『笑わずの姫』③
うっすらと日の光を瞼に感じたルシアは、体中の倦怠感とともに目が覚めた。
それもそのはずだ。
ベッドを枕に、座りながら眠っていたのだ。きっと長旅の疲れも出たのだろう。
それでも、もう眠れそうにはなかった。
泣き過ぎたのか、叫び過ぎたのか。頭は朦朧としていて、喉もひりつく。何も考えたくなかった。そして、だるい身体をもう一度、ベッドに寄り添わせたのは、夢の中で三番目の兄であるエヴァンを見た気がしたから。もう一度、会いたい、そう思ったから。
だけど、ちぃ兄さまは、行方知れず。最後に死神と戦ったということだけが知れている。
だから、おそらくもう……。
そう思えば、自分自身を抱きしめたくなる。
「兄さま……ルシアはもうファゾリナでもないのです……」
ルシアは止まらない涙を抑えるようにして、両手で顔を覆った。
身につけている花嫁衣装のすべては、エルバーグリーク王妃、アリーナが自ら選び、誂えさせたものだった。
「娘が恥を掻いてはいけませんからね」
優し気な微笑みは、完全に偽りでもなさそうだった。
おそらく王妃は、言葉通り『義理』の娘でも嫁ぎ先で恥を掻かせたくないと本気で思っていたのだ。
――そう、本気で。
ルシアはそれが恐ろしかったのだ。
ただ、王妃は偽りも隠していた。
ルシアが恥を掻くということは、王家の資質を問われるということだ。もし、ルシアがあのエルバーグリークの悪態ひとつでもついてみれば、どこに派生するか分からない。
だから、王妃は、ルシアが城に軟禁されている間も、ずっとルシアを高級な人形のように大切に扱ってくれてはいたのだ。
たくさん装飾を身につけさせられた。人に手伝ってもらわなければならないドレスばかりを与えられた。ルシアは、ひとりになることを許されなかった。
そう、ルシアは囚人ではなかった。捕虜でもない。
だけど、生まれ育ったセファゾドールの城は壊され、実父母であるセファゾドールの王と王妃、王太子をはじめとした三人の兄たちも失い、自由もなかった。
それでも、弟たちのために生きようと……していたのだ。
それなのに、あの日。あの王妃が現れた日。この縁談が結ばれた決定的な日。
「今日から貴女は私たちの娘のひとり。貴女はルシア・ダランベール・イルナ・エルバーグリークと名乗るのですよ」
その王妃の言葉が発せられた時、ルシアは名前まで失ってしまった。それは、弟たちとの絆すら断たれた、そんな瞬間に思えた。
そして、昨夜。
あの侍女たちが「身につけるものだけは一丁前ですね」と、醜悪な笑みをルシアに向けたのだ。思わず睨み付けてしまった、それを皮切りに、彼女たちが弱き女を演じ始めたのだ。
「まぁ、恐ろしいわ。そんなにも睨まれては」
「ほんとうに、そんなでは旦那さまもお可哀そうだわ」
「まるで獣のよう。いいこと? ここは悪名高きセファゾドールではございませんのよ。エルバーグリークの女は、優しく嫋やかに振舞わなければ」
「ほら、お笑いなさいな」
「ねぇ、笑えないの?」
「笑えば、旦那さまもあなたを少しは愛してくださるかもしれないわよ」
嘲りあう彼女たちは緩めるはずだった衣装の組紐を、あろうことか、
――思い切り締め上げたのだ。
息が止まるかと思った。そして、膝をついてしまったルシアを立たせ、再び彼女たちの仕事である、花嫁衣裳を取る作業に取り掛かろうとしたのだろう。
心なき謝罪を言いながら。戯言を言いながら。
その時も自身こそが強者であると彼女たちは思っていたのだろう。
しかし、彼女たちが作業をそれ以上進めることはできなかった。
ルシアが、命令を下したから。
たとえ、お前たちが戦勝国の人間だとしても、
わたしは、王の娘としてやってきている。
エルバーグリークの王が何を考えて『イルナ』をルシアに与えたのかは分からない。
しかし、そう、ルシアは『王女』としてあの女たちの上に立っていた。
威厳の持ち方も知っていた。使う場面や相手によって響かせ方を変えることも、知っている。
エルバーグリークの女たちがどんな者なのか、ルシアは知らない。しかし、セファゾドールの女たちは、少なくとも誇りを持って立っていた。
――あのお優しいお母様でさえ、そうだったもの。
侍女はもとより小間使いでさえ、女王族の称号を持つ者に、あのような態度を取ったことはない。
そんな敬意も払えないような者たちに、触れられるような肌は持っていない。
「お前たちが私に触れる資格があるなどとお思い? 躾がなっていないのはお前たちの方だ。今すぐ下がりなさい」
ルシアは瞳の奥の炎を静かに保ちながらも、だが、叫んだ。
「何をしているのだっ 出て行かぬかっ! 出て行けっ」
動かぬ彼女たちは、ルシアが本当の獣に見えていたのかもしれない。前進するルシアに気圧されるようにして、必然的に退室させられたのだ。
ひとりになったあとは、エルバーグリークのすべてをその身からはぎ取っては、扉に向かって投げつけた。
ルシアは遠い過去のようにも思える昨夜にまで記憶を辿らせると、急に胸の奥が冷たくなるのを感じた。
もう、この先、誰もこの部屋には入ってこないのかもしれない。
このまま、死んでしまうのかもしれない。
だけど……それでも、いいわ。
そんな風に思った矢先、扉の外から声がした。
「起きているか? 昨夜はすまなかった。エイカーも反省している。着替えと食事も用意させよう。気が向けば、それを使うといい」
低く穏やかな風に似た声。
男性のものだ。
そして、頭痛を覚えるルシアが辿り着いた男性の名は、カーサス・デュ・クエルクス。
この婚姻で『デュ』の称号を得た出世に目がない、顔もよく知らない男の名前だった。




