私が何か違う行動を取ったから? いいえ、違う。今回はまだ、目覚めてから一言二言しか発していない。この変化は私が原因ではない。世界が勝手に変わっているのだ。
パンを一口かじる。味などしない。ただ生きるための作業として咀嚼し、飲み下す。スープも同じだ。味覚が麻痺しているのかもしれない。十二回の処刑は、オフィーリアから多くのものを奪っていった。涙も希望も、そして恐怖さえも。今、彼女の心を占めているのは、燃えカスのような無力感と、この狂った世界への冷めきった好奇心だけだった。
最後に、紅茶のカップを手に取る。琥珀色の液体が微かに揺らめいた。
そうだ、前回この紅茶には毒が入っていた。もちろん処刑前に死なれては困るのだろう、致死量には遠く及ばない、体を痺れさせるだけの弱い毒が。聖女リリアンヌの差し金だった。断罪の場で私がみっともなく騒ぎ立てるのを防ぐため、という彼女なりの「優しさ」のつもりだったらしい。
さて、今回はどうだろう。
オフィーリアはカップを口元へと運び、躊躇なく液体を喉に流し込んだ。
毒の味はしない。痺れも来ない。ただの味気ない紅茶だった。
『そう。今回は違うのね』
カップを置き、監視する侍女に視線を向ける。侍女はビクリと肩を震わせ、慌てて目を逸らした。その反応は前回までとまるで違う。前回までの彼女はオフィーリアを純粋に心配し、その身を案じていた。だが今の彼女は何かを恐れ、そして何かを隠している。
「ねえ、少し聞いてもいいかしら」
「な、なんでしょうか」
「あなたの故郷では、今年、青い星屑の花は咲いた?」
オフィーリアの唐突な問いに、侍女は目を丸くした。青い星屑の花。それは侍女の故郷である北方の村にしか咲かない幻の花だ。三年前のループで、彼女が嬉しそうに故郷の話をしてくれた時に聞いた花の名前。
侍女は狼狽したように視線を泳がせた。
「なぜ、その花の名を……いえ、咲くはずがありません。あの花はもう十年も前に、流行り病で全て枯れてしまいましたから」
『十年も前?』
おかしい。三年前の彼女は、確かに『今年も見事に咲きました』と語っていた。これも「歪み」だ。世界の根幹に関わる設定が書き換えられている。
もはや破滅を回避しようなんて気は起きなかった。どうせ何をしても無駄なのだ。王子に媚びを売ろうが、聖女と仲良くしようが、黙って日々を過ごそうが、結末はいつも同じ。ならばこの十三回目の人生は、別のことに使おう。
この世界の「間違い探し」に。
「そう、残念ね」
オフィーリアはそれだけ言うと、立ち上がった。食事はもう終わりだ。これから騎士たちが迎えに来て、断罪の舞台である大聖堂へと連行される。いつもの筋書き。いつもの茶番。
だが今日の私は、ただの駒ではない。観客だ。この狂った舞台を隅々まで観察してやる。
やがて重々しい足音が廊下に響き渡り、牢の扉が再び開かれた。見知った顔、オフィーリアの護衛騎士であるアレス・アイゼンベルクだ。その実直そうな顔には苦渋と、そしてかすかな軽蔑が浮かんでいる。それも前回までと同じ。
「オフィーリア様。お時間です」
アレスは感情を抑えた声で告げる。その腰にある剣がやけに重々しく見えた。彼はいつも、その剣で私の罪を断罪するのだ。国を裏切り、聖女を害そうとした大罪人の首を刎ねるために。
「ええ、分かっているわ、アレス」
オフィーリアは静かにうなずき、彼の方へ歩み寄った。アレスは一瞬、彼女のあまりに落ち着いた態度に戸惑いの表情を見せたが、すぐに職務に戻り、彼女の前に腕を差し出す。その腕に枷をはめるためだ。
鉄の枷が、ガシャンと冷たい音を立てて手首にはめられた。これもいつも通り。
『ああ、でも』
オフィーリアは、アレスの瞳の奥に揺らめく光を見逃さなかった。それは正義の光。だが、あまりに純粋で強すぎる光は、時として影を濃くする。彼の正義は狂信と紙一重だ。前回までのループで、彼が聖女の言葉を鵜呑みにし、無関係な侍女を「共犯者」として拷問していたことを私は知っている。
「行きましょう。王子殿下と、リリアンヌ様がお待ちかねだわ」
オフィーリアは、まるで夜会にでも赴くかのように優雅な笑みさえ浮かべてみせた。アレスはますます眉をひそめ、何も言わずに彼女を促す。
廊下を進む。連行される罪人だというのに、オフィーリアの背筋は真っすぐ伸びていた。もはや恐れるものはない。失うものもない。ならばこの歪んだ世界で、真実という名の刃を見つけ出すまで。
大聖堂の巨大な扉が見えてきた。この扉の向こうに、私の断罪を待ちわびる者たちがいる。完璧な王子を演じることに疲弊し、その瞳の光を失った婚約者ユリウス。無垢な少女の仮面を被り、他人の不幸を糧にする聖女リリアンヌ。
彼らの狂気を、その目に焼き付けてやろう。
そしてこの物語を書いた脚本家を、いつか必ず引きずり出してやる。
扉が、ギィと重い音を立てて開かれた。
ステンドグラスから差し込む光が皮肉なほどに神々しく、十三回目の舞台の幕開けを告げていた。




