『笑わずの姫』②
ルシアの寝室を後にしたカーサスは、侍女長のエイカーにルシアを任せることを指示し、そのまま自室ではなく執務室へと向かった。
父であるフランツが来ているのだ。そして、父は執務室へやってきた息子カーサスを見るなり、言葉を発した。
「どうだ?」
「どうにもこうにも」
――あれは、野生動物よりも酷いですよ。
先ほどの惨状を伝えた後、カーサスは、そんな言葉を感情なく落とした。
「そうか」
「表向きにすら、私には自信が持てません」
そう言った瞬間に、たった一瞬のふれあいが指先によみがえった。
わずかなぬくもりに、力なく解けていくか細い指。そして、儚く幼き声に疼く自身。
突如として氷水に落とされたような、そして、今もその指先が冷たさに震えてしまう、まるでそんな疼きだった。
お互いに傷が深すぎるのだ。
しかし、アレキサンドル王は、そういう王だ。カーサスは自身の指先に力を入れた後、心配の声を静かにあげた。
「父さま……母さまは……」
カーサスは家族だけの時間には、父のことを『父さま』と呼ぶ。
そう、彼の薄い感情が唯一表れる合図のように。
「心配するな。まだジョバンニの称号の話しかしていない。お前も辺境で仕事をすることになったと、ただ伝えてある。息子二人の出世に少し回復はしたようだが……」
いつまでもついていられる嘘でもなかろう。
カーサスの母は、兄のジョバンニの戦死報告以来、臥せっていたのだ。
騎士などさせるべきではなかった……それを口癖のように語っては、泣き出す。
そんなところへ、アレキサンドル王からの召喚命令があったのだ。
呼び出された理由は、もちろん書状に書かれてあった。
ひとつ、国のために果敢に戦い抜いたジョバンニ・クエルクスに英雄の称号である『カン』をあたふること
ひとつ、カーサス・クエルクスにおいて、その知識を生かしエルバーグリーク辺境の土地ダファーラを治めるよう、務めること
その証として、国に仕える者の称号『デュ』をあたふ
カーサスにおいては領地拝領となる。
これは、戦時下の文官家系、クエルクス家にとって、あり得ないくらいの褒賞だった。
しかし、アレキサンドルの思惑はここではなかったのだ。
だから、彼は跪く父子に、さも当たり前のようにそれを尋ねてきた。
「フランツよ、息子の年を申せ」
「二十六でございます」
カーサスの年齢が何に関係するのか、辺境を任せられるには年齢が若いと、取り下げられるのだろうか。カーサスの心配は、まずそこだった。
なんと言っても、フランツが『デュ』を賜った年齢よりも、十も若いのだ。だが、それでも異論はなかった。
しかし、アレキサンドルは、顎をさすりながら彼の年齢を小さく復唱し、続けた。
「良い頃合いだ。俺の娘を娶らせよう」
それがルシアだった。
父フランツは脂汗を手に握ったことだろう。カーサスも息を呑んだ。
アレキサンドル王は、兄の戦死を知っているのではなかったのか?
それ故の、称号だったのではなかったのか?
カーサスの腹の中は何かが沸きあがってくるかのように、荒れ狂っていた。そして、そんなカーサスの腹の底にあるものを、アレキサンドルは確かに知っていたのだろう。
彼は、面白そうにわずかに口角をあげた後、カーサスに発言を許したのだ。
「カーサスよ。良い、言ってみろ」
カーサスは視線を下げたまま、言葉を選び、言葉を飲み込み、そして発した。
「陛下、それは兄の戦果の褒賞として賜る姫ということでしょうか?」
「すでに俺の養女としてある。正式な俺の娘だ。不服か?」
本来ならば、喜ぶべき場面だ。王女を賜る。それは、王族との関係を太くするということ。それはカーサスにも分かっていた。それなのに、カーサスの言葉は、皮肉に満ちたものしか出てこなかったのだ。そしてそれは、『しかし、そ奴は、セファゾドールの……』その言葉だけを、やっと呑み込んだ果ての拒絶の言葉だった。
だが、それも陛下は楽しんでいたのだろう。
「いいえ、陛下。ですが、憎しみを持つ相手をいたぶる趣味を、私は持っておりません」
まるで赤子をあやすような、幼き子を揶揄うかのような。今を時めく王の表情は、不敵に満ちていた。
すべて掌の上で転がせる範囲だと言うように。カーサスは、その王に『発言だけ』を許されたのだ。
「愛せよとも好きにしろとも申しておらぬ。表向き仲睦まじい夫婦を演じるだけで良い」
――それで民が喜ぶ
城に囚われていた敵国の姫は、セファゾドールでは愛されていたのだろう。
そんな彼女に、自由を与えたようにも映るのだろう。
任地として与えられた辺境であれば、確かにカーサスの聞こえはよくなるのかもしれない。
いや、領地の者たちは、ルシアこそ嫌えど、カーサスには同情するかもしれない。
任された場所は、今回奪い取った土地ではなく、元々のエルバーグリーク領ではあるのだから。
いや、しかし、下手を打てば、王族との関係を優先したいだけの、裏切り者と映るかもしれない。そして、それは、アレキサンドル王の望むシナリオではないのだ。
だからか、その時にかけられたアレキサンドルの言葉が、カーサスに重く圧し掛かる。それと同時に、あのルシアの姿が脳裏に浮かんだ。
放っておけば、自身を切りつけてしまうかもしれない、危うい少女の姿だ。
黙ってしまったカーサスの背中に温かな父の掌が乗せられた。
「陛下もあのように仰っている。夫であろうとしなくても良い」
「はい……」
それが彼ら夫婦の初日の夜だった。




