『笑わずの姫』①
あぁ、嫌なものを見てしまった。
カーサスの視線の先には、女たちの井戸端会議があった。
しかも、あの井戸端は、悪意に満ちている。
ここは、屋敷内だぞ。しかも、政略結婚のために押し付けられた姫君、ルシア・ダランベール・イルナ・エルバーグリークがいるだろう部屋の前。
アレキサンドル王の茶番のひとつ。
そう思えば、彼女も被害者なのだろう。
そんな風に、カーサスも思ってはいる。
「何をしているんだ?」
「まぁ、旦那さま。お帰りなさいませ。お出迎えも出来ず……その……それが、あの姫君に押し出されてしまいまして」
仰々しく頭を下げた侍女長のエイカーと小間使い達は、まるで波が引くようにしてカーサスから下がっていく。確かにこんな日に屋敷を空けていたのは、いけなかったのだろう。しかし、この状態にため息が出そうだった。
「何があった?」
聞かずとも予想は出来ていた。だから、それはエイカーに釘を刺すための言葉でもあった。
旦那さまに見合うようお綺麗にして差し上げましたのに。
旦那さまに失礼のないように、ここでの礼儀をお教えしましたのに。
少しは笑えば、可愛げも出てきましょうに。
そう、すべてが旦那さまのため……だ。
「よく分かった。だがエイカー女史。彼女は王から賜った大切な人物だ。お前たちはその『ルシア・ダランベール・イルナ・エルバーグリーク』姫に仕えるためにここにある。貴女はそれを忘れて何事かと聞いている」
エイカーの顔が引きつる。
ルシアがアレキサンドルの戯れの一つだと思い出したのだろう。
ルシア・ダランベール・イルナ・エルバーグリーク。
今や正式なアレキサンドル王の娘である。
しかし、彼女の過去の名はルシア・ファゾリナ・イルナ・セファゾドール――一年ほど前まで、敵国であった国の姫である。そして、ここエルバーグリークには、その争いの中、親族を殺されてセファゾドールを恨む者が多くいる。
しかし、その国、セファゾドールは今や存在しない。
新たな統治者が立ち、アレキサンドルの掌の上、踊らされているのだ。
扉を押し開くと、ルシアの狂乱の跡がカーサスの目に飛び込んできた。彼女の抑え込んでいた感情の堰が決壊し、ついに溢れ出てしまったのだろう。
エルバーグリーク王家より身につけてきた真珠のネックレスは引き千切ったようだった。繊細な銀製ティアラは床に叩きつけられたのか、折れている。
振り返った場所にある扉の傷は、エルバーグリークの象徴でもあるエメラルドの石が付けたものかもしれない。
彼女の耳にあっただろう大振りの緑の石のイヤリングが、扉近くで壊れて飛び散っていた。
しかし、部屋の惨状に反して、部屋の中は静かだった。
緑の石を拾い上げたカーサスは、視線を部屋の奥――ベッドの上へと向ける。
眠っているのだ。彼女が真新しいシーツに寄り掛かるようにして、腕を枕に眠っていた。薄緑の婚礼衣装には、金糸とフリルがふんだんにあしらわれており、この上ない贅を語っている。しかし、その様子は庭先に落とされ、誰にも見向きもされぬまま泥土に汚れていく一輪の薔薇のようにも思えた。
カーサスはそんなくたびれた彼女を起こさぬように、そっと見下ろし、息を吐く。
その寝息は安らかだ。起きそうもない。
カーサスは、そんな彼女の隣に腰を落ち着け、その顔に掛かる黒髪を払ってやった。
涙で頬を濡らしたままの彼女は、まだまだ幼い面持ちの少女にしか見えない。
しかし、近くで見た彼女の婚礼用ドレスは乱れていた。まるではぎ取ろうとしたかのような、そんな赤い筋が胸のあたりに幾筋も引かれている。
ひとりで脱げず、どうにもできなかったのかもしれない。
花嫁衣装は、背中の組紐がきつく縛られていることが多いと聞く。
エイカーにはこの紐は緩めるように言付けておこう。
そう思い、彼女に掛布団をかけようとしたとき、掛布団を握りしめていた彼女の指がカーサスの指を握りしめた。
「兄さま……いかないで……」
寝言だった。
眠った彼女の指を解くことは、とても簡単だった。
今年十六になったばかりだという。
彼女は幼い。
この戦争で騎士であった兄を失っているカーサスにとって、それだけが救いだった。




