『笑わずの姫』④
あの夜から、二十日ほどが経過していた。
ルシアもあの二日後から、屋敷内にある資料室で領地のことを勉強していたり、庭の花を屋敷に飾ったりしながら、客人をもてなしている。そして、エイカーを通じてではあるが、家長の了承を得ること、その報告も忘れない。
王女とはいえ、姫として可愛がられていただけでもないのかもしれない、そのようにカーサスはルシアの認識を改めていた。
一方で、エイカーはと言えば、今もルシアを敵視している雰囲気を醸し出し、『あの女に指図された』とでも言わんばかりだ。
エイカーはもう少し冷静に判断できる女かと思っていたが、そうでもないらしい。これについては人事替えも念頭に入れねばなるまい。
そこで、カーサスは灰色の空を眺めた。
エルバーグリークよりもセファゾドールよりになる領地ダファーラの空は、あまり晴れないそうだ。
カーサスの育った空は、ここではない。この空の色は、失ったものを彷彿させる色だ。
その点においても、戦争で家族を失わなかったエイカーは、適任だと思っていたのだが……。
カーサスは視線を戻し、結論へと思考を向ける。
いや、まだその時でもないのかもしれない。第一エイカーの人事を握っているルシアからの苦情もない。カーサスは外出前のエイカーとの会話を思い浮かべながら、人事は保留を決めた。
ルシアは準備されている朝のパンを半分程食べているという。残りの半分はどこかに隠している。意地汚いことだとエイカーは言うが、別にそうでもないだろう。この信用のない場所で生きていくには、いつ途切れるとも分からない食べものの確保くらいはしておきたいものだろう。
その行動の一因に『エイカー』があるようにもカーサスには思えたが、ほんとうにエイカーはいびりに特化した目端がよく利くようだ。
しかし、まだ秋の入り口だというのにここはなんて寒いのだろう。カーサスはコートの袷をぎゅっとしめながら、再びダファーラを歩き出した。
ルシアよりも一か月早くこの土地に移り住んでいたとは言え、カーサスはまだ領地をよく知らない。セファゾドールとの交流も盛んだった場所であり、元は、セファゾドールの商人や奉公人もたくさん居を構えていた場所でもある。初めの一週間で、前領主から引き継ぎとして、この町の主要を教えてもらった程度だ。
だからこそ、ここを任されるということは、王の信認を得ている証明にはなっている。
ただ着任早々のカーサス自身が始められる事業というものもなく、前任の領主の仕事に準えながら、土地を巡り、戦後と戦前を比べることくらいしかない。
それに、あの王が何を目的に、カーサスをここに着任させたのかすらも分からない中、下手な動きは危険だ。
民はよく言えば人懐っこく、悪く言えば裏切りをすぐに行いそうな性格の者が多かった。
商いの町なのだ。
益があれば、傾く。
だからなのか、悪い噂としてではなく彼らは当たり前のようにセファゾドールの話をした。
毛織物の輸入を再開したいのだが。
いつになったらセファゾドールへ向かっても構わないか。
あちらの親戚の安否を知りたいのだが。
中には、戦時中にセファゾドールの兵を匿ってやったお礼にもらった、と鉄製のナイフを自慢するものまでいる始末だ。
しかし、アレキサンドルは、それをカーサスには知らせていない。
あの王が、知らぬわけもなかろうに。
カーサスはそんな彼らにあいまいな微笑みを返し対応する。カーサス自身、この案件をどう扱えば良いのか考えあぐねいているのだ。
そして、カーサスは一軒の家の前に立った。
「先月よりここを任されたカーサス・デュ・クエルクスだ。主人はいるだろうか?」
足音がふたつ聞こえ、「こら、ヤーチェ」という女性の声のあと、扉が開いた。人好きのしそうな、奥方である。確か、サーシャ・ギャバンズだったか。
そう思いながら、カーサスが「挨拶が遅れまして」と軽く頭を下げると、彼女の口から矢継ぎ早に言葉が発せられた。
「まぁまぁ、新しい領主様。頭をあげてくださいな。すぐ主人を呼びますので。ほら、ヤーチェ、お父さんを呼んできて。ほら、さっさと行く。領主様、ここは冷えます。どうか中へお入りください。小さな家ですが、風くらいは防ぎますので」
招き入れられた家は、領主の屋敷とは違い、筒形で簡素に出来ている。このあたりの民家とあまり変わらないのかもしれない。
応接室のすぐ横に玄関があるような家。そして、さきほどから玄関側の入り口から、ここのヤーチェという娘なのだろう。恐るおそるという体で、カーサスを眺めているのだ。そして、玄関とは反対の入り口から、ここの主人が現れた。
ここの主人は、前領主の時代からここダファーラの防衛を担ってくれている武官の家系だった。しかし、彼はカーサスを見下すことなく、きっちりと敬礼をした後、カーサスの前に腰を下ろした。
「もうこちらには慣れましたかな?」
「いいえ、まだ」
そう答えたカーサスよりも十程年長の貫禄で、主人は形式的な微笑みを扱った。主人の名前はヤン・ギャバンズ。称号は持っていないらしい。
確かに武官の称号は、この辺境ではなかなか賜れないものなのだろう。
武官の称号は指揮する正式な部下を持って初めて賜るものであり、このギャバンズのように土地に住み、土地の者と共に町を守るような者は、それこそ殉職でもしない限り称号は持てないという。
だから、武官は文官に横柄なものが多いのだ。
「中央部からだったら、こちらの冬は堪えますよ。まぁ、ます温かいうちにどうぞ」
穏やかに微笑むギャバンズは、先ほど奥方が準備してくれた温かなミルクを飲んだ。カーサスもつられるようにして、ミルクを口にする。
ホットミルクなどいつぶりだろう。確かに温まるものだ。
そして、ふと挨拶が遅れた謝罪も兼ねて訪れていたことを思い出した。
「私としたことが。ご挨拶に遅れてしまい、申し訳ないことを……」
そこで言葉を止められた。
「気にしていません。あなたも大変だったことでしょうし。それに、わざわざ挨拶に来られた領主はあなたが初めてです」
一瞬、ギャバンズの言葉の意味が全く分からなかった。しかし、意味が分かった途端、言葉が突いて出た。
「いや、いかに慌ただしくとも町の安全を守っていただく者に、何の挨拶もせずだなど、考えられない」
慌てるカーサスに彼は静かに笑った。
「今までの領主はここでミルクすら飲んだことがない」
そして、視線を玄関の方へやり、「ヤーチェ、入ってきなさい。いつまでそこにいるつもりだ?」と娘の名を呼んだ。
しかし、その呼び声とともにヤーチェの姿が外へと消える。半束ねした黒い髪を赤いリボンで結んでいた。
「申し訳ない。情けないことにまだ人見知りが強くてね」
「いいえ、お気になさらずに」
カーサスは、少女の残像を紛らわせるようにして、ギャバンズに微笑みを返した。




