忘却の名、雪の姫
それから、少し時間が経った。
治療院の一室で、
世一と亜華巴は静かに月兎の目覚めを待っていた。
その時だった。
「……うぅん」
かすれた声が、確かに聞こえた。
「おい!」
世一が身を乗り出す。
「大丈夫か、月兎!」
「……っ、ほんとだ……!」
亜華巴は一瞬目を見開き、すぐに踵を返した。
「すぐに先生呼んでくるね!」
ぱたぱたと足音が遠ざかる。
月兎はゆっくりと上体を起こし、ぼんやりと天井を見上げた。
「……ここ……」
「説明は後だ。とりあえず水飲め」
世一は近くに置いてあったコップに水を注ぎ、差し出す。
月兎はそれを受け取り――
一息に飲み干した。
「……ありがとう。もう一杯、もらえる?」
「おう」
もう一杯。
それも、迷いなく飲み干す。
ようやく呼吸が落ち着いたところで、
世一は今回起きた出来事を、最初から最後まで語った。
敵の襲撃。
豪凱との死闘。
温羅の出現。
そして――月兎が倒れるまで。
「……そっか」
月兎は静かに頷いた。
「途中までは、なんとなく覚えてるんだけど……
そこから先の記憶が、すっぽり抜けてる」
一拍置いて、ぽつりと続ける。
「……そういえば。
豪凱さんの遺体は、どうなるの?」
「街の外だが、簡易的な墓を作るそうだ」
世一は答える。
「遺体は医者が確認してからになる。
時間はあるから、どこに埋めるかは……お前が決めればいい」
「……うん」
月兎は、小さく笑った。
「あの人には、色々と学ばせてもらったからね。
ちゃんと扱ってもらえるなら……それだけで、安心だ」
笑顔だった。
だが、その奥には確かに、深い悲しみが滲んでいた。
そこへ、慧一郎が部屋に入ってくる。
「おや、目を覚ましたんですね」
月兎の顔色を確認しながら、穏やかに問いかける。
「身体の調子はどうかな?
違和感のあるところや、記憶の欠損はない?」
「……記憶は、ほとんど大丈夫です」
月兎は少し考える。
「今まで出会ってきた人の顔も、名前も……思い出せます」
だが――
「一人だけ、います」
慧一郎が顔を上げる。
「知っているはずなのに……
顔も、名前も、何も思い出せない人が」
その言葉に、慧一郎は眉を寄せ、黙り込んだ。
原因を探ろうと口を開きかけた、その時――
「邪魔するぞ」
低く、凛とした声が割って入った。
振り向くと、そこに立っていたのはユキヨだった。
一同が慌てて姿勢を正そうとするが、
ユキヨは軽く手を上げる。
「すぐに帰る。気楽にしておれ」
そう言って、まっすぐに月兎のもとへ歩み寄る。
「月兎。具合はどうじゃ?」
その声は柔らかく、
どこか、愛おしいものを見るような眼差しだった。
「まさか、もう起きておるとは思わんかったぞ」
だが――
月兎は、少し困ったように首を傾げた。
「あの……」
そして、はっきりと告げる。
「あなたは……誰ですか?」
静寂が落ちた。
「俺のことを、知っている人ですか?」
月兎が“思い出せない一人”。
それは――鬼妃ユキヨだった。
ユキヨの表情が、わずかに曇る。
言葉を失ったまま、
部屋には重い沈黙だけが満ちていった。
――こうして、
雪霞を揺るがした戦いは終わりを迎えた。
だが、失われた記憶と、
取り戻せない何かを残したまま。
物語は、
次なる闇へと静かに歩みを進めていく。




