『震える悪魔』②
エイカーに申し付けた通り、カーサスは予定通りサヴォタへと出立し、夕暮れまでには宿へとたどり着いた。
エイカーが準備したものの中には、毛織の上着や厚手の下着、やはり毛織の長靴下、毛皮の内着までもが揃えられていた。それを見た同行のサミュエルが揶揄い半分に、荷造りされたものを褒めた。
「クエルクス様は、よほど寒がりだと思われているのですね」
カーサスはそれに苦笑いだけで返していた。そう言う、サミュエルの荷物の中にはさすがに毛皮は入っていない。しかし、その手には妻が編んだという手袋が握られており、なんだか嬉しそうだった。
もちろん手袋が羨ましいわけではない。カーサスも上等の皮手袋を持っているのだ。
寒がりだと思われている。その言葉にただ引っかかり、その手袋を見つめてしまっただけで。
もちろんエイカーではないだろう。そんな気遣い、あのエイカーに出来るわけがないのだ。
――暖炉の火に丁寧な来客報告。
あれほど傷つけたというのに、彼女は俺のことを思い、エイカーに準備させたのだ。
中央部にある王都で一年ほど暮らしていた彼女は、エルバーグリーク王都の温暖な気候も知っている。そして、セファゾドール南部の気候も知っている。
冬に近づく頃にある寒さは、小山ひとつとは言え、確かにダファーラとは別の寒さをカーサスは感じていたのだ。サヴォタの寒さは、空気が乾燥している分、知らぬ間に体の芯を凍らせそうなものだった。
エイカーなどを束ねながら、今、彼女は部屋でひとり何を抱えているのだろうか。そんなカーサスの脳裏には、そこに沁みついてしまったかのように彼女の寝言が繰り返されてしまう。
――兄さま、行かないで
そんな彼女から、庭での戯れという唯一の憩いを奪ってしまった。
荷物を解きながら、そんなことを考えていると、サミュエルが止めを刺してきた。
「それに、クエルクス様の馬、よく手入れがされていて毛艶など本当に素晴らしかった。さすが『デュ』の称号を持つ領主様だと感じ入りましたよ」
――落とされたブラシ。
「あぁ、あれは……兄の馬なのだ」
兄の馬、そう答えることが精一杯の自己弁護だった。そして、話題を変えたかった。
「明日は予定通り、ここの領主に会い、その後はサヴォタの町を自由に見て回ろう。夜はおそらく正体にあずかるだろうから、話題に事欠かないようにしておかないと」
「はい」
柔らかな表情のまま素直に返事をしたサミュエルは、丁寧に手袋を鞄にしまい込んでいた。
※ ※ ※
ルシアは屋敷の応接室で前領主が残したダファーラの昔話を読んでいた。
子どもの寝物語のような、そんなものだが、その土地に伝えられている物を読むことは、土地気質を知ることになる。
この受け売りは第二王子として内政と外政を学んでいたルーベンスの言葉だ。二番目の兄は、明敏だった。
そして、さすがにここも雪に纏わるそんな昔話が多い。
雪獣に攫われる少女。雪の女王に気に入られ心を凍らせてしまった少年。雪山に現れる竜を退治する英雄の話。幸せになる物語は春が終わり。教訓、禁忌などを含んでいるものは、冬が終わり。
太陽の時間が少なくなるここの冬は過酷であり、その恐ろしさを伝えるものだったのだろう。
だからなのだろう。
その雪の中にある怪物が、セファゾドールを指す可能性から遠ざけようと、ルシアは火をくべるのだろう、そう思おうとする。
もちろん、ここはセファゾドールの冬に比べればそれほどでもない。しかし、ルシアは暖炉の火を欠かせないでいた。
いつお戻りになられるか、はっきりと分からない。だけど、お帰りになればきっと寒がられるはずだから。
そんなふうに思うようになった。
それは、おそらくカーサスがルシアと同じ悲しみを抱えていることに触れたから。
エイカーは相変わらずツンとしているが「旦那さまが温かなものをと申されますので」「ご自身のことはご自身でされるようにと、旦那さまからのご命令です」と逐一、ルシアに報告を寄こすようになった。大きな害もなくなった。
おそらく、自分の意思ではないと言いたいだけなのだろうが、ちょうど、この屋敷の主人不在中の暇を伝えた辺りから、エイカーが少しお節介を焼くようになっているようにも思えるのだ。
ルシアはそのエイカーのおかげで、どうして温かいスープを自分が飲んでいるかを、その衣服が誰の思いからくるのかを知ることになっている。
知りたくない……以前ならそう思っていたことだろう。
なんと言っても夫カーサスとはあまり語らうこともない。報告するようなこともなければ、関わることもない人物だ。
だけど、肌寒くなってきた頃から、温かなスープが出されるようになっている。自分で脱ぎ着の出来る衣服が用意されている。
その誰かに想いを寄せると、あの目が思い出される。
『アークに触れるな』
あの茶馬の名だ。
とても怖かった。震えが止まらなかった。カーサスの茶色の瞳の奥には、つららのような冷たさと鋭さがあった。
どうして、気づかなかったのだろう。
アークは、軍馬だ。
カーサスはずっと文官である。
どうして、彼の大切な誰かが戦死したと考えられなかったのだろう。わたしは、彼の悲しみなど考えることなく、ただ、自分の思い出に耽るための道具にしてしまっていたのだ。
パチッ。
ルシアの暖炉の火が爆ぜる音がルシアの意識をその悔恨の念から現実へと引き戻した。
暖炉の火が弱くなっていた。
「奥さま」
その声は、夜の番をしている小間使いのひとりミリディアだった。カーサスがいなければ、屋敷の仕事もほとんどない。しかし、まだ十三で成人も迎えていないミリディアだけは、彼女を預かる者の責として、すべてを好きにさせるわけにもいかなかったのだ。
「あぁ、ごめんなさい。もういいわ」
エイカーに役立たずの烙印を押されている、確かに不器用で気持ちも弱い、だが素直な子だ。それなのに、ルシアの言葉に従わず、彼女が動かなかった。だから肩掛けを羽織り立ち上がったルシアは、もう一度、丁寧に伝えた。
「ミリディア、いいわよ。下がってくれて。廊下の火くらい消しながら部屋に戻れるから。あなたもお疲れでしょう」
「お、奥さま、その、……お眠りになれないのであれば、温かなミルクを、その、準備します」
ルシアはそのまま俯いてしまったミリディアを前に黙ってしまった。そして、その沈黙を『怒り』だと思わせてしまったのだろう。ミリディアが、その頭をさらに下げた。
「申し訳ございませんっ。さ、さ、差し出がましいことを、申してしまいました」
震えるお仕着せの少女。いったい誰に重ねたのか、その様子にルシアの胸が締め付けられた。
「違うの。違うのよ。あなたのその気遣い、とてもありがたかったわ。でもね、あなたにだけ暇を与えられなかったの。だから、ゆっくりする時間をしっかりとって欲しいのよ」
ルシアを潤んだ瞳で眺めていたミリディアが、大きく頭を振って、まるで春を待ちわびていた雪解けの川のように、勢いよく言葉を流し始めた。
「お昼は自由にさせてもらっています。奥さまのお陰で勉学の時間もたっぷりあります。だけど、それよりも、名前を憶えていただいていたことが、嬉しくて……。だから、その、私にできることで、ご恩を返したくて」
必死になってルシアのためになろうとする。それは、受け取るべき好意だと思った。
「温かいミルク。そうね、いただくわ。持ってきてちょうだい」
「はい」
ルシアの許可に嬉しそうにする泣き笑いの彼女の背を、ルシアはそのまま見送り、消えてしまった暖炉の中を、ただ見つめ、自室へ戻ることにした。














